「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち

    社会批評集『日本の気配』を出版した武田砂鉄さんインタビュー1回目

    政治問題を忘れ去ることを急ぎ、ヘイトスピーチの萌芽を受け流し、被災地は「前を向いている」という声に簡単に染められてしまう。

    なぜ私たちは、力の強い者が支配する「空気」をやすやすと受け入れるのか。「空気を読む」だけではない。さらに病状は進み、「空気」が生まれる前から、その「気配」を先回りして察知して、自らを縛る空気を作り出していないか? 

    様々な政治状況や社会事件、個人のコミュニケーションなどを材料にそんな問いを投げかける『日本の気配』(晶文社)を、フリーライターの武田砂鉄さんが4月に出版した。

    森友学園の土地取引を巡り、大阪地検特捜部が財務省の38人全員を不起訴処分にしたニュースが新聞一面に並んだ6月1日、インタビューをした。

    積極的に気配に縛られようとする私たち

    ——「空気」と「気配」は、何が違うのでしょうか。

    日本人の特性で、「空気を読む」「空気を読め」とは言われますが、「気配を読め」とは言われませんよね。日本人のコミュニケーションにおいて、「空気を読む」とか「忖度する」は、すっかり当たり前のことになっています。

    でも、とりわけ今の政治状況を見ていると、それよりもっと深刻な事態になっているのじゃないかと思わざるを得ません。空気ができあがる前段階、つまり「気配」を察知し、権力者たちのメッセージに先んじて隷従しようとしてないかと。

    数日前、加計学園の一連の問題を巡って党首討論がありましたが、朝日新聞は「議論は平行線」という見出しをつけていました。

    中継動画を見たり、全文の文字起こしを読んだりすればすぐにわかることですが、あの討論は、野党の質問に対して誠実に答えているとは言い難い。真っ当な質疑応答ではないのだから、平行線であるはずがない。それをメディアはいつもの手癖で、「議論は平行線」と書いてしまう。

    この見出しだけ見たら、「ふーん、野党の質問も煮え切らなかったんだな」「この問題、いつまで続けるのかな」「そろそろ幕引きなのかな」と察知してしまう。幕引きに加担してしまいます。

    ——関連する話で、財務省の福田淳一前事務次官のセクハラ問題について、麻生財務相の発言を、読売新聞が「麻生節」と表現したことにも怒っていらっしゃいました。

    そうですね。財務省が文書でセクハラを認定した事案について、それを再びひっくり返そうとするような適当な発言を重ねていた麻生大臣の発言を「麻生節」とキャラづけして、「あの人はああだから仕方ない」と解放してしまうわけです。

    そんなの、国家を運営している側から見れば、「え? キャラ化してくれるの、マジでラッキー」と思うはずです。「ここで追及しなくてどうするの?」という場面で、なぜか引いてしまう。そうやって自主的に追及を引き下げていく様子が頻繁に見受けられます。

    党首討論後の記者会見でも、加計学園問題についての関与が疑われてきた萩生田光一・幹事長代行が、「何かを答えても、なかなかそれを了としないところの繰り返しがなされているんじゃないかなという印象を受けましたので、なかなか着地点と言いますか、最終形が分かり難いところがあるのかなと思います」と答えています。

    なぜ着地点や最終形を野党が出さないといけないのでしょうか。山積した疑惑を払拭して最終形を提示すべきは政権側です。「なんか野党物足りないよね」と思わせておいて、それに対して怒る力が弱い。政治問題に向かう国民の執念のなさが露呈してきたなと感じます。

    自分も「気配」の危うさを読みきれていなかった

    今回の本は4月後半発売で動いていたので、3月半ばまで原稿に赤字を入れる作業をしていました。その頃、モリカケ問題(森友学園、加計学園の疑惑)について文書改ざんの事実や新たな文書のスクープが出てきて、支持率が下がってきた。安倍政権が倒れた時のことを想定して、担当編集者と相談したんです。

    「今回の本には安倍政権に対する考察が多いので、最後の方に『確かに安倍政権は倒れたけれど、この時の空気を忘れてはいけない』など付け加えないといけないですね」と大真面目に相談していた。

    今、思い返せば、あの焦りは一体なんだったのか。むしろこちらが「日本の気配」を読めていなかったのは皮肉です。何も疑惑は解消されていないのに、支持率は逆に少しずつ戻り始めています。

    本の帯に「『空気』が支配する国から、『気配』で自爆する国へ」と書いてあるのですが、その状況は刊行後により強くなってきています。本のメッセージが切実に響くようになってきたので、届きやすい本になりましたが、本当にそれでいいのかという気持ちはどこかにあります。

    ——今朝の朝刊では、森友問題の不起訴について各社大きく報道していました。どう思いましたか?

    かなりの文言を削ったわけですが、核心部分を改ざんしたわけではないから大丈夫、問題なし、との結論を出したわけですね。新聞を読み比べましたが、社説では怒りつつ、なぜか最低限の冷静さを保ってしまいます。「退陣せよ」という要求を一面で打ち出してもおかしくない出来事のはずなのに、やはりどこか冷静です。

    相手がどれだけ稚拙な手段に出ようが、マスコミは、達観し、鳥瞰し、冷静さを守ってしまうところがある。でもそれが今の政権運営の甘い蜜になっていて、その繰り返しを見させられている。

    財務省が認定した福田前次官のセクハラについても、彼自身は、自分の声は体を通して聞こえるから、録音は自分の声かどうかわからないと認めないまま、カメラの前から消えてしまいました。「ふざけるな、表に出てこい」と言い続けなければならないはずなのですが、冷静になって、もういいだろと引き下がってしまうメディアの姿があります。

    ——そうした傾向は社会問題にも散見されます。

    cakesというウェブ媒体の連載で、本田圭佑選手について最近書いたのですが、本田選手が日大アメフト部の一件について、「監督も悪いし、選手も悪い。(中略)このニュースにいつまでも過剰に責め続ける人の神経が理解できないし、その人の方が罪は重い」とのツイートをした。これを、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちがリツイートしているのを見て、実に今っぽいなと思いました。そうやって世の中を達観する、という仕草が流行っちゃっているわけです。

    でも、監督も選手もメディアも悪いとすると、どう考えても得するのは監督です。ここ数ヶ月、あちこちでたくさんの人が嘘をつく光景を見てきたわけですが、唯一、自分の言葉を持って話していたのは、謝罪会見を開いた20歳の学生でした。言葉を慎重に選び抜きながら、誠実に答えていらした。「みんな悪い」と冷静ぶる行為は、そういう誠実な言葉を潰してしまいます。

    怒るのは恥ずかしいという風潮

    ——なぜ、その「冷静ぶる行為」を良しとしてしまうのだと思いますか?

    今、怒ることがどこか恥ずかしい行為とされがちですよね。「何、怒っちゃってるの?」「冷静になろうよ」という圧力がどんどん強まっています。

    振り返ってみれば、東日本大震災以降、原発再稼働なり、秘密保護法なり、安保法制なり、共謀罪なり、政治的にたくさんの山があり、その都度、支持率にも大きな変化があり、様々な形で反対活動が起きました。

    これはさすがに全員が怒るだろう、との期待を持つのだけれど、いつも怒る人が同じで、盛り上がりがいつのまにか和らぎ、政権がのらりくらり逃げるのを放置してきました。

    少し前まで怒っていたメディアが、「議論は平行線」や「麻生節」といった、問題の本質をずらして矮小化する文言を使いながら、波が引いていくのを眺める。そんなサイクルを繰り返しています。

    そうすれば、怒る人は疲れます。怒っても怒っても、成果が得られない。でもその怒りが間違っているわけではない。その切実さを毎回毎回更新しながら怒っている人たちがいる。

    ——ところがその怒りを軽んじる空気がある。

    昨年の冬、樹齢150年の巨木を伐採して「世界一のクリスマスツリー」を神戸の港に展示するというイベントに反対する声があがりました。

    阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂を掲げた計画に、「木の命を犠牲にして物語に活用する人間のエゴ」など様々な批判の声が上がったわけですが、計画を支援していた糸井重里氏が、「冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、自分の低さのところまで引きずり降ろそうとする」とツイートしていた。

    さっきの本田圭佑のツイートと同様に、今っぽいな、と思いました。違和感を覚えて、憤りを表明する行為を丸ごと下に据え置く行為で、まさしく、そうした処理の仕方こそ冷笑的だと感じました。怒っている人を、怒らないボクが上から見下ろし、怒らないボクたちが賢い、とする態度。

    この二つのツイートには、「前向いて歩いて行かなければならないのに、怒って足を引っ張るやつって嫌だよね」という共通項がある。そこでは、怒りという感情が安直に片付けられている。

    自分が今回の本で言い続けているのは、とてもシンプルなこと。怒り続けることって面倒臭いけれど必要だよね、大事なことだよねということです。

    「平行線」だ、「麻生節」だというその場を安易に収める言葉を、メディアで発信する人間が使い始めたらおしまいです。この本を出した後の世の中の空気を感じながら、その思いを強くしています。

    【連載2回目】そこに「私」の主体的な判断はあるか? 公共は自分が作る

    【連載3回目】「怒り」をどう取り扱うか 匿名社会の鬱憤ばらしにならないように

    【連載4回目】「私の声」が世の中を変えることだってある #MeTooやLGBTムーブメントにみる希望

    【武田砂鉄(たけだ・さてつ)】フリーライター

    1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋からライターとして独立。著書に『紋切型社会——言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『芸能人寛容論——テレビの中のわだかまり』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)、『日本の気配』(晶文社)がある。現在、新聞、雑誌、ネットメディアなどで連載中。