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私的「ゲイの平成30年史」 10年周期の勃興、停滞、そして再高揚

裁判、出版、パレード、TVドラマ……新登場と見える数々は、じつは平成2巡目だった!

「平成終わる」ーー。各所で回顧企画が盛んです。

今回の改元は人為によるもので、結果として30年となったことに歴史的必然はないはずです。

しかし、いま社会の関心を集める「LGBTムーヴメント」の片隅に1980年代末(昭和晩期)から身を寄せてきた者として、平成とともに現代ゲイムーヴメントが始まったことを思い、私の自分史とも重ね合わせるとき、その終わりにいささかの感慨がないでもありません。

この30年間の変化や意味は、今後、広汎に史料が集められ、学的検討や精緻な分析を経てはじめて歴史へと練り上げられるのでしょう。個人の経験におのずと限界も瑕疵もあるのは言うまでもありませんが、あえて平成を送る蛮勇を奮ってみたいと思います。

テレビショッピングではありませんが、つねに「個人の感想です」とテロップが出ていることを忘れず、ご笑覧いただければさいわいです。

田舎青年、ゲイを恐れて昭和の末年を空回りす

田舎の高校生だった私が、進学を契機に上京したのは1986(昭和61)年。幼いころから自分の内面にある傾向に気づいてはいたものの、それとどう向き合えばいいかわからない二十歳の若者でした。

キーワードで検索してみればたちどころに情報が得られる現在とは違い、なんの手がかりもないなか、書店で表紙の肉感的な男性のイラストに引かれて買ったのが、ゲイ雑誌やゲイ情報との出会いでした。

官能的な男性グラビアは自分の「劣情」「異常」への認識をいやおうなく迫り、おぼこな若者を絶望させるのに十分なインパクトがありました。

一方、その雑誌の編集人がやっているという「ゲイリベレーション(解放運動)」の勉強会に、まるで秘密結社に加入するような悲壮感を胸にごく数回出かけたことを覚えています。

おなじく情報を載せていたある若者サークルにも出かけてみましたが、「永易くんはどんな人がタイプなの?」と粘っこい口調で聞かれ(いまとなってはあたりまえの会話の糸口ですが)、ここにも私の居場所はないと感じたものでした。

そうやって、性体験もない臆病な私はゲイバーもサウナも避け、昭和の末年の東京で、空回りを続けていました。

1991年、女性誌から突如わき起こった「ゲイブーム」

1990(平成2)年の春、その若者サークル「アカー」に久しぶりに連絡してみたら、合宿のトラブルがもとで東京都に施設利用を拒否され、裁判をするかも、と大騒ぎになっていました。「社会運動」という大義名分によって活動への引っかかりができ、それまで目をそらしてきた自分のゲイ性と、ようやく向き合うことが始まりました。

翌年、女性誌『クレア』(文藝春秋社)が突然「ゲイ・ルネッサンス91」なる特集を組み、それまでのアンダーグラウンドで淫微な「ホモ」「男色」と異なる、おしゃれでセンスがよく“女性のお友だち”という「ゲイ」イメージを打ち出します。

社会に波紋が起こり、メディアがつぎつぎ追随し、「ゲイブーム」が巻き起こりました。インターネット以前、マスコミが伝えてはじめて情報に触れることができた若者たちが、自分はゲイでいいんだ、仲間がこんなにいるんだ、と活動を活発化させました。

平成の始まりは私にとって、「90年代ゲイリブ」の始まりとして意識されています。(それに先立ち、70年代にアメリカのゲイムーヴメントの情報に触れて活動を始めた先駆的な人たちの動きを「70年代ゲイリブ」と呼んだりします)。

裁判、出版、ドラマ、パレード……歴史が動いた90年代

アカーが東京都を相手どり初めて同性愛者の人権を問うた「府中青年の家訴訟」(91年2月提訴)は、当事者からもさまざまな誤解や「過激だ」との声を受けながらも、同性愛者が自己の尊厳のために立ち上がる姿は、「いまの社会がやはり不当なのだ」「自分も声をあげていいんだ」と多くの当事者を励まし、法廷ごとに支援者が詰めかけました。

『広辞苑』の同性愛の語釈から「異常性欲」を訂正させるなど、偏見や差別へのさまざまな活動にも取り組みました(こちらもその一例)。

伏見憲明さんや掛札悠子さんら、芸能人ではない一般の若者が、同性愛者であることをベースに著作を発表し、旺盛な著述活動で言論によるリベレーションをリードしてゆきます。

メディアでのゲイブームも衰えず、深夜帯のテレビで定期の情報バラエティ番組(「Johnny」、フジテレビ。エンディングでは「今週のカミングアウト」なんてコーナーもあった)、そしてゴールデンタイムには同性愛者たちが主人公の愛憎ドラマ「同窓会」(日本テレビ。内容はぜひネットなどで検索してみてください)がミスチルのオープニング曲でオンエアされました。

同時期、社会のエイズへの関心も高まり、HIV陽性者への理解や予防啓発を訴えるゲイの姿が顕在化してゆきました。また、性教育や人権権教育に意欲的な教師のなかには、学校で同性愛の授業に取り組む動きもありました。

こうした活動が東京のほか、札幌、仙台、名古屋、京都、大阪……いろいろな地域で広がり、相互の交流も重ねられていました。

1994(平成6)年、府中裁判は一審でアカー勝訴の判決。同年、エイズへの関心は、横浜で開かれた国際エイズ会議で最高潮に高まり、ゲイ雑誌編集長・南定四郎さんが呼びかけたレズビアン・ゲイパレードが敢行。千人余のゲイほかの性的少数者、支援者が、白昼の公道を行進しました。

携帯とネットがもたらしたゲイの大変化

「ゲイリブ」的な活動にかかわったのは、それでも一部の人たちかもしれませんが、90年代の中盤からは、このころ登場した携帯電話とインターネットが、一般のゲイライフを歴史的に変化させました。

それまで、ゲイの出会いと連絡手段は、住所と本名が必要なゲイ雑誌の文通欄(編集部経由で手紙を回送)、そしてほかの家族と共有する固定電話でした。

携帯やネットは、出会いへの敷居を下げ時間を短縮し、個人の匿名連絡を可能にしました。

同時期、大バコの大人数で踊るクラブイベントや、「ハッピーゲイライフ」をキャッチフレーズとする『バディ』(小倉東さんら編集)といった新しいタイプのゲイ雑誌も人気を博し、若いゲイの自己肯定感やゲイの共同性への参加感覚をぐいぐい広げました。

こうした動きを、伏見憲明さんは「新中間層の登場」とたとえています。

こうした参加感覚の高まりに支えられ、内紛によって3回で中断していたパレードが2000年夏に復活し(東京レビズアン&ゲイパレード)、同日、新宿二丁目のゲイ経営者らが開催した「新宿レインボー祭り」では、大群衆のゲイたちが街路を埋め尽くし、一体感に陶酔しました。

それは90年代ゲイリブの最高潮ともいう光景だったでしょう。

暮らしや老後に目を向けた「内省」の2000年代

しかし、2000年代に入ると「ゲイブーム」の余熱も冷め、むしろドラマ「金八先生」での取り上げをきっかけに「性同一性障害」に社会の注目が集まりました。当事者作家の芥川賞受賞(藤野千夜氏、2000年)や著名競艇選手のカミングアウトなども話題になりました。

国内で長らくタブー化されていた性別移行手術に90年代中盤、ガイドラインが策定され、1998年に埼玉医大で手術が行なわれるものの、戸籍の性別訂正は許されず、当事者の悲願でした。しかし、03年の統一地方選で性同一性障害を公表した上川あやさんが世田谷区議に当選(性的少数者を公表する最初の公職者)。同年、社会の関心を追い風に、国会でも性別変更の特例法が成立しました。

一方、ゲイのあいだでは90年代にゲイのアイデンティティやプライドを知った若者が40代に突入しはじめ、“若さ・見た目”至上主義的な価値観が支配的なゲイのなかで自分はどう年を重ねるのか、「エイジング」への関心が広がり始めました。

年をとることはコワい。しかし、上の世代のように「ゲイを卒業」して結婚をするには「プライド」を知りすぎてしまったゲイたちが、それにかわる自分たちの「大きな家族」として求めたのが、ネットのコミュニティとオフ会、そしてこのころ増えたゲイサークル(合唱、ブラバン、スポーツなど)などリアルの繋がりではなかったか、と私は思っています。

「家族」をもてない自分たちが、おなじ仲間を家族としてともに年を重ねていこうという志向であり、夜と性愛と一時的な若さの世界から、昼と生活と長期的な成熟への視点への拡大でした。後者には、自分の同性愛者性をプライドある人生のベースにする志向があることは言うまでもありません。

パレードやHIV啓発など社会への視点をもったNGO活動も広がり始めます。サークルのなかには、医療職や教師など同職のネットワークも生まれ、同職どうし相互に支え合うとともに、自身の専門性を生かしておなじ仲間やつぎの世代に貢献したいという意欲もうかがえます。

私自身もこの時期、勤めていた出版社を辞め、フリーのライター/編集者としてゲイの暮らしや老後、コミュニティ活動をテーマに著述活動を始めました。自分自身が面対するゲイのエイジングの課題を、自分の仕事にしようとしたのです。

こうして2000年代は90年代と対照的に、ゲイ的にはあまり大きな事件や社会的注目が起こるでもなく、むしろ内省を深めながら淡々と過ぎていった印象があります。

06〜08年ごろ、私は東京のパレードの事務局をしていましたが、運営も未熟でパレードの継続自体が難しく、一般企業からの協賛(広告)や関心も低調で苦労が絶えませんでした。また、07年の参議院選挙には尾辻かな子さん(現 立憲民主党衆院議員)がカミングアウトして出馬したものの、当事者の政治への関心は高くなく、まだ国政には遠く届かない時代でした。

経済誌の注目、同性カップル公認から「LGBTブーム」へ

風向きが変わってきたのは2010年代。一般の経済誌でマーケティング、そして企業でのダイバーシティ(多様性)確保や人材活用の切り口で性的マイノリティに着目する特集が、まるで仕掛けられたかのようにあいついで登場し、「LGBT」という言葉がにわかに人口に膾炙しはじめました。

それを後押しするように、大手広告代理店から人口の何パーセントがLGBTだ、といった調査結果も発表されます。企業研修に取り組む当事者NGOなども動きはじめました。

きわめつけが2015年2月、渋谷区が同性パートナーに証明書を出すという報道。カップルという可視化のシンボルや、その春の区長選にも連動したクールなムーヴメントとも相まって、「LGBTブーム」が巻き起こり、それはいまもなお続いています。

今回のLGBTブームは、かつてのゲイブームのようにサブカルチャーの領域にとどまらず、政治、社会、教育はもちろん、これまでにない経済・企業からの関心の高さが注目されます。まもなく開催される東京レインボープライド(4月28、29日)では、今年は協賛企業も200社を超える勢いです。

30年、できたこと・できなかったこと、いま起こりつつあること

私が経験した平成は、ちょうど10年ずつの周期で、現代ゲイムーヴメントの勃興期(90年代ゲイブーム)、沈潜期(トランスジェンダー伸長期)、再高揚期(LGBTブーム)を重ねてきました。

平成の30年で、「性的マイノリティは人権課題」という認識が定着し、個人の趣味・嗜好、病理や異常とする言説は一部ネットニュースのコメント欄になおはびこるものの、もはやアナクロ視されるようになりました。

性的指向や性自認といった言葉も、一部の条例など法的文書に登場しています。一般のゲイをはじめ性的マイノリティのライフスタイルも、さまざまな変化を生じました。

「LGBTブーム」のきっかけとなった同性パートナー公認制度は全国20自治体へ広がり、この2月には法のもとの平等を訴えて同性婚訴訟も始まりました。平成は同性愛者の人権を問う府中訴訟とともに始まり、いままたつぎの時代をあらたな人権裁判とともに始めることができることに、誇らしい思いを感じます。

しかし、いまも自分が性的マイノリティだと気づいた若者の孤立感、いじめ被害、世代にかかわらず社会的理解の乏しさによるメンタル不調や理不尽な対応は、根絶されたわけではありません(こちらのインタビューもぜひご覧ください)。

人として避けて通れない「老・病・死」に臨んで暮らしを守るための「生活権」にも、まだ不安があります。性的指向や性自認の面で社会の多数派とは異なることが、右利きか左利きかの違い程度の意味しかもたなくなるには、まだ時間が必要でしょう。

しかし、そうした動きへの根拠法となる立法の動きは、遅々として進んでいません。

さらに、社会での関心や動きが高まるにつれ、マイノリティへの過剰保護だ、特権付与はいらない、といった言説も顕在化しています。マイナスをゼロへと回復しようとする平等の志向さえ、国会議員によって「度が過ぎる」との言辞が投げつけられ、当事者にもそれに賛同する声があります。

他者の言説に過剰に触れることができるSNS時代は、妄想で肥大化させた「わら人形」論法が横行し、伝達と交流のはずのツールが、皮肉にも人の分断と対立をあおっています。手前勝手な解釈ではない、人権や平等、法や立憲主義への基礎的な理解と、事実にもとづいた議論が求められているでしょう。

また、別稿で振り返る予定ですが、平成は同時にエイズが登場した時代でもありました。同性愛やトランスジェンダーへの偏見がなお影を落し、エイズが「ふつうの病気」になるにはほど遠い現状です。

いまのLGBTブームも、かつてのゲイブームがそうだったように、やがて去ることでしょう。まもなく始まる「令和」時代。日本の性的マイノリティにどんな時代が訪れるのか。暮らしと歴史の交差点に立ち、一人のゲイとして目を凝らし、願わくばこれからも読者のみなさんに報告してゆきたいと思っています。

【おしらせ】

永易さんたちが運営するNPO法人パープル・ハンズでは、レインボー・プライドでブースを出すほか、4月30日、イベント「映画で楽しみ考えるセクマイの老後」を中野区内で開催します。

70歳と68歳の「アラコキ」ゲイ2人の映画「トモちゃんとマサさん」上映とトーク。セクシュアリティを超えて、これからの老後を考える機会となるでしょう。予約不要、詳細はこちらから。

【永易至文(ながやす・しぶん)】NPO法人事務局長、ライター、行政書士

1966年愛媛生まれ。進学・上京を機にゲイコミュニティを知り、90年代に府中青年の家裁判などゲイリベレーションに参加する。出版社勤務をへて2001年にフリー。暮らし・老後をキーワードに季刊『にじ』を創刊。2010年よりライフプランニング研究会、13年NPO法人パープル・ハンズ設立、同年行政書士事務所開設。同性カップルやおひとりさまの法・制度活用による支援に注力。


BuzzFeed Japanは東京レインボープライドの公式メディアパートナーとして、2019年4月22日から、セクシュアルマイノリティに焦点をあてたコンテンツを集中的に発信する特集「レインボー・ウィーク」を実施します。

記事や動画コンテンツのほか、オリジナル番組「もくもくニュース」は「もっと日本をカラフルに」をテーマに4月25日(木)午後8時からTwitter上で配信します(配信後はこちらからご視聴いただけます)。また、性のあり方や多様性を取り上げるメディア「Palette」とコラボし、漫画コンテンツも配信します。

4月28日(日)、29日(月・祝)に開催されるプライドフェスティバルでは、プライドパレードのライブ中継なども実施します。