「私だけ生き延びている」 AIDSで死ぬことを前提に生きていた男性が向き合う老い

    20年前、革命的な新薬がHIV/AIDS治療の転換点となり、死の淵から生還した人たちがいる。 第二の人生を生きるとはどういうことなのか。3人に聞いた。全3章の第2章。第1章はこちら

    ロブ(ロバート)・ジェイムズのブラックジョークはこれ以上ないほど強烈だ。しかも、心地よい笑い声を伴う。

    バーナードの自宅からわずか数ブロックの場所にあるアパートの地下に暮らしているジェイムズは、食卓の椅子に座りながら、「私は異性愛者だ。AIDSのブリーダーだよ!」と甲高い声でジョークを言う。テーブルの上には、書類と薬が散乱している。ジェイムズは歩くとき、杖を使用する。踊るように動く眉毛、年季が入ったちゃめっ気のある笑顔、甲高い声がコメディアンのエディー・イザードを思い起こさせる。

    ジェイムズは1985年、19歳のときにHIVと診断された。イングランドのサマセットに家族と暮らしていた時だ。ちょうど大学に入る直前で、ジェイムズは女性との出会いを期待していた。

    「世界最悪の病気と診断されるには最高のタイミングだった。セックスしたガールフレンドを次々と殺してしまうのだから」。外の空気を凍らせてしまうくらい痛烈な皮肉だった。「実に最高のタイミングだ」

    ジェイムズはもともと血友病を患っていた。血液の凝固を阻害する遺伝病だ。ジェイムズの場合は体内での出血が中心で、痛みを伴う内出血によって関節が損傷を受けていた。

    献血の検査が始まる1985年まで、HIVが混入した血液製剤が出回っていた。ジェイムズは長年にわたり、血液凝固因子を含む血漿(けっしょう)製剤を数日おきに自分で注射していた。血液製剤は不特定多数の血液を原料とする。

    「2万人の病気を濃縮したものを多くの患者が注射していたんだよ!」。ジェイムズは大きな声で皮肉を言った。

    ジェイムズはC型肝炎にも感染した。C型肝炎ウイルスには多様な「遺伝子型」がある。ジェイムズは複数の遺伝子型を持つ難治性の肝炎だった。

    ジェイムズはHIVと診断されたときのことを次のように振り返る。「父親に付き添われて病院に行くと、伝えなければならないことがあると医師は言った。残念だが、血液検査をしたら、HTLV-IIIが見付かった。そういう内容だった」。医学界がHIVという呼称を採用する1年前の出来事だ。

    医師はジェイムズに余命を伝えなかった。本当に知らなかったためだ。当時は約3年と言われることが多かったが、正確にわかる人は誰もいなかった。

    ジェイムズはどう返事したかを覚えていない。ただ、強い決意ができた。「大学に行ったら思い切り楽しもうと決心した。おそらく卒業まで生きることはできないから」

    ウェールズのスウォンジー大学に入ったジェイムズは、HIV感染者であることを隠さなかった。さまざまな憶測を呼んだが、ほとんどは同性愛者に違いないというものだった。「異性愛者だとカミングアウトするのに慣れてしまったよ」とジェイムズは笑う。

    1980年代、大学で左派のグループに属することは、HIVに感染した異性愛者の白人男性というだけで「名声」を得られることを意味していた。

    「アイデンティティー政治の全盛期だった。私はHIVというアイデンティティーを与えられた。彼らにとっては、『同性愛者の伝染病』(当時はそう呼ばれることもあった)の友人を持つことが重要だった。自分の信頼性を高めるため、私と友人になりたがる者もいた」

    しかし、ガールフレンドたちの両親は違った。

    「私に反感を持つことはなく、ただ別の女性と付き合うことを願っていた。娘の命を奪う人間に見えたのだろう」

    ジェイムズは少し間を置き、「彼らはそのことを決して認めなかったけれど」と続けた。

    ジェイムズは1つの関係が終わると、ほかの学生たちには想像できないような思考にとり付かれた。

    「もう誰かと出会うことはないだろう。もうすぐ体調が悪化し、死んでしまうのだから」。ジェイムズは話題を変え、大学生活について語り始めた。「気分の浮き沈みをどうにかするため、酔っ払うまで飲むことが多かった」

    HIVに関するデータが増えたことで、1980年代が終わるころには、平均余命も少し長くなっていた。しかし、ジェイムズは悟っていた。おそらく余命3年とは告知から3年ではなく、HIVに感染してから3年ということだろうと。

    「つまり、私は自由ということだ。『大学に最後までいるわけではないから、めちゃくちゃでも構わない。楽しまなければ損だ』という心境だった」。しかし、「結局は、ふさぎ込んでいることが多かった」とジェイムズは認めた。それでも、在学中に体調が悪化することはなかった。「いまいましい試験から逃れることはできなかったよ」とジェイムズは苦虫をかみつぶす。

    さらに幸運なことに、卒業後の数年も、比較的健康な状態が続いた。ジェイムズは当時のガールフレンドと、ハートフォードシャーに引っ越した。「どこかの時点で体調が悪化し、その3年後に死ぬと考えるようになっていた。3年間は生活できるよう、金をためなければならない。それが私の計画だった」。ジェイムズはガールフレンドに、体調が悪化したらどうするかを話した。「2人でスウォンジーに戻り、(美しい風景で有名な)ガウアー半島で死ぬんだ。理由は、最高の死に場所だと思ったからだ」

    ジェイムズはこうした話がドラマティックに聞こえることに気付き、そこで突然話を止めた。ドラマティックなことは嫌いなのだ。そして、「そういう会話をすることが普通になっていた」と説明した。

    長期的なキャリアについて考えず、報酬も気にせず、ただ面白そうだからという理由で仕事に就くことも普通になっていた。ジェイムズは、HIVや健康にかかわるさまざまな分野の仕事をした。医薬品関係や、ホームレス問題、緊急時に行う手当法の普及活動を目的としたNPO「セントジョン・アンビュランス」などだ。「漂うように生きていた」とジェイムズは振り返る。誰かが「年金」という言葉を使うと、笑うしかなかった。友人たちは次々とAIDSで死んでいった。

    英国政府は、HIVに感染した血友病患者を対象に、「賠償金」の支払いを開始した。

    「新聞は私たちを『罪なき犠牲者』と呼んだ」とジェイムズは冷笑し、ほかのHIV感染者に対する世間の見方に嫌悪感を示した。

    「私たちが政府を訴えないよう」、ジョン・メージャー政権が2万ポンド(約290万円)の賠償金の支払いを決定したことを受け、ジェイムズは小切手を持って住宅ローンを借りられる、住宅金融組合に行った。

    「窓口の女性に『まあ、なんて幸運な人なの』と言われた」

    ある意味、間違いではなかった。ジェイムズは後期HIVの患者を苦しめる大病をすべて回避していた。その病気とは、がんのことだ。しかし、有効な治療法のないまま年月が過ぎるうちに、医師への信頼は弱まっていった。そのため、1996年に併用療法が発表されたときも、あまり楽観的になることができなかった。ジェイムズはすでにブライトンに移り住んでいた。良いコーヒーショップがたくさんあるというのが理由の一つだった。ジェイムズは地元のHIV専門クリニックに足を運んだ。

    「まず自己紹介をして、『体調が悪化して死ぬときは、あなたを頼ることになるだろう。だが、それまでここに来ることはないと思う』と伝えるつもりだった。ところが、医師は私に口を開く隙さえ与えず、『今すぐ治療を開始しなければならない』と言った」。ジェイムズのCD4数は150で、危険な状態だった。

    「『治療は時間の無駄だ』と私が答えると、彼女はとても怒り、『そんなことはない。人々の命を救う治療法だ。あなたも絶対に受けなければならない』と断言した」。バンクーバーで国際AIDS会議が開かれた直後のことだ。

    ジェイムズはどうせ「たわ言」だと思いながらも、その治療法について調べることにした。「会議で発表されたデータを見て、『すごい。本当に効果のある治療だ』と感じた。そして、再び病院に行き、『治療を受ける』と伝えた。『この治療を受ければ確実に、少なくともあと6カ月は生きられる』と彼らは言っていた」。6カ月もたたないうちに、ジェイムズの余命は5年まで延長された。

    治療は成功した。ジェイムズはバーナードのようなラザロ・エフェクトを体験しなかった。劇的に回復するほど体調が悪化していなかったためだ。しかし、変化は確かに訪れた。まだ生きられるという事実を理解しなければならなくなったが、結局、何年も気持ちを整理できなかった。

    「とても時間がかかった。(薬物)耐性の恐怖、そして、リンパ腫やがんの恐怖が常にあったためだ。恐怖が現実になれば、私は死ぬ。10年以上先のことかもしれないが」。見かねた友人のアナが声を掛けてきた。

    「死ぬことを前提に生きるのはもうやめた方がいい、と彼女は言った。それでも私は、『年金や健康的な食生活なんて、私には関係のないことだ。どうせそんな年齢まで生きられないのだから』というような調子だった。彼女はうんざりしながらも、同じ言葉を繰り返した。私はそのうち、本当に生きられるのだと思うようになっていた」

    しかしその過程で、新たな悩みも出てきた。「大変だ。あと30年も働かなければならない。全く考えていなかった。その後は引退だ。何とかしなければ。国民保健サービスの積立金を支払ったことはあるだろうか? 不安が波のようにやって来た。私はあと30年も、何の仕事をするのだろう? 私は何をしたいのだろう?」。ジェイムズは年金の保険料を支払うため、節約を始めた。仕事に対する考え方も変わり、安定を求めるようになった。現在は、法律関係の講師として働いている。

    自分も老人になるかもしれないという、これまで考えられなかった現実にも直面している。

    「以前は、すべての老化現象が3年間に凝縮されると思っていたのだが、いまは、少しずつ老いを感じなければならなくなった」とジェイムズは苦笑する。

    変化はそれだけではなかった。ジェイムズにとって最も恐ろしく、緊急を要する病気だったHIVが、最も優先度の低い病気になったのだ。ジェイムズは突然、C型肝炎に対処しなければならなくなった。C型肝炎は30年近くの時間をかけて、徐々に肝臓をむしばんでいく。ジェイムズにとっては、想像すらできなかった未来の話だ。

    血友病の優先順位も高まった。引退後の体について考えなければならなくなったことが主な理由だ。血友病の内出血は少しずつ関節を腐食させる。そして、関節は再生時に変形する。

    ジェイムズの両肘はすでに変形している。両足首も、骨を適切な位置に戻すため、手術を受けたばかりだ。この手術を受けるまで、HIVで経験したどの痛みより強い痛みに耐えていたという。

    ジェイムズは何人かのパートナーとの関係を経て、今は1人だ。「1人が好きだ」とかみ締めるように言う。飽きっぽい性格ということもあるが、「誰かに面倒を見てもらうのが苦手みたいだ」

    ジェイムズはもうすぐ50歳になる。

    「昔は、2000年を祝うことができたら最高だと考えていた。だから、50歳を迎えることができて本当にうれしい。胸を張って、私は生きていると言うことができる」

    ジェイムズは、自分の世代に併用療法がもたらされた1996年を振り返ってこう述べる。「もし治療法が発表されないまま10年がたっていたら、私はきっと今ここにいないだろう。私たちが生きているのは、ただ幸運に恵まれたからだ」。その声はかすかに何かを帯びていた。罪悪感だ。

    「仲間や友人が次々と死んでいく中、私だけ生き延びている。どこかの時点で不公平だと感じるのは当然のことだと思う。私は幸運だったのだ」

    同じ気持ちを共有する人物がもう1人いる。ジェイムズも知っている女性だ。自分は恵まれていると、この女性は言う。「恵まれ過ぎている」と。この気持ちがわかる人はほとんどいないだろう。(第3章に続く)


    この記事は英語から翻訳されました。

    翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan