長崎にあった「幻の原爆ドーム」は、なぜ撤去されてしまったのか?
長崎にはかつて、「幻の原爆ドーム」とも呼ばれる遺構があった。浦上天主堂だ。原爆の悲惨さを伝える存在として、天主堂の保存を求める声も少なくはなかったが、結果として撤去、再建された。廃墟となった側壁の一部は爆心地に移設されている。
1945年8月9日午前11時2分。人類で2度目となる原子爆弾の投下を経験した、長崎。

広島に人類史上はじめてとなる原子爆弾が投下されてから、3日あとのこと。
当時、約24万人が暮らす街の上空約500メートルで炸裂したプルトニウム型原爆「ファットマン」は、一瞬にして多くの命を奪った。
市内は一面の焼け野原「原子野」と化し、その年の暮れまでに、7万4千人近くが亡くなった。
そんな長崎にはかつて、「幻の原爆ドーム」とも呼ばれる遺構があった。浦上天主堂だ。

BuzzFeed Newsでは、長崎平和資料館に所蔵されている貴重な写真などとともに、その歴史を振り返る。
爆心地の直近にあった浦上地区は、古くからキリシタンの地として知られていた。信徒の悲願だった天主堂は1925年に完成した。

当時「東洋一の教会」とも言われていた教会は、長崎に暮らす多くのカトリック信者にとって祈りの場になった。

しかしそのレンガ造りの建物は、一発の原子爆弾によって、一瞬のうちに、無残にも破壊された。

当時、天主堂内にいた数十人の信者たち、そして2人の神父は即死。

この地区に住んでいた約1万2千人の信徒のうち、約8500人が亡くなったという。

焼け野原には、レンガ造りの残骸がぽつりと残された。

それでも、そこが祈りの地であることには変わりはなかった。

その年の11月には、生き残りの信者たちによる慰霊祭が開かれた。

教会の沿革史には、司教はこう追悼説教をし、参加者たちは号泣した、と記録されている。
私たちの親、兄弟、夫、妻、子供、友人、みんな良い人たちが一発の原爆によって神に召されていきました。
そして浦上はこのような焼野原になりました。明治6年に「旅」から帰って来た時は、「あばら家」でしたが、浦上に家が残っていましたが、今は一軒の家もありません。
被爆の翌年には、仮聖堂が完成した。その中で、天主堂の再建を求める声が、信者たちの間で高まっていった。

一方で、原爆の悲惨さを伝える存在として、天主堂の保存を求める声も少なくはなかった。

市の原爆資料保存委員は、原爆の被害を伝える遺構として廃虚の保存を求め、当時の田川務・長崎市長も前向きな姿勢を示していた。
しかし、市長は戦後、長崎の姉妹都市となったアメリカ・セントポール市を訪問後に、態度を一転させる。
原爆をめぐる国際世論が二分していることを理由に「天主堂が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない」との姿勢に転じたのだ(西日本新聞、2002年8月8日付)。
代替地への再建案もあったが、教会側も禁教時代(隠れキリシタンの時代)からの由緒ある土地であることなどを理由に現地再建を求めていた(先出、沿革史より)。
1958年に天主堂は撤去、翌年に再建された。廃墟となった側壁の一部は爆心地に移設されることになった。

なお、この再建のために天主堂の司教は渡米し、半年間にわたって資金の寄付を募っていた。沿革史では「多額の寄付を集め」た、としている。市長の渡米の前年のことだ。
渡米した市長が態度を一転させたこと、そして寄付ーー。これらを理由に、アメリカ側の思惑を指摘する推測も多くされてきた。核をめぐって国内外のカトリック教徒の反発を招きたくない、というものだ。
一方で、歴史ある地から負の遺産を撤去し、新たな天主堂を再建したいという信徒の強い思いがあったとする指摘もある(長崎新聞社、2010年8月3日)。
いまもなお、その確固たる背景はわかっていない。これが「幻の原爆ドーム」と言われる所以だ。
新たな浦上天主堂ではいまも、毎年8月9日に追悼ミサが開かれている。

撤去された「幻の原爆ドーム」の貴重な記録はいま、「Google 歴史アーカイブ」から見ることができる。
Googleは2013年から広島平和記念資料館や長崎原爆資料館と協力し、原爆に関するさまざまな資料を、インターネット上に公開している。
デジタル展示「長崎原爆と浦上天主堂」では、被爆前の天主堂の写真や、1946年1月にアメリカ戦略爆撃調査団によって撮影されたカラー映像が掲載されている。