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『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(4)あなたはここからなにを考える?

座談会報告の最終回は参加者との質疑応答です。

座談会報告の最終回は、質疑応答特集。北丸雄二、小倉東、永易至文3人の語りを、聞き手はどう受け止め、なにを問いかけるか。「対話と議論」の現場を実況中継。そこにはきっとあなたの疑問と、つぎなる行動へのカギもあるはず。

* この座談会は、語り手のひとり小倉東さんが新宿二丁目で経営する「ホモ本ブックカフェ オカマルト」で、トークライブの形式で開催されました。

* 本座談会は、男性シスジェンダー・ゲイ指向の3人の視点で語る特徴と限界があります。性的マイノリティ全体を指す場合とゲイを指す場合が、区別なく「ゲイ」と表現されたり、自称として「オカマ」「ホモ」「レズ」が使われたりすることがあります。あらかじめご了承ください。

参加者からの問いかけや意見

永易 いろいろお話ししてきましたが、ここで打ち止めにして、最後に残った時間は会場との質疑応答、意見交換にあてたいと思います。

発言者A フランス大統領選で極右勢力のマリー・ルペンを支持したLGBTのことが話題になり、米国でも「オルタナライト(トランプ支持のLGBT)」がいます。それらをどう見ていますか?

北丸 ゲイに限らず、なにか自分がユニーク(唯一的)であることを誇りたい、それが自分の拠り所だという心の動きがあるのでしょう。「自分は頑張ったし、差別とかにも傷つかないぞ」とことさら自慢するというか、ミッツ・マングローブさんもその類いの発言をしてましたね。

でも、それを自慢しても仕方ない。ゲイに限らず自分がユニークな存在であろうとすることは素晴らしいけれど、ユニークであることは逆張りすれば得られるというものでもありません。

マイノリティがマジョリティのアイデンティティを仮装するのは「名誉白人」とか歴史的にも枚挙にいとまがないのですが、ここでもまた同じことが繰り返されているわけです。近々、またアメリカに行くので、その辺もさぐってみますね。

発言者B ホモファイル運動について伺います。これまでも二丁目から距離をおいて、自分たちは一般の人と変わらない市井のゲイです、というスタイルで訴える団体や個人が日本にもいました。当時の二丁目系の人は、少し薄暗い世界の住人(笑)といった姿を自己のアイデンティティにしていた気がします。

ところが、いま二丁目になじんだ人たちが、自分たちこそゲイの「ふつー」の感覚を代弁していて、運動に出ている人たちを「行き過ぎ」だ、彼らはゲイの代表なんかじゃない、と激しく非難する現象があります。みなさんはそれをどうご覧ですか。

小倉 二丁目でゲイたちが能天気にキャッキャ騒いでいるところを、ミッツ・マングローブと通りすぎたときに、ミッツが彼らを指して「まーさん(マーガレットさん、小倉さんのこと)、これ、あんたのせいだからね」と言ったの(笑)。

すいませんとしか言えませんでしたが……。バディはハッピーゲイライフは伝えたけど、それに乗せて本当に伝えなきゃいけなかったなにかを伝え切れてないんじゃないか、という反省はずっとあります。

「普通」ってなに? 「すべてのことは政治的である」

北丸 ハッピーゲイライフの提言は大事なことですよ。ただ、変態(クィア、queer)というのは、自分の顔を、アイデンティティを、一つに限る必要はないという啓示のことなんです。ハッピーでもあり、あるときは政治的、あるときは芸術的、あるときは性的であるという、多面的な顔の戦略のことをクィアという。

「ふつーであれば非政治的(ノンポリ)」で、「政治的だとふつーではない」なんて全然ハッピー(ゲイ)じゃないよね。すべてのことは、ベッドの中までみんな政治でもある。だから、二丁目ノリも政治的プロテストも、全部楽しみましょうよ、そのための「ゲイ」なんだから。

永易 ホモファイルでいえば、90年代の「府中青年の家裁判」は、記者会見ではスーツ着てネクタイ締めて、私たちゲイも市民社会内部の人間なんです、東京都の理不尽な仕打ちに対し、「暴力革命」なんかじゃない、司法制度にのっとって粛々と訴えている一般国民です、とやったわけです。

当時その言葉はまだなかったけど、コスプレです。それで伝わるんだったらスーツも着ましょう、ヒゲもそりましょう。でも、夜はスーツ脱いでクラブではっちゃけよう。だから自分を「ふつー」の位置において活動家を一方的に断罪する言説には、なに言ってんの、人間の顔なんていろいろ、使い分けりゃいいのよ、の思いなんですね。

発言者C LGBT運動は平等と市民社会への包摂を主張していると思いますが、それを攻撃する当事者のなかに、逆に自分たちは特別の存在でいたい、平凡なふつーの人間なんかでいたくないという情動がある気がしてなりません。

アンチ運動派の人に2種類いて、ほっといてくれ、まったく無関心という人と、自分に自信があって(そこでは過去のクローゼットな自分を忘れて)、こういう運動なんかいらないんだと主張し、そのことで自分の特別性を感じたい人、この2種がある気がするのですね。

小倉 それってまさしく文学的課題ですよね。ふつうでいたいけど、ふつうではありたくない自分のありようをめぐるのが文学だと思うので。

北丸 そして、その二つの言説はぜんぜん矛盾しないということを言いたい、伝えたいな。

小倉 私はクラブ業界と関係が深いんですが、とある人気のゴーゴーボーイが「自分たちは普通だ、騒いだり過剰な保護・支援を求めたりする必要はないんだ」とさかんにツイートするんですよね。

でも、あんたたち自体が二丁目ヒエラルキーの上層にいる特権階級で全然ふつーな存在じゃないだろ、と。そこで文学的に解釈すると、彼らはエディプスを求めてる。多くの人に愛されたい、多くの人の目に触れることが自分の原動力になる、と。

そういう人って「保守」に寄りやすいのかな? だって、権威から愛されることが快感なわけだから。だから、そういうメンタリティーには理論的反論は通じないから、私はただただ呆れて見てました。

永易 こういう精神分析的なことって難しくって、ジャック・ラカンとかアルチュセールとか、そういう話になるのかしら……。だれか賢い人、よろしくです。

「おまえはゲイの代表者じゃない」 教育どうする?

発言者D 僕は自民前抗議活動とか、その種の街頭行動を、どちらかというと熱心にやってきたほうですが、それに対して「おまえはゲイの代表じゃない」「抗議はLGBTの総意じゃない、一部の声だ」みたいなことをネットで書かれるので、僕はただ自分がムカついたことを叫んでいるだけだと返して炎上したことがあります。

永易 この「代表性」の問題も昔から言われ続けていることで、活動に出て来ている人は自分以外のだれをも代表していない、自分のために運動の場に出てきているって、もう決着も結論も出ているのに、あいかわらず言う人は言うよね。

リブ運動を批判しながら、ずっとリブのことが気になってるんでしょう。私は「活動失恋組」と言ってて、世が世なら自分が運動の中心に立ちたかったのかもしれません。

北丸 だから、これも教育なんだよ。毎年、新入生が入ってくるわけで、その人たちに継続的に教える教育係をだれかやってほしいよ。

永易 アメリカだとそういうことはだれがやっているんですか。

北丸 学校教育で教えるよ、政治教育として。LGBTにかぎらない、市民社会や民主主義の原則として。

発言者E 対話というと、われわれに身近なのはネット上でのやりとりですが、たいていそれは対話にならず、罵詈雑言の投げつけあいで終わります。ネットの限界は承知のうえで、ネットでの対話を実のあるものにするためのアドバイスはないでしょうか。

小倉 噂話や陰口など、「言説」以下のものにも僕はある種の価値があると思っています。見るにたえない言葉の数々も、どういう背景で、なにを含意して話されたのか、ていねいに読み解くと、見えるものもあると思う。そういう研究にも手をつけたいと思っている。あとは俗にいうメディアリテラシーを磨くことでしょうか。

北丸 ツイッターでは基本的に議論しないことにしてるし、そもそもできないよね。文句つけてくる人でもこりゃ脈があるなと感じた人には返事を返そうと思うけど、ただただ吹っかけるだけの人だなと判断したときは投げちゃう。議論する場じゃない。

永易 私もツイッターは情報収集やお知らせに使うもので、議論をしようとは思いません。ずっとネットで呪詛をぶちまけ続けている人がいますが、それにていねに付き合うことを、「対話」とも「議論」とも思いません。そんな「生産性」のないことはしたくないわ。

そもそもネット依存症は治療の対象で、こちらも病気が感染しないように気をつけます。逆に、少しでも顔の見えるかたちで、相手の呼吸を感じながら話す場----今回のようなコミュニティ感覚のある場を、つくっていきたいと思っています。

文化も政治も。足を引っ張り合う時間はない

発言者F 私は好きで先週も見に行ったんですけど、「星屑スキャット」や「二丁目の魁(さきがけ)カミングアウト」、こういうおねえユニットのファンが、ノンケ含めいっぱいいます。ネット空間上の攻撃的な論調とぜんぜん位相の違うところで、大衆文化的に理解や受容がどんどん進んでいますよね。

北丸 80年代のエイズのときにアメリカでおびただしい数のドラマ、映画、文学、コンサートなどなど大衆文化的な作品が生み出され、人びとの意識を変えていったことが思い出されます。

もちろん、そういう文化活動だけでいいわけではなくて、政治的な言葉や振る舞いも必要。あれも必要、これも大事、だからみんなやろうよ、と。多方面からおびただしい数の実践があって、やっと少しだけ世の中が変わるんです。あれはダメ、これではダメと、たがいに足を引っ張り合ってる場合じゃない。

発言者G その、いろんなことをいろんな人がやればいいという無言の役割分担が、なぜできないのでしょう。

永易 それは僕らもみずからを省みて、ホモのホモ嫌い(同族嫌悪)ではないけど、彼らとは違うんだと言うためだけの運動になっていたら、本当の目的やマトを見失うなと思って気をつけています。

北丸 みんな余裕や自信がないからだよね。自分のことが信じられれば、汚い言葉で他人をけなしたりツマンナイことに憂き身をやつしているヒマなんてないですよ。時間は足りないんだから。

【1回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(1) 内から、外から、バックラッシュが始まった?!

【2回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(2) LGBTブームの「功罪」と、「過激な活動家批判」のゆくえ

【3回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(3) マイノリティの分断と内部対立を超えて


【北丸雄二(きたまる・ゆうじ)】

北海道江別市生まれ。毎日新聞記者、中日新聞(東京新聞)ニューヨーク支局長を経て、1996年にフリー。在NY25年ののち、現在は日本に足場を移す。評論著述多数、TBSラジオ「デイキャッチ」ニュースクリップ月曜担当等。小説「フロント・ランナー」翻訳のほか、劇作訳出も多い。小説家としては1983年、文芸誌『新潮』掲載がデビュー作(その後、同社より刊行)という因縁話も。

【小倉東(おぐら・とう)】

1961年東京生まれ。94年、新ゲイ雑誌『Badi』創刊にかかわり、「僕らのハッピーゲイライフ」路線が圧倒的支持を受け、現在の日本のゲイカルチャーの方向性を決定づける。ドラァグクイーン「マーガレット」としてもクラブ文化の中心で活躍。現在、その膨大なゲイ関連蔵書・資料を公開する「ホモ本ブックカフェ オ カマルト」店主。軟らか系ゲイリブの最重要人物のひとり。

【永易至文(ながやす・しぶん)】

1966年愛媛生まれ。進学・上京を機にゲイコミュニティを知り、90年代に府中青年の家裁判などゲイリベレーションに参加する。出版社勤務をへて2001年にフリー。暮らし・老後をキーワードに季刊『にじ』を創刊。2010年よりライフプランニング研究会、13年NPO法人パープル・ハンズ設立、同年行政書士事務所開設。同性カップルやおひとりさまの法・制度活用による支援に注力。