「怒り」をどう取り扱うか 匿名社会の鬱憤ばらしにならないように

    社会批評集『日本の気配』を出版した武田砂鉄さんインタビュー3回目

    いつの間にか「空気を読む」段階から、その前に強者が醸し出す「気配」に身を委ねてしまっている私たち。武田砂鉄さんインタビュー3回目は、それに対抗する手段としての「怒り」について、掘り下げます。

    「個人の怒り」と鬱憤ばらしの怒り

    ——「空気を読む」「気配に従う」ことへの対抗手段として、繰り返し、個人が怒りを表明し続けることを訴えていらっしゃいます。しかし、怒りも様々で、自分が主体的に抱いた怒りもあれば、誰かの怒りに便乗した怒りもあります。最近起きた、弁護士への大量懲戒請求の問題はどう受け止められましたか?

    懲戒請求した人たちに対し、損害賠償請求や刑事告訴などの法的措置がとられるかも、とわかった時の動揺は、やはり、自分の投げる文句が、絶対に自分に返ってこないという前提の下で放たれていたんだなということを明らかにしましたね。

    人を批判したり、人にものを言う時は、こちらにもダメージが生じるかもしれないと思いながら書きます。どんな会議であろうが、親との会話であろうが、何かの話題に関して批判的な見解を投げるということは自分に返ってくる覚悟が前提です。

    そうか、それすら怖がる人が石を投げていたんだなと、わかっていたことではありましたが、本当に明らかになってしまいました。

    ——先日の対談(政治学者の栗原康さんと5月24日に行った対談)でも、「怒りを権力者の特権にするのではなく、個々の人が怒るべきだ」とおっしゃっていました。一方で、ネット社会では報われていないと感じている匿名の誰かが、誰かを引きずり下ろすために表明する怒りも多いです。内閣府の「国政モニター」にヘイトスピーチ的な意見が掲載されていた問題もそうですが、それが権力者に利用されることさえあります。

    そうですね。個というのは「わたくしである」ということが最低条件ですから、「わたくし」というものがないならば、「個の意見」を装っていてはいけない。コレはオレの意見だが名は名乗らない、って奇妙です。もちろん、先日のテレビ朝日記者のセクハラ告発のように、いたずらなプライバシーの暴露や個人攻撃から身を守るために名前を出さない、との判断は別です。

    きちんと名前を名乗るかどうかで「わたくし」かどうかを判別できるし、一方で、匿名の殴り書きを「個の意見」として認定してはいけないですね。でもそういった条件を絶対条件にすると、一昨年に話題になったブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」も「匿名じゃん」で片づけられてしまうのが難しいところですが。

    ——最近、武田さんは「私怨」が大事だと色々なところで表明されています。ただ、「私怨」はきちんと取り扱わないと、個人的な恨みで人を切りつけるネガティブな動きにもなり、危険だとも思います。

    「私怨」という言葉は、先日、尊敬する作家の桐野夏生さんと対談した折に、桐野さんが象徴的に何度か語られていた言葉です。匿名のクレームではなく、怒る「私」であれ、とおっしゃっていた。

    「私怨取り扱い説明書」があって、テストを受けて「私怨許可証」を貰うわけではないので、私怨を、匿名の恨みつらみとどう区分けしていくかはなかなか難しい。

    ただし、顔の見える「わたくし」の私怨を出していかないと、真っ当な私怨が匿名のクレームに乗っ取られてしまいます。大きなメディアがとにかく「ネットの意見」に引っ張られていますが、これではパブリックな見解と、匿名のクレームだけが残ることになってしまいます。

    内閣府の「国政モニター」の問題などは、パブリックな見解と匿名のクレームが合体しながら、国家プロジェクトとして機能してしまった感があります。その時に、「わたくし」が「おかしいだろ」と告げるのが大事になってくる。

    SNSの議論 どうあるべきか?

    ——SNSでは名前も顔も晒している著名人に、匿名の個人が議論を仕掛ける炎上もよく見られます。そんな時に、「匿名の個人は弱いのだから、強い発信力がある著名人が殴り返すべきではない」という声が上がります。対等な議論はできないのでしょうか?

    自分はツイッターをやっていますが、色々と突っ込んでくる人で、アイコンやアカウントのプロフィールを見ても正体が見えてこない人に反論することはしません。挑発に乗っかって返したとしても、少しでも不利になれば「自分のような弱い存在に……」と逃げることもできるし、なぜか勝利を告げて立ち去ることもできる。

    それって、ズルいですよね。自分が議論の対象にするのは、後々、こちらに対して「ふざけるな」と言える人です。たとえば、政治家や芸能人なら、直接こちらに物申せます。

    以前、川崎で少年リンチ殺人事件があった時に、亡くなられた少年の母親の私生活に苦言を呈した林真理子氏のコラムに異議を申し立てましたが、あの母親は林真理子氏に対して基本的に反論できないからです。

    ただ、匿名でずっと「○○人死ね」と特定の民族を罵っている人をそのまま野放しにしていいかというと、それは議論するまでもないことなので、適宜、批判しなければなりませんけれど。

    自分はしませんが、自分を批判するツイートをリツイートした後、「なんで名もなき人間を晒すんですか?」との批判を受けている光景を見かけます。Twitterという対等なツールで議論しているのに、力関係のさじ加減を、いきなり匿名の人物が定めてくる怖さがあります。勝ったとか晒されたとか、さじ加減を匿名の個人が調整できる。当然、議論はできないなと思います。

    ただし、そういう流れに個人が合わせて、怒るのを諦めてしまうと、日常社会でますます気配を読むようになり、匿名の怒りが暴発する。「安倍辞めろ」でも「何が#MeTooだよ」でもあっても、どんな方向であっても名乗らずに本音を加速させてしまう。それは怖いことです。

    怒りの取り扱いは難しい

    だから怒りの取り扱いはますます難しくなっています。

    イイ感じのことばかり言うクリエイターの発言を追っていると、喜怒哀楽の中で「怒」を使わないんです。取り扱いが一番難しいからですね。「喜・哀・楽」を、人に影響を与えるためにテクニカルに使いこなす。

    安倍政権の言動を批判するツイートをすると、「そうだ、安倍の首をちょん切れ」なんて反応が返ってくることがあるけれど、そんなこと言ってないし、そんなこと思っていない。自分の怒りの発露が、どこかの誰かの乱暴な怒りにエキスを注入して、加速させてしまう恐れもある。

    「あなたは怒れ、というけれども、どう怒ればいいんですか? 指示してください」と言われるのも、とにかく面倒臭い。怒るのにも指示待ちかと。

    認定書を発行するべきことでもないから、どうしても「考え続けるしかないですね」との暫定的な結論が繰り返されてしまって、煮え切らないなと自分でも思いますね。

    ——そういうのが面倒だなとなると、怒り続けるのを積極的にやめて、「どうせやるなら」と、それまで怒っていたはずの対象に加担していく問題も指摘されています。

    それは今の日本全体に染み渡っていることだと思いますね。

    「俺、怒ってたよ。2ヶ月前まですげえ怒ってたよ。今も怒っているよ。だけどさ、俺一人の怒りでこのプロジェクトを止めるのもなんだから、仕方ない。やるしかないよな」という振る舞い方ですね。

    『反東京オリンピック宣言』という本で、編者の小笠原博毅さんが「どうせやるなら」派と名付けています。五輪招致時の「アンダーコントロール」発言や賄賂疑惑、新国立競技場の建設費高騰問題など、様々な問題を見ては五輪に反対していたのに、そのうち、「どうせやるなら」と考えを改めてしまう。

    開会式・閉会式の演出を検討する有識者チームの一人に選ばれたミュージシャンの椎名林檎氏は、朝日新聞のインタビューでこう話しています。

    「正直、『お招きしていいんだろうか』という方もいらっしゃるし、私もそう思っていました。でも五輪が来ることが決まっちゃったんだったら、もう国内で争っている場合ではありませんし、むしろ足掛かりにして行かねばもったいない。だから、いっそ国民全員が組織委員会。そう考えるのが、和を重んじる日本らしいし、今回はなおさら、と私は思っています」(朝日新聞 2017年7月24日)

    これぞまさしく「どうせやるなら」派です。既存の価値観を挑発する表現者とのイメージを持ってきましたが、みんなで一緒に国策を背負いませんか、という積極的隷従に甘んじる。そういった変節をこれからの2年で散々見させられるのかもしれません。

    一色に染める空気や気配に抗って

    ——東日本大震災についても画一的な受け止め方を強いられる空気や気配を批判していますね。「地域の人を十把一絡げにするように、悲しいBGMを使い、喜んでいる表情を消してはいけない。そう思う。でも、それと同じように、『こういう撮り方は、地元の人はやめてくれと言っている』と一色にしてもいけない」と糸井重里氏の発言を材料に述べています。

    いくら復興が進んでも、悲しみや憤りや不安感を引きずっている人がいます。当該のコラムでは、批評家・若松英輔さんのツイート「泣いてばかりいないで顔をあげろという者の言葉を信用してはならない。人は、自ら歩く道を舌で舐めるような辛酸のなかに永年探しているものを見出すことがある。悲しみは情愛の泉である。そればかりか叡知の門でもある。人生には、悲しみを通じてしか知ることのできない、いくつかの重大なことがある」を引用しつつ考察しました。

    全てに寄り添うことなんてできませんが、外から、いずれかの可能性を剥奪するべきではないと思います。ましてやメディアがそれをやってはいけない。

    被災地は前を向いていることと、被災地は今も苦しんでいることと、その両方を考えなくてはいけないのに、どちらか片方に偏りがち。当事者ではない人も、ハイブリッドしながら考えていかなければならないはずです。

    福島県の南相馬市に移住した作家の柳美里さんがTwitterで、「『寄り添う』という言葉がよく使われますが、ある側に寄り添うということは、ある側から離れるということです。ある人の味方になるということは、ある人の敵になる可能性を含みます。『寄り添う』は、覚悟の要る行為・態度・在り方です」と書かれていて、なるほどと思いました。

    自分も安直に「寄り添う」という言葉を使ってしまいますが、どこかに寄って添えば、何かから遠ざかってしまうということを忘れたくない。

    その上で「寄り添う」という言葉を使うなら、福島に限ったことではないですけれど、大きなものと個人があれば、個の方に寄り添うことを徹底しなければいけない。今はあまりにも国家に寄り添いすぎです。「国民全員が組織委員会」になる必要なんてありません。

    ——しかし、物事の色々な側面を考えていくというのは複雑で手間がかかりますね。

    手間も時間もかかりますからね。目の前にABCDという選択肢があるけれど、Eだってあるよとなれば、全体像をつかむのに時間がかかる。そんな時に、影響力を持った人が「Aが大事だよ」と言えば、「じゃあAにしとくか」と納得する方が楽ですよね。

    ——武田さんは常に、簡単にわかりやすい話にまとめてしまってはいけないと訴えられていますね。

    予備校教師の林修さんが流行らせたフレーズに「いつやるか? 今でしょ!」がありますけど、自分は「いつやるか? 今じゃない!」と言いたくなる。「まだちょっと考えさせてください」が基本形であるべきだと思います。

    社会問題に対し、押し並べて「どうすればいい? 今答えて!」が要請されています。だからこそ「文句を言うなら、代案出せよ」が反論として機能する。

    首相や大臣に、そこにいるべきではないと声をあげている時に、なぜ、あるべき姿を個人が完璧に用意してから怒らなければならないのか。怒りのハードルをあげて、怒らせないようにしている。それに乗っかってはいけないと思います。

    【連載1回目】「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち

    【連載2回目】そこに「私」の主体的な判断はあるか? 公共は自分が作る

    【連載4回目】「私の声」が世の中を変えることだってある #MeTooやLGBTムーブメントにみる希望

    【武田砂鉄(たけだ・さてつ)】フリーライター

    1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋からライターとして独立。著書に『紋切型社会——言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『芸能人寛容論——テレビの中のわだかまり』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)、『日本の気配』(晶文社)がある。現在、新聞、雑誌、ネットメディアなどで連載中。