極右のイベントを取材したリベラル記者が語る「集団いじめ」体験レポート

    カナダの極右サイト「ザ・レベル(The Rebel)が主催したイベント。彼らは、対話に興味はなく、中傷や侮辱を投げつけるのを楽しんでいるようだった。

    6月2日、カナダの極右サイト「ザ・レベル(The Rebel)」が、トロントで毎年恒例のライブカンファレンス「ザ・レベル・ライブ」を開催した。

    その記事を書くにあたり、出だしの文句を自分で考えてもよかったのだが、偶然にも、その日の司会を務めたレベルの寄稿者デビッド・メンジーズが、私のかわりに仕事をしてくれた。彼は、最も不寛容かつ最もリベラルなレポーターという役どころを装いながら、ふざけたような大声でこう言った。

    「このイベントの開催場所は、カナダ・クリスチャン・カレッジです。ここは、その名が示すように、非カナダ人、非キリスト教徒、そして非大学生には開放されていません。4列目にいる女性のかぶっている白い帽子は、遠くから見ると、クー・クラックス・クランの頭巾に似ていますね」。メンジーズがそうからかうと、聴衆の大喝采がとどろいた。私はまさにこういう世界を書くつもりだったので、このメンジーズの発言は、時間の節約になった。

    7時間にわたるイベントのあいだ、私はレベルの講演者とその聴衆による個人攻撃の格好の標的になった。たとえば、私を「膣のかゆみ」になぞらえる。私の名前の発音を意図的にまちがえる。「堕落した」「精神的に不安定」「凶悪」と表現し、「偏屈者」と呼ぶ。反ユダヤ主義者かとも訊かれた(事実ではない)。

    この手の行動に見覚えがあるとアメリカの人たちが感じるなら、それはトランプ時代のせいだ。ドナルド・トランプの大統領就任以来、政権やその支持者が記者に向ける敵意は著しく増大している。「報道の自由度ランキング」の2018年の最新調査によれば、ジャーナリストに対する憎悪は前年よりもさらに膨らんでおり、名指しでその点が指摘されているアメリカは、報道の自由度が180か国中45位に低下した。トランプがあまりにもたびたびジャーナリストに個人攻撃を浴びせるので、そうしたツイートを分析するスプレッドシートができたほどだ。

    トランプは2015年8月、テレビ司会者のメギン・ケリーに向けて、いまやすっかり悪い意味で有名になった暴言を吐き、「目から血が出ている。いたるところから血が出ている」と発言した。2015年11月には、身体に障害のあるジャーナリストの真似をして嘲った。2017年6月には、「モーニング・ジョー」の司会者ミカ・ブルゼジンスキーを、「IQの低いクレイジー・ミカ」と呼び、「フェイスリフト(しわとりのための整形手術)に必死だ」と中傷した。

    3月には、「ミート・ザ・プレス」の司会者チャック・トッドを「寝ぼけたろくでなし」と呼んだ。4月には、失脚したトランプの元顧問弁護士マイケル・コーエンを徹底取材した「ニューヨーク・タイムズ」紙の記者マギー・ハバーマンを「三流記者」と呼んだ。6月15日には、みずから記者会見を開いておきながら、質問した記者を「不愉快」と批判した。

    トランプのまわりにいる人たちも同じだ。質問が気に食わなければ、ジャーナリストを個人的に侮辱し攻撃する。2017年5月には、下院補欠選挙に立候補していた共和党のグレッグ・ギアンフォートが、「ガーディアン」紙の記者に暴行を加えた罪で告発された。トランプの影響が波及しているのは、アメリカだけではない。その残響は世界中に広がっている。私の暮らすトロントでも、それが感じられる。

    トランプの影響が波及しているのは、アメリカだけではない。その残響は世界中に広がっている。

    アメリカの保守派には「ブライトバート」があるが、カナダの保守派にはレベルがある。レベルは、「イスラムと左派が連携――なぜそんなことになったのか?」や「VICEサイト記事の誤りを暴く:保守派のほうが魅力的だ!」といった記事を公開している。

    レベルは、メインストリームから少しだけ外れたところにいると自称している。レベルの執筆陣が、あからさまな差別主義や白人優越主義に直接関わることはほとんどない。その理由の一端は、創設者のエズラ・レバントがユダヤ系で、レベルの支持者の多くが親イスラエルだという点にある。レベルはそのかわりに、カナダ国民の「保守」の選択肢としてかろうじて存在できる程度の体面を保つ方針を採っている。おそらくは、名誉毀損に関するカナダの厳しい法律をかいくぐるためでもあるのだろう。

    国際舞台では、レベルはそれほど大きな影響力を持っているわけではない。保守的な論評や動画を掲載するウェブサイトとして誕生したレベルは、たちまちのうちに、人種差別的な言辞、内輪にしかわからない政治的発言、そしてジャーナリストや政治家、著名人に対する個人攻撃(私に関する記事も複数回書かれている)の場に成り下がった

    とりわけ、レベルがつねに敵意を向けているのが「メディア」だ。あたかも、ジャーナリスト全員が大きなひとつのチームとして、レバントやレベルの寄稿者たちと対決していると言わんばかりだ。「戦い」は、レベルに一貫して見られるイデオロギーだ(レバントは「レベルの司令官」を自称している)。「敵」側、つまりリベラル、あるいはレベル寄稿者の呼称を借りれば「オルトレフト」を相手に、闘いを遂行しなければならない、というわけだ。だが、レベルのこの1年は、ほとんど実りのない散々なものだった。

    2017年夏、レベルの寄稿者だったフェイス・ゴールディが、バージニア州シャーロッツビルで人種差別が発端となって生じた暴動の様子をライブ配信した。ゴールディは白人至上主義者を擁護し、ネオナチのポッドキャストに顔を出した。その結果、寄稿者の多くがレベルを去った。ジャーナリストたちは、レベルの番組に出演したことのある保守派の政治家に対する追及を強め、レベルを支持しないと表明するよう迫った。レバントはゴールディをクビにしたが、レベルはもう終わったかに見えた。

    だが、必ずしもそうではなかったのだ! 6月の最初の土曜日には、保守的な信条を説くレバントとレベルの寄稿者たちの講演を聞こうと、200人を超える人たちが集まっていた。講演者には、ケイティ・ホプキンズ(イギリスのメディア・パーソナリティ)、シーラ・ガン・リード(レベルのアルバータ州編集局長)、リンジー・シェパード(ウィルフリッド・ローリエ大学を卒業したばかりで、トランスジェンダーの人たちに対する嫌悪を売りにしている)などが名を連ねた。

    「VICEメディア」と「プラウド・ボーイズ(Proud Boys)」の共同創設者であるギャビン・マッキンズも登壇を予定していたが、姿を表さなかった。彼の不在の理由が説明されることはなかった。

    私がレベル・ライブに行ったのは、もともとカナダの、とりわけトロントのオルトライトに関する記事を書いていたからだ(トロントのオルトライトの活動は、最近になって注目を集めている。きっかけになったのは、「インセル(incel)」(非自発的独身者:involuntary celibate、「非モテ」)運動のメンバーを自称する25歳の男性がトロントでバンを暴走させ、10人を轢き殺した事件だ。この事件では、女性嫌悪が犯行の動機になった可能性がある)。

    私が参加したのは、このイベントのチケット(一般席は95ドルだが、メディア向けのチケットは150ドル)を買った人たちに話を聞き、トロントの保守運動がどこへ向かっているのか、その理解を深めたかったからだ。レバントも主催者も、私が出席していることを知っていた。

    あまりの敵意の激しさに、本格的な取材活動がまったくできなかったほどだ。

    私が記者として敵意と向き合ったのは、今回が初めてというわけではない。大統領選前にペンシルベニア州ハーシーでトランプの選挙戦を取材したとき、ある集会の出席者が私を「クズ」と呼び、はっきり言って、あんたのような人たちが自分をトランプ支持に駆り立てているのだと言った。

    最近取材したある男性権利運動(MRA:men’s rights activism)の女性活動家――彼女たちは「ハニー・バジャー(ミツアナグマ)」を自称している――は、過去に私に関するYouTube動画をいくつも制作し、そのなかで私を「いやな女」と呼んでいた(彼女は面と向かって、いまでも「いやな女」だと思っていると認めた)。

    私が向き合ってきた敵意は、大半がオンラインで遭遇するものだった。以前、カナダで私の名前が(悪い意味で)口コミで広がったことがあり、運の悪いことに、MRA反イスラムの荒らしレベルなど、インターネット上でよく見る厄介者による個人攻撃の標的になっていたのだ。

    それでもなお、レベル・ライブで経験した敵意は、私の職業人生でも群を抜いて激烈なものだった。あまりの敵意の激しさに、本格的な取材活動がまったくできなかったほどだ。それは不愉快な経験だったが、それ以上に、「集団による私刑」がいまだに頭をもたげていることを象徴するものだった。

    私たちは子どものころに『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディングの小説)を読み、集団による私刑には近づくなと教えられた。それでもなお、集団はあまりにも簡単に熱に浮かされ、別の状況だったら普通は使わないであろう言葉を、まわりと一緒になって使ってしまうのだ。

    聴衆を導いてカナダ国歌を歌い(最近、歌詞がジェンダー的に中立なものに変更されたが、挑戦的に「古い」歌詞を歌っていた)、前置きとして邪悪なCBC(カナダ放送協会)についていくつかコメントしたあと、レバントはまさに文字どおり、私のほうを向いた。そして、聴衆に顔を見せるよう私に指示したあと、終始私を指差しながらコメントした。

    彼は、私の名前をまちがって発音しながら、「あの『スカッチー』さんには少しばかり人種差別主義者の気があることを、みなさんにお伝えするべきでしょう」と語った。それから、3年近く前の私のツイートを不正確に引用し、私を偏屈者と呼び、私のイベント参加を拒否するような検閲行為をしなかった自分を称賛した(レバントは過去に、レベルのイベントからメディアを締め出したことがあり、私の取材の申し込みも代理人を通じて断わっている。ただし、このカンファレンス後にコメントを求めた際には、「まったく、あなたはのろまですね」と応じ、自分の講演を部分的に録音した音源へのリンクを送ってきた)。

    「スカッチーさんをこれ以上いじめるつもりはありません。それでなくても、彼女はすでに十分にダメージを受けた人ですから」とレバントは語った。「ですが、憎しみを持つ人や、不寛容で頑なな人はもうたくさんです。我々があなたがたのために用意しているのは、お楽しみと食事、友情、そしてちょっとした闘いの1日です」

    その日のどこにお楽しみや友情があったのか、私にはわからない。「食事」については、これ以上なく定義を広げ、べたべたに湿ったサンドイッチをそう呼ばないかぎり、存在していなかった。だが、レバントが参加者全員を闘いに駆り立てたことはまちがいない。ほかの登壇者や参加者はその日のあいだずっと、私を「スクラッチー」と呼んでいた。私が5年生のときに初めて耳にしたニックネームだ。

    メンジーズは、私が傷ついている、あるいは「爆発しそうに」なっていると思ったのか、セラピードッグを勧めてから、こう付け加えた。「ひょっとして、これもイスラム嫌悪の一例だったでしょうか。たしか、犬はハラールではありませんよね」(私は実際にはイスラム教徒ではないし、さらに重要なポイントは、犬を食べるイスラム教徒がそれほどいるとは思えないことだ。しかも、その日はラマダンの時期だった)

    トランプの選挙集会に漂っていたロックコンサートのような雰囲気については、多くの記事が書かれている。マイケル・フリンのような連中が「彼女を投獄しろ」の大合唱で群衆を煽ってから、現大統領が鳴り物入りで登場するのだ。そうした選挙集会は、トランプの支持基盤をきわめて効果的に結集させた。あまりにも効果的なので、トランプはいまだに、気に食わない報道陣に対抗したり注意を反らせたりする手段として、その手法を利用している。

    そこにいる「おとな」たちは、いまこの瞬間に夢中になるあまり、その行動の意味するところを考えていないように見える。

    こうした状況では、簡単に人を打ちのめし、戯画化できるようにもなる。トランプは過去に、移民は犯罪者だとか、黒人には愛国心がないとか、トランスジェンダーは背徳的だとか、リベラルは偽善者だとかいったことを発言してきた。そうした論法を使えば、その集団全体を完全に理解しているのだと聴衆に思い込ませることができる。非難対象のカテゴリーにあてはまる人たちと実際に会ったことなど、どう考えてもあまりなさそうな人たちで聴衆が構成されている場合でも、それは同じだ。いいかげんなフレーズで切って捨ててしまうほうが楽なのだ。

    こうしたごく一般的な良識の欠如は、混沌としたデモトランプの選挙集会にとどまらず、数々の状況にこだましている。だが、それに劣らずはっきりと見てとれるのは、その根底にある憎悪だ。

    そこにいる「おとな」たちは、いまこの瞬間に夢中になるあまり、その行動の意味するところを考えていないように見える。自分たちがどんな人間を支持しているのか。自分たちのしている行為は、善行ではなく加害ではないのか。そんなことは何も考えていないのだ。私の見るかぎり、レベルのイベント会場には、「おとな」はあまり残っていなかった。

    その日のあいだずっと、メンジーズは繰り返し、私とキスせざるをえなくなる状況や理由に言及していた。たいていは、どういうわけか私にマウス・トゥー・マウスのキスを求められ、ドラマチックで複雑な方法でそれを逃れるという筋書きだ――なかには、ホール後方のブースでたまたま売っていた浄水機能付きストローが絡むシナリオもあった。彼は私にハグを提案したあと、こう言った。「でも、あまり強くハグしすぎないように。#MeTooのネタになるからね」(この記事に関してメンジーズのコメントを求めたが、返答はなかった)

    シーラ・ガン・リードは、スピーチの冒頭で聴衆を煽り、私のためにか、私に向けてかはわからないが、「彼女を投獄しろ」の合唱をさせた。それを引き継いだメンジーズは、私が彼女に暴力を振るうかもしれないとほのめかした。「いったい誰が、あれほど堕落し、精神的に不安定で、凶悪な人間になれるのでしょうか?」メンジーズはそう言った。「ああ、スクラッチーさん!」

    ケイティ・ホプキンズ(イギリスへの帰途に、「人種差別的な憎悪を広めた」として拘束されたことのある女性だ)は、私のばかげたニックネームを「スクラッチー(ちくちくする)・パンツ」に変形させ、昼の休憩時に私が聴衆にされるかもしれないことに同情したあと、私を膣のかゆみになぞらえた。「ひどく不愉快で、とても苛立たしく、同じくらい取り除くのが難しい」(膣のかゆみは、実際にはいとも簡単に解決できるが、その理論に従うなら、私はそれほど迷惑ではなく、抗生物質で簡単に治療できるというわけだ。なお、シーラ・ガン・リードとケイティ・ホプキンズは、この記事へのコメントの求めに応じていない)。

    ベビーブーム世代の白人が大多数を占めていた聴衆は、そうした攻撃に拍手喝采で応え、ときには聴衆の枠を越えてみずから侮蔑の言葉を投げることもあった。レバントが冒頭に口にした私に関するコメントのせいで、ほかの人たちに取材するのは難しくなった。とりわけ、私と話をしないほうがいいと聴衆に勧めたあとはそうだった。「Make Canada Great Again(カナダをもういちど偉大に)」の帽子をかぶった聴衆は、リベラル政権の恐怖について盛んに語り合っていた。

    どうやらほとんどの人は、トロント近辺から来ているようだった。参加者のなかには、私をつけまわしたり、私の腕や肩をつかんで非難してきたり(「あんたはマジでやってんのか?」)、叱りつけたりする人もいた(あるアジア系女性は、私の前腕をつかみ、「私は白人じゃないけど(にもかかわらず、という意味だろう)、ここにいる」と言った)。ロビーでは、ある男性が私の隣に立ち、無言のまま自分の上着からコーランを出し、私に向かって振ってみせた。

    昨夏、イスラム教徒のコミュニティに対するヘイトクライムで告発された「フリーダム・レポート」の主宰者ケビン・ジョンストンは、カメラを手に数分にわたって私を追いまわしながら、あなたは反ユダヤ主義者かとか、性別はいくつあると思うかといった誘導尋問をしかけてきた(コメントを求めて連絡した際、ジョンストンはBuzzFeedを、「フェイクニュース」で「ゴミ焼却炉」だと表現した。自身に対するヘイトクライムの告発には訴えの理非がなく、抗弁はまだこれからで、ヘイトクライムの意図はまったくなかったと主張している)

    セキュリティチームの1人は、群衆が攻撃的になりすぎたら私を移動させなければならないと言っていた。

    「立ちなさい、スクラッチー!」ある聴衆の女性は、数列離れたところから私に向かってそう叫んだ。「顔を見せなさい!」聴衆の半分は、実際には私の顔を知らなかったので、彼らは、私や一緒に来ていたフォトグラファーが隣に立っているときに、私についてコメントをしたり、きついジョークを言ったりしていた。たとえば、私がこのイベントであれこれの暴行を受けるにちがいないとか、私が自主的にこの場を去らなければ「(私を)車に連れ込む」つもりだ、といったジョークだ。

    その日1日、レベルの雇った男性2人からなるセキュリティチームがほぼ常についてまわり、私の背中に手を置いたり、耳元に囁いたりすることができるほど近くに立っていた。「だいじょうぶですか?」セキュリティチームの1人は、群衆が攻撃的になりすぎたら私を移動させなければならないと言っていた。その後、彼らは私に近づき、逆境に耐えるためにミニ・カンノーロ(クリームの入ったお菓子)でもいかがですかと勧めたが、私は断わった。

    そうした諸々を解決する手っとり早い方法は、単純にその場を去ることだ。だが、立ち去ったからといって、レベルやその支持者たちが考えを変えるわけではないし、彼らがもっと思慮深くなるわけでも、礼節を取り戻すわけでもない。彼らが不愉快な衝突をせずにすむだけの話だ。

    仕事の不平不満はよくあることだが、この種の報道に負担が伴うのは避けられない。この手のイベントが心地の良いものだとか、心温まるものだと予想する人はいないだろう。だが、暴力の脅しや個人攻撃、身体的接触(脅迫的か否かにかかわらず)にたじろぐのは当然だ。私たちはいま、暴力と政治が融合しつつある場所にいる。そして、人々は恥ずかしげもなく、自分と意見が違う相手なら誰彼かまわず個人攻撃を加えるようになっている。さらに悪いのは、それがいまや、ジャーナリストにとってはごく普通の状況になっていることだ。世界でもっとも力のある国の政権がしているのなら、このイベントのような、小さいが厄介な集団が同じことをしていても、あたりまえとしか言いようがない。

    それは巧妙な戦術でさえない。先月、「60ミニッツ」のレスレイ・スタルが、トランプ自身の語った話として伝えたところによれば、トランプが記者を攻撃するのは、「記者全般の信用を落とし、面目をつぶして、自分に関するネガティブな記事が書かれたときに、誰も信じないようにするため」だという。これまでのところ、トランプはこの6月だけでも、「フェイクニュース・メディアは、私の妻であり偉大なるファーストレディであるメラニアに対し、不当で意地の悪い態度をとっている」とか「フェイクニュースのCNNは死んだ!」とツイートし、「どうして奴らは無能なサマンサ・ビーをクビにしないんだ?」と疑問を呈している。

    トランプやレベル、そしてその支持者たちがみずからの敵を個人的に攻撃するのは、彼らにはその戦術しか残されていないからだ。論理と共感は、どうあっても、人種差別主義者や偏狭な者たちの味方にはならない。では、次に確実な手段は何か。メディア関係者の信用を失墜させることだ。こうして批評性は、始まりもしない前からしぼむことになるというわけだ。少なくともすでに熱烈に支持している聴衆のいるところでは。

    私の名前が笑いものにされても、病気にかかった膣になぞらえられても、架空の緊急事態で私とキスをする羽目になるくらいなら私に死んでもらったほうがいいとほのめかされても、私は驚かなかった。私が驚いたのは、そこにいた人たちが、その事態に心地悪さを感じ始めたことだ。

    「あの日、会場にいたからといって、あなたに対する個人攻撃を全面的に支持していたわけではない」

    1日がなかばに差しかかったころ、騒々しかった笑い声が、気のないものに変わった。「おいおい、彼女をずいぶん利用しているな」ある男性がそう言ったのは、なんらかの理由から自分の口との物理的接触を強いられるというネタで、メンジーズが3度目のジョークを飛ばしたときだった(いいかげんにして! 私たちがキスすることはありません! だいじょうぶ! あなたがそれを心配する必要はまったくないから!)。

    ある黒人男性――おそらく5人くらいいた有色人種の参加者のうちの1人――は、私を勇敢な人だと言った。私が少数の参加者グループに取り囲まれ、ダイバーシティ雇用について説明しろと求められたあとのことだ。私が説明すると、彼らは私の使った言葉のせいで、さらに苛立ちを募らせた。どうやら、そうした言葉を過去に聞いたことがなかったようだ(「俺が5歳児だと思って説明しろ」と男性は指図した)。

    「こんな敵意は、止めなければいけない」ある女性は私にそう言った。私はそれに同意し、主催者側に話をして、発言の撤回を勧めてみてはどうかと提案した。女性は尻込みした。ホール後方の「ワクチン接種の選択権利」ブースの番をしていた別の女性は、私が携帯電話の充電をしていたときに、身をかがめて私と目を合わせようとした。「あなたが、彼らのけなしていた人?」彼女はそう訊いてきた。「あれは、本当にひどいと思う」

    レベル・ライブの翌日、参加者の1人が私のメールアドレスを探しあて、短いメールを送ってきた――なかなかの偉業だ。というのも、イベントでは誰ひとりとして、私の正確な名前を使っていなかったからだ。「私が伝えたいのは、あの日、会場にいたからといって、あなたに対する個人攻撃を全面的に支持していたわけではないということです」とその人は書いていた。「私はあなたとは意見が違うかもしれないし、あなたの言動を尊敬しているわけでもありません。でも、あなたはひとりの人間として丁重に扱われるべきでした」

    少なからぬ数の参加者が、数人の行動だけを見て集団全体について結論を下すようなことはしないでほしい、「集団ではなく、個人を批判してほしい」と私に訴えた。ああした言辞はよくないと思うなら、私に言うのではなく、主催者か、その日1日聴衆のなかを歩きまわっていたレバント本人に伝えたらどうかと提案すると、彼らはみな躊躇した。自分が遺憾に思っていることを表明したのだから、社会的義務は果たした、というわけだ。「個人攻撃のやりすぎはアンフェア」だが、誰かにその責任を取らせることまでは、わざわざしようとは思わないのだ。レバントやホプキンズやメンジーズの私をネタにした発言のうち、最初の数回は自分も笑ったと認めようとする参加者は、誰ひとりとしていなかった。

    レバントの冒頭のコメントのせいで、私が誰かにインタビューするのは不可能になったが、唯一の例外が、ジョッシュという名の46歳の男性だった(彼はラストネームを明かすのを拒んだ)。ジョッシュはカナダ国境サービス庁(入国管理局)に勤めており、このイベントに参加したのは、ISISの入国やカナダの低賃金を心配しているからだという。彼もまた、レベルの主張に全面的に賛成しているわけではなかった。

    「この地球上に、口から出るひとことひとことに残らず賛成できる相手など、ひとりもいません」ジョッシュはレベルの支持をそう正当化した。「正直に言って、私が見てきたかぎりでは、右派よりも左派のほうが気がかりです。ここにいる人たちは、誰もマスクをつけたりしていない」とジョッシュは語った。これはオルトレフト勢力「アンティファ(反ファシズム運動)」に対するあてこすりだ。アンティファのメンバーは、おそらく暴力を振るえるようにするためだろうが、しばしばマスクで顔を覆っている。「(主催者側が)あなたにセキュリティガードをつけたのは理解できるが、あなたに暴力を振るう人がいるとは思いません」

    「あの個人攻撃は気の毒だった。そんなに悪い連中じゃないんですよ」

    あの発言の数々に賛成していないとしても、レベル・ライブの会場にいた人たちが、チケットを、あるいは帽子や首振り人形を購入したことに変わりはない。彼らは手を叩き、笑っていた。彼らの金銭面でのレベルへの貢献は、とるにたりないものではない。レバントによれば、レベルは視聴者だけに支えられているという。彼らの行動は、自分の社会的地位や人種的優越性、そして自分の快適さを守るために、あえて野蛮さを飲み込む人たちを象徴しているのだ。

    そしてそれは、レベル・ライブの参加者の大多数と、私に対する、あるいは私に関する発言とのあいだに奇妙な齟齬が見られる理由でもあった。彼らはしきりに、みんながみんな同じではない、自分たちは良い人間だ、全員を同一視して単純化するべきではないと私に訴えた。ジョッシュは立ち去る前に、私のほうを向いてこうつぶやいた。「あの個人攻撃は気の毒だった。そんなに悪い連中じゃないんですよ」

    群衆心理は新しいものではない。レベル・ライブやオルトライトの集会のようなイベントが浮き彫りにしているのは、群集心理がどれほど隅々までしみわたるかということだ。この手のイベントの参加者は、大きくて力強い運動に加わっているような気分になる。彼らが自分の個人的な責任について考えることはない。

    2016年の大統領選で、抗議する奴の顔面を殴ってやりたいと語ったトランプに聴衆が喝采を送り、支持者がトランプの提案を実行に移したのは、そのせいだ。そしてレベル・ライブの参加者が、主催者が差し出すものならなんであれ一緒に笑いものにできたのも、そのせいなのだ。

    こうしたメディア関係者に対する不信は、より広い意味でも厄介だ。というのも、反論の余地のない事実であっても、信じられなくなってしまうからだ。自分の意見や世界観に合ったニュースだけに耳を傾けるほうが、ずっと簡単だ。それが怒りをさらに膨らませ、共通の土台を見つけることを不可能にしている。自分の目にするメディアが口をそろえて、「あなたが善で、彼らが悪だ」と伝えていれば、いともたやすく、悪の打倒を目指す大きな運動の小さな一員のような気分になってしまうだろう。

    さらに、そうした不信により、かつては予測可能だった政治集会や遊説、会議といったイベントの取材は、危険なものになってしまった。200人の怒れる白人のなかに混ざること――具体的に言えば、互いに挑発しあい、最悪の侮辱を投げつけられるのは誰か、私を立ち去らせるほど怒らせることができるのは誰かを見極めようとしている状況は、身の危険を感じさせるものだ。

    私はレベル・ライブの参加者から来たメールに返事を書き、その懸念を主催者に伝えたかと訊ねた。返答メールには、「(ケイティ・ホプキンズは)英雄的なことをしています。さまざまな話や問題を明るみに出し、しばしば自分自身を危険にさらしています。彼女の100%ではなく、85%しか好きになれないとしても、それでかまいません!」と書かれていた。「私は支えになろうとしてきましたが、それに背を向けて私を責めたいのなら、どうぞご自由に」

    レベル・ライブの数日後、ダグ・フォードがオンタリオ州議会選挙で、2つの中道左派政党を破って勝利した。フォードは(クラックコカイン使用動画で有名になり、2016年に死去したトロント前市長ロブ・フォードの兄だ。フォードたちは記者に対して、同じ種類の敵意を見せ、おなじみすぎる「ポピュリスト」的なアピールをしている。たいていの場合それは、女性有色人種にとっては厄介の種にほかならない。

    フォードの躍進は、目新しいことでも驚きでもない。そして、彼がメディアの信用を貶める方法を探さずに、平和的にメディアに協力する可能性は低いだろう。だが、何よりも薄気味悪いのは――あなたがトランプの支持者でも、フォードの支持者でも、レベルの信奉者でもなければの話だが――フォードが最大議席を獲得したことだ。彼の言葉には、有権者の40%の心を揺さぶるだけの魅力があったというわけだ。

    フォードの、あるいやトランプやレベルの支持者全員が、ひとり残らず大げさで攻撃的な混沌の煽動者だということはありえない。たとえば、フォードの支持者全員が、薬物取引に関するフォード家の過去や、同性愛者を貶める性差別主義的な言葉を使っていたことが明らかになった保守系候補者をフォードが支持しつづけたことを快く思っているわけではないだろう。だが、最終的に大きな意味を持ったのは、フォードの支持者がそれを甘んじて受け入れたことだ。彼らが、こうした行動や思想の伝道者になる必要はない。そうしたものが繁茂することを許すだけでよかったのだ。

    沈黙や、受け身の姿勢、あるいは小声でつぶやく不支持では、何も勝ちとることはできないし、あなた(善)と彼ら(悪)を区別する役にも立たないだろう。これは古い基準だ。トランプ以前の恵まれた時代には、こうした基準にこれほど意味があるとは考えもしなかった。けれど、わざわざ私を怒鳴りつけなくても、あなたの立ち位置ははっきりわかる。攻撃的な姿勢を見せたり、私を侮辱したり、脅したりする必要もない。しばらくその場にとどまり、何も言わず、できるだけ何もせずにいるだけで、ことたりるのだ。

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:梅田智世/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan