そこに「私」の主体的な判断はあるか? 公共は自分が作る

    社会批評集『日本の気配』を出版した武田砂鉄さんインタビュー2回目

    「空気を読む」のが当たり前になった日本で、社会の病状はさらに進み、空気ができる前の「気配」を察知して、積極的に忖度してしまう人が増えたと批判する武田砂鉄さん。2回目はさらに、なぜ主体的な判断を手放す人が増えたのか考えます。

    「波風立てない選手権」に参加している私たち

    ——「こう言っておくのが正解だろうから、自分もこう言ったほうが賢く見える」と、自分の主体的な判断を手放す人が増えた問題を本の中で指摘しています。ネットメディアにいると、SNSでそうした空気が作られているのをよく感じます。

    SNSだけでなく、テレビでも、「どっちにつく?」という二択の選択肢を提示されることが多いですよね。政治的なことももちろん、「ディズニーランドとディズニーシーどっちが好き?」「かき氷派? ソフトクリーム派?」と問われる。多い方を選んだ人たちがガッツポーズしたりしている光景をよく見ます。「波風立たない方に身を置いておこう」、がデフォルトになってきています。

    お笑い番組では「こっちに転がったほうがおもろい、おいしい」という正解が常に生み出されているし、それが個人のコミュニケーションにも落とし込まれている。

    SNSでは、次々に話題が流れてきます。これをリツイートするとちょっといい感じなのか、「いいね」しておくぐらいが無難なのか、反論したほうがいいのか、ブロックしてしまったほうがいいのか、空気や気配を見定めながら、そういう選択を個々人が繰り返し、「波風立てない選手権」を続けている。

    一方で、そんな風にみんなが「気配」や「空気」に従順だと、アナウンサーの長谷川豊氏や作家の百田尚樹氏のように、逆張りをすることでノイズを最大化する人も出てきています。

    本書でも書きましたが、長谷川氏なんて象徴的です。みんながこっちと言ったら、「いいや、そっちじゃない。こっちだろ」と意図的に踏み外して炎上する。結果、それによって地位を築いていく。

    困ったことに、そういう「逆張りで紛糾」、という流れを繰り返す話者がそれなりに話題になることで、きちんと怒り、そのプロセスを開示することが難しくなっている一面があります。怒ることがともすれば長谷川豊的なものと一緒のゾーンに片付けられてしまう可能性が出てくる。

    あっ、この人、「みんながよしと言っていることに対して、よしと言わない人なんだゾーン」です。それに組み込まれると落ち込むし、忸怩たる思いにかられる。とりわけSNSで立ち振る舞う時に、そう片付けられないようにするのが簡単なことではなくなってきた。

    発言している人の背景をある程度知っている人間であれば、これまでどういう発言をしてきた人なのかという前提を踏まえて、その人の発言を改めて受け止めることができるかもしれません。

    しかし、そうではない人から見れば、「波風立てる人」「立てない人」と雑に判別されてしまう。たとえそう区分けされようが、諦めてはいけないのだろうと思いますけれども。

    個人の問題は社会の問題

    ——今回の本では、気配を察知して動く社会を批判しながら、ご自身にも批判の矛先を向けています。冒頭の記事では、知人のマンションで起きた住民同士の言い争いに出くわし、「中国に帰れ」というヘイトスピーチの発言を放置してしまった自分に気づきます。

    このエピソードは今回の本の全体に横たわるテーマでもあります。この原稿から始まり、最後に個人に問われる「コミュニケーション能力」の話で終わるというのは、様々な媒体で発表した原稿を編み直す本を作る上で重要なことでした。

    政治の問題や国際問題を目の前にすると、つい自分と分離させた上で考えてしまう。分離させた上で、その問題と向き合う。まずは自分の日々の生活がある。そして、離れたところに安倍政権があり、もっと遠く離れたところにシリアの問題がある。

    でも本来、それは自分の生活と切り離せないはずです。

    フェミニズム運動のスローガンに「個人的なことは政治的なこと」という言葉がありますが、政治でも芸能でもどのジャンルでも、そのように考えるべきだと思っています。

    しかし、メディアで流れる言葉を見ていると、政治のことは政治学者に語らせ、憲法のことは憲法学者に語らせ、国際社会のことは国際政治学者に語らせて、専門家でなければ何も言ってはいけないかのように扱ってしまう。そのほうが記事の信頼度が担保されるからでしょう。

    でも、自分が経験したマンションでのヘイトスピーチもそうですが、個人の生活で起きたことは極めて政治的なことなのだから、切り離して考えるべきではない。

    自分自身「ヘイトスピーチ良くないよね」と散々書いてきたならば、知人のマンションで起きた揉め事から聞こえた「お前中国人だろう。嫌なら帰れ」という罵声に対して、「おい、それはおかしいだろ」と立ち向かっていかなければならないはずです。

    それを、ちょっとここで騒ぐと白い目で見られてしまうから、と考えて口をつぐんでしまう。このことは、小さなことかもしれないけれど、それと街中で大々的なヘイトスピーチが起きてきたこととはつながっているはずなのです。

    そのように考えていかなければ、いつまでたっても政治的なことを自分のこととして引き受けられないのではないかと思います。自分だけでなく、そういう負い目や引け目のようなものを多くの個人は持っていると思います。

    それを消してはいけない。たとえば「財務省の改ざん問題は確かに良くないけれども、俺も、部長のミスじゃなくて俺がやったことにしようとしたな」などと頷いたあとに、どう考えるかです。

    自分と分離して考えるのではなく、延長線上に社会問題もあるのだと考えなければ、為政者のやりたい放題になってしまう。

    かくいう自分も、こんな場で偉そうに語っているけれど、自分のこととして引き受けられてんのかよ、と自分で自分を挑発しなければいけないと思いますね。

    公共性や空気は自分たちが作る

    ——知人のマンションでのヘイトスピーチ事件の時に、自分が口をつぐんだ理由として、「公共のマナーを優先させ」と書いています。この「公共のマナー」と考えてしまったものが「気配」なのでしょうか?

    そう思います。自分の意見があり、想定される「公共性」というものがあり、それを天秤にかけた時に「あ、ここで迷惑をかけるわけにはいかないな」という思いが優先されてしまう。あらゆる場面で、自分ではなく、「公共みたいなもの」に比重がかかってしまっている気がします。

    ——ヘイトスピーチが個人の生活圏で起きた時、議論を避けるのは「公共のマナー」でしょうか? そこで議論になったら騒ぎにはなるかもしれませんが、本来、中国人であることを理由に国へ帰れと言うことは、そこでコミュニティーを作っていく上であってはならないことですよね。

    はい、あってはならないことです。政治に対して怒ることは、「きちんとした公共性」を取り戻す行為であり、ちゃんとした公共でありなさいと国民が要請することです。民主主義社会なのですから、こちらから、「あなたたちが整えなさい」、と要請する立場なのに、むしろあちらから「公共性」を要請される。

    今は、「偉い方ががんばって公共性を作っていらっしゃるんですから、それに従いましょう」と立場が逆転してしまっている感覚があります。

    政治家の人は確かに偉いかもしれないけれど、「あれ、もしかして偉いと思ってます?」とこちらから問い直すべきだと思います。彼らは本来、私たちのために働かなければならない代理人です。

    それを言ってはいけない空気があり、その象徴が、麻生太郎財務相のニヤけながらの答弁だったのではないか。パワーバランスをひっくり返すべきです。麻生太郎ではなく、国民が生意気になるべきではないでしょうか。

    気配を察知し、自己規制しないように

    ——ただ、個人が声をあげた時に、気配をみて押さえつける勢力も強い。例えばマンション騒ぎの時に、武田さんが「おい、そんなこと言っちゃいかんと思うよ」と口を出したとしても、「まあまあ武田さん、ここは穏やかに収めましょうや」と止める人も出てくるかもしれない。個人の声を押さえつける、集団の気配、総意のようなものも切り崩せないぐらい大きくなっていると感じます。

    そこで自分が怒ったとしたら、隣の部屋や向かいの部屋の人は顔をしかめるかもしれませんが、もしかしたら、少し離れたB棟の部屋から「そうだ! それは言っちゃいけないことだ!」と言う人が出てくるかもしれません。

    その可能性を自分が考えなかったのは愚かなことだし、「たぶん、これ言っちゃうとやばいのだろうな」と、言う前に勝手に萎んでしまったのがいけないことです。

    これって、あらゆる局面で生じうること。ここで声をあげたらこうなるだろうなと思っても、実際声をあげたら思いもよらない誰かがついてきてくれるかもしれない、という可能性を自ら捨ててはいけませんよね。

    日大アメフト部の問題でも、自分が選手の立場だったら、最小限のダメージに抑えるために、監督から指示されていなかったことにしようとか、自分が罪を背負って黙っておこうと考えてしまったかもしれない。

    でも、悪質タックルをした彼が、ああやって声をあげたら、他の部員さんも声明を出した。彼一人が声をあげたことで変わるわけだから、見習わなければいけません。

    ——それにしても気配を察知して、自分の振る舞いを決める傾向はいつ頃から強くなったのでしょうね。

    いつからかはわかりませんが、悪いことをした人を見つけたらどこまでも謝罪を強要するような社会において、とにかくそのターゲットにならないように気をつけまくるようになりました。

    だからこそ、とつなげていいのかはわかりませんが、『半沢直樹』のようなドラマが流行り、偉い誰かが土下座をする様子に視聴者が快感を覚えていく。自分のところの部長にやらせたいのにできないから、ということなのかどうか。

    偉い人が足を震わせて土下座しているのを見て「よっしゃ土下座だ! 気持ちいい! 日曜劇場が終わって明日から会社だ!」と見ている姿を想像すると、とても不健康な姿です。

    ——力を持つ人が醸し出す気配に積極的に隷従して、その人が倒れたら全力でぶん殴る。確かに不健康ですね。

    逆に、誰かが殴られることで、自分の安全は保たれているわけです。「よし! もう全員で叩いてよし!」と国民全員にLINEが回ってくる感じですよね。そうなった時にようやく出向いて行って、「あ、いいんだよね?  殴っていいんだよね?」と周りを見る。「みんな殴っているから、俺もよーし! ボーン!」みたいな感じです。

    本来であれば、怒りというのは「私はあなたに怒っています」と、個人に帰属するものです。自分の握りこぶしで殴るものです。何かに対抗する、批判するという時に、「よーしもういいぞ。全員で殴るぞ。火曜日10時集合な」といった感じでなければ怒れない。つまり、リンチしか怒る方法がない、それってとても危ういですよね。

    【連載1回目】「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち

    【連載3回目】「怒り」をどう取り扱うか 匿名社会の鬱憤ばらしにならないように

    【連載4回目】「私の声」が世の中を変えることだってある #MeTooやLGBTムーブメントにみる希望

    【武田砂鉄(たけだ・さてつ)】フリーライター

    1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋からライターとして独立。著書に『紋切型社会——言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『芸能人寛容論——テレビの中のわだかまり』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)、『日本の気配』(晶文社)がある。現在、新聞、雑誌、ネットメディアなどで連載中。