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ゲイの私が40歳を目前に転職した理由(上)ーー海外駐在で起きたこと、帰国して起きたこと

狭い企業城下町では、パートナーと一緒にスーパーで買い物ができなかった。

2012年にメールをくれたゲイのUさん

今年2019年に40歳になるUさん、ゲイ。彼が、私の著書(『同性パートナー生活読本』2009年)を読んで、某県からメールをくれたのは2012年のことでした。

明言されてはいないものの、日本を代表するあるメーカーで働き、その企業城下町で暮らしていることはすぐわかりました。私はいまもそのメールを大切に保存しています。

Shibun Nagayasu

インタビューに答えるUさん

6年間同居している同じ年齢の同性パートナーがいると自己紹介したあと、こう書きます。

付き合い当初のカップルって、たいていの人がそんなもんだと思いますが、そのころはただそのパートナーとの一対一の関係性しか見えず、一緒にいて楽しければそれで満足していました。アパートを借りて同棲を始め、平日の昼間は私も彼も普通のサラリーマン、夜は一緒に過ごして、週末は一緒に飲み屋行ったり旅行したり。

お互いの間の関係性を深めることで満足していた私たちは、周囲のゲイとの交友関係性はあったものの、その外にある社会へ積極的に関係性を持つことなく過ごしていました。もちろん会社やお互いの家族へのカミングアウトもありませんでしたが、それはそれで、楽しく過ごしていました。

しかし、そんななか私の勤める会社の人事異動で、2009年から3年間の海外赴任(アメリカ)の内示がありました。これが、同性愛者の存在をまったく認めていないとも言える現在の社会制度・法制度を強く意識するきっかけとなりました。

メールは、その問題意識と、帰国後に読んだ拙著のテーマが重なっていることからくれたものです。その後、Uさんカップルとのご縁が続き、私が行政書士の資格をとったあと、2016年にお二人のパートナーシップに関する公正証書を作成する機会をいただきました。

なお、Uさんは2018年に、14年間も働いたその有名メーカーを、40歳を目前に転職し、東京で新しい生活をスタートすることになります。

今日は、ゲイであるUさんと仕事をめぐるストーリーを、ご紹介したいと思います。

【Uさんの年表】

  •  2004年(25歳) 新卒で某県の有名メーカーへ入社
  •  2005年(26歳) パートナーと出会い、半年後、同居開始
  •  2009年(30歳) 米国駐在(3年間)
  •  2012年(33歳) 帰国後、前述のメールを著者(永易)へ送付
  •  2016年(37歳) パートナーとの公正証書作成
  •  2018年(39歳) 転職、東京へ


家族サポートから抜け落ちていることを知った駐在経験

ネットで出会ったパートナーと半年ぐらいのお付き合いの後、同居を始めたのは先述のとおり。社会人としての仕事にも慣れてきた4年目のある日、アメリカにある子会社への赴任辞令が出ます。

「グローバルに事業展開している会社だし、もともと海外志向が強かったので、いつか海外で仕事をしたいとは思っていました。でも、突然8月のある日、来年1月から3年間アメリカね、って。いざそう言われると、めまいがしましたね(笑)」

アメリカには行きたい、でもパートナーとの生活はどうする? できれば一緒にアメリカに行きたいが、会社に同性パートナーを帯同したいなんて言えるわけもない。

くわえて、ビザの問題があります。ふたりで話し合った結果、パートナーが仕事を辞め、語学学校を自分たちで探し、留学生ビザを取得して、一緒にアメリカで生活することにしました。

「海外駐在では、会社が家族の生活・教育も含めてすべてサポートしてくれます。そりゃ手厚いですよ。配偶者ビザ、家族ビザ、住宅や保険の手配はもちろん、行ったあともいろんな手当がつきます」

「家族のための語学研修手当とか、子どもたちのために日本語出版物を購入するための費用とかまで。家族であれば当然用意されているこうした制度から、私たちは抜け落ちていることを知りました」

住まいは、会社の補助でダウンタウンの真ん中にあるマンションの一室を借り、そこはさすがアメリカ、二人で住むには十分な広さでした。ただ、閉口したのは現地の日本人コミュニティの狭さです。

「マンションに同じ会社の出向者が何人も住んでいて、エレベーターで会ったりして、二人で住んでるんですね、なんて言われたり。30歳だったんで、まだごまかせるんです。友だちが仕事辞めて日本から遊びに来てるんですとか、語学の勉強で来ていてお金をセーブするためにうちにいるんですとか」

「ただ、彼が病気になったり事故にあったりしたらどうしよう、という不安はありました。これも家族なら、会社が日本語のできるクリニックを手配してくれたり、サポートしてくれるわけで」

同僚への初めてのカミングアウト

しかし、3年間のアメリカ経験は、Uさんにゲイとしてもっと自由に生きていいんだと認識させる大きな機会となりました。

子会社のある場所がもともとリベラルな大学町ということもあり、ゲイをオープンにして生活している人も多い土地柄。英語の練習もかねて積極的にゲイバーなどへ行き、現地の友人や知り合いを作り、ホームパーティーに招かれたり招いたり。

Track5 / Getty Images

現地の友達と。右端2人が、Uさんとパートナー

知り合ったある50歳代のシニアのゲイは、女性と結婚して子どもを持ちましたが、自分に正直に生きたいと50を超えて家族にカムアウトし、ボーイフレンドをつくりました。

驚いたのは、そのボーイフレンドも含めて、奥さんや子どもとも、家族としての良好な関係を維持していたことです。彼の家に招かれ、そうした姿を目の当たりにし、こういう人生もあるんだ、と目が開かれたといいます。

以前なら考えもしなかった、会社の人(ゲイ以外)へのカミングアウトも、そのころからでした。

「同じ職場に、日本の大学を卒業したあとアメリカ人と結婚してアメリカで暮らしてきた日本人の女性がいたんですが、ゲイ以外では、その女性にカミングアウトしたのが初めてです。外国という環境と、彼女自身も外国で暮らす日本人というある種のマイノリティなので、言いやすかったんでしょうね」

会社の人との飲み会は、30歳前後の独身男性だと「ところでどうなの?」という話になりがちです。その詮索が嫌で、日本でも赴任後でもできるだけ避けて、会社の人との間にはどこか壁を作っていたというUさんですが、その女性に食事に誘われたとき、「この人なら言ってみようかな」と思ったといいます。

「食事中、案の定そういう話になったとき、『私は同性のパートナーがいて』と話したら、『なんとなくそういう気がしてた』と(笑)。在米が長く、多様なセクシュアリティにも慣れていた彼女とは、同年代ということもあり心の壁も解け、信頼感が増しました」

「その後パートナーを紹介し、ゲイ・ノンケ問わずお互いにお互いの友人を紹介しあって交遊関係も広がり、アメリカ生活はより楽しいものになりました。オープンにすることでプラスのほうが大きいんじゃないかという実感を持ちましたね。それまでは二人だけの、いわゆる“こっち”の関係に閉じてましたから」

姉妹、そして父へカミングアウトする

赴任を契機に、会社に同性パートナーへの制度がまったくないことにあらためて愕然とする一方、上述の私宛2012年のメールでもこう振り返っています。

「アメリカという国のゲイに対する考え方・アクション、例えば、同性婚を認める州の拡大、ゲイフェスティバルの規模とその経済効果、メディアでのゲイの取り扱い、企業内で採用されているドメスティックパートナー制度など、そして、アメリカの個々人(ゲイ・ノンケ問わず)の考え方・生き方から得る学び・気づきは非常に多かったです」

3年間のアメリカでの学びや新たな視点が、帰国後、日本の家族へのカミングアウトに繋がりました。

「30代で結婚の話も出てくるなか、うちは4人きょうだいで息子はぼくだけでしたから、少なくとも3人の姉妹には、自分がゲイだということは伝えておいたほうが、何かあったときいいんじゃないかと思うようになりました。パートナーとの関係も安定して、このあともずっと一緒にいたいと思っていましたので」

3人の姉妹たちに、機会を見つけて伝えはじめます。

「ぼくは九州の実家で隠していたゲイ雑誌を見られたり、ガールフレンドがいたためしもないので、すでに気づいていると思っていたのですが、彼女たち、ホント気づいてない(笑)。身内にゲイがいるなんて夢にも思わないんですね」

しかし、話を聞いた姉妹の反応は、「ああ、そうだったんだ。言われたら納得」と意外とあっさり。

「彼女たちも子どもがいて、自分たちの生活でいっぱいいっぱい。弟がゲイだろうが、それどころじゃなくて(笑)。妹なんかは学生時代にレズビアンの友人がいたらしく、多様なセクシュアリティをすでに理解している一面も知りました」

「3人の姉妹とその旦那さん・子どもたちには、その後、パートナーを実際に紹介し、良好な関係を築くことができました。甥っ子姪っ子たちと一緒に遊ぶパートナーの姿を見るのは、とてもうれしかったですね。ただ、姉たちからは『親にわざわざ言う必要はない』って言われていました」

母はすでに亡くなっていましたが、父親は「ザ・九州の男っていう感じの亭主関白な人」とUさんは言います。帰国した2年後、じつは仕事で悩み始めていたとき(後述)、父親と二人になる機会があり、仕事の近況とともに不安定な気持ちのまま、勢いでカミングアウトしてしまったといいます。

「父からは『知りたくなかった。そういう人の存在は、頭では理解するが、心では受け入れられない』と言われました。育て方が悪かったのかとも聞いてきたので、生まれ持ったものだとぼくは思うし、十分な教育も受けさせてもらって、一緒に生きていくパートナーもいるんで、父さんのせいとか育て方のせいとか、そういうことじゃないって、泣きながら言っちゃって……。あれ、やですね(苦笑)」

「父はその後もそのことには触れてきませんが、うちは毎年1回、どこか温泉地などで家族全員集合するようにしていて、前回の集まりには、彼も連れていきました。3人の姉妹やその連れ合いと子どもたちは、彼とすっかり打ち解けていますが、父は挨拶を交わす程度で(笑)。話はしない」

「でも、それでいいと思っています。この人が息子のパートナーなのかと認識してくれれば十分かな、と。会って、見て、同じ時間を少しでも共有した、というだけで十分です」

Uさん提供

前回の家族集合時に。中央上がUさん、その前が父上。右端のパートナーが「ちょっと離れたところに座って入っている状況が、なんか笑えるし、関係性が見え隠れして、個人的に好きな一枚」とのこと

むしろこのころ、Uさんは「日本的経営・日本型企業の典型」とうたわれる現在の会社で、このまま働き続けることが自分にとっていいのか、真剣に考えるようになっていました。

人の目が気になり、彼とスーパーに行けない

話をUさんの帰国後の暮らし方・働き方に戻しましょう。

アメリカでゲイとしてのオープンなライフスタイルを知り、カミングアウトを通して、ゲイとしてあたりまえに生活する肌感覚を知ったUさんは、日本に戻り、「逆カルチャーショック」を受けます。

そのひとつは、大企業のもと、町中が社宅のような狭いコミュニティで暮らすことに対する息苦しさでした。赴任前にも暮らしていたこの企業城下町は変わっていません。変わったのは、アメリカを経験したUさんでした。印象的だった話を紹介します。

「スーパーでの買物は、彼と一緒にできませんでしたね。行けば自分が車の中で待ってました。スーパーでの買い物って、日常の象徴、日常の最たるものだと思うんです。カミングアウトしていない自分は、スーパーで男二人が買物しているのを会社の人に目撃されて詮索されることがとても怖かったんです」

「外食ならまだいいんです、友だちとご飯してただけと言えるから。でもスーパーは違う。すごく日常に近い。それを見られたときの言い訳って、うちで鍋パーティーするぐらいしか思い浮かばないですけど、それって苦しいし、冬季限定ですよね(笑)」

私が住む中野区あたりだと、ゲイかな? という(がっちり・短髪の)男性二人がスーパーで一緒にカートを押しながら買物しているなんてあたりまえの風景で、だれもそれを気にも留めませんが、東京住まいが長くなった私が久しく忘れていた感覚でした。

もうひとつのショックが、男性中心の古い会社文化のなかでの人間関係です。

「仕事自体は手応えがあり学びもあり、面白さを感じていたので、それで会社をすぐに辞めようとはならなかったのですが、年齢を重ねポジションも上がり、後輩も増えるなか、マネジメントというか、チームで仕事をしていくとき、なかなか素の自分を見せられないことにストレスを感じていたんです。自分が隠し事を抱えているせいで、周囲の人に心理的な壁を勝手に感じてしまい、100%のパフォーマンスを発揮できなかった気がします」

ゲイであることが足かせになった――そう単純に言えるかはわからないけど、もう少し気持ちいい人間関係を職場でも持ちたいのに踏み出せなかった、と振り返ります。

典型的な日本企業で、いまでも会社でのイベントごとや飲み会は多いなか、それを無意識に避け、距離をとるUさん。飲み会にしかたなく出ても、あまりプライベートなことは語らない人と思われる。表面は人当たりのいいUさんだけに(実際、明朗で聡明な人なんです)、本当のところで胸襟を開いていないことは周囲の人も感じていたかもしれません。

関連会社の人も含め会社関係者がたくさん居住し、町中が社員寮みたいな同一性の強い場所で、息苦しさの悩みはますますつのる……。そんななか、Uさんには3つの道があった(しかなかった)。それは、

  1. 変革を起こす(いまの会社でカミングアウトし、周囲との関係を再構築する)
  2. 耐え続ける(いまの会社でクローゼットのまま、自分を押し殺して働きつづける)
  3. 新天地を探す(いまの会社を出て、自分らしく生きられる場所を求める)


40歳を目前にし、ゲイとしての今後の生き方を考えていたUさんが選んだのは、3番目の道でした。 

ゲイの私が40歳を目前に転職した理由(下)ーーだれもが「しょうがない」と言う町を出て

【永易至文(ながやす・しぶん)】NPO法人事務局長、ライター、行政書士

1966年愛媛生まれ。進学・上京を機にゲイコミュニティを知り、90年代に府中青年の家裁判などゲイリベレーションに参加する。出版社勤務をへて2001年にフリー。暮らし・老後をキーワードに季刊『にじ』を創刊。2010年よりライフプランニング研究会、13年NPO法人パープル・ハンズ設立、同年行政書士事務所開設。同性カップルやおひとりさまの法・制度活用による支援に注力。