AIDSで死ぬということ。そこから生き延びるということ

20年前、革命的な新薬がHIV/AIDS治療の転換点となり、死の淵から生還した人たちがいる。 第二の人生を生きるとはどういうことなのか。3人に聞いた。全3章の第1章。

    AIDSで死ぬということ。そこから生き延びるということ

    20年前、革命的な新薬がHIV/AIDS治療の転換点となり、死の淵から生還した人たちがいる。 第二の人生を生きるとはどういうことなのか。3人に聞いた。全3章の第1章。

    エドウィン・J・バーナードは、イギリス海峡を見渡す建物の4階、太陽の光が差し込む小さな屋根裏部屋に暮らしている。窓を開けるとカモメの声が聞こえ、海風が吹き込む。窓辺には、1枚の小さな写真が飾られている。1995年に撮影された写真で、バーナードが男性の体に腕を回している。男性の名前はクレイグ。もうこの世にいない。

    バーナードもクレイグと同じ運命をたどるはずだった。長く生きられないことはわかっていたし、そう宣告されていた。しかし、それから21年。バーナードは椅子に座り、両手の指を組み、早口で話す。ときに思い出したくない記憶から目をそらし、ときに記憶の世界に入り込み、21年がたった今も、心の奥深くにあるものを理解しようと努力している。バーナードは誰も打ち勝ったことのない戦いに勝利したのだ。

    バーナードは偶然の幸運によって救われた。しかし、死の間際にあったバーナードを救ったのは医学の革命だけではない。何が彼を救ったのかを理解するには長い会話が必要だった。バーナードの最後の言葉が、いちばん最初の言葉につながった。頭上の収納スペースに、一度も開けていない箱があると、バーナードは言った。開けていないというより、開けることができないのだ。箱の中には、バーナードの命を救ったもう1つのものが入っている。しかしバーナードは、その重さに耐えることができない。

    バーナードは窓辺の写真を眺めながら、「1995年の自分を覚えているかどうかさえわからない」と話した。「私は、自分自身や人生の目的をどのように感じていたのだろう。20年以上がたった今、彼は誰だろうと思う自分がいる」

    バーナードは再び前を見る。窓の外にある現在、そして1年後を。かつてばかげているとしか思えなかった未来を見つめている。

    20年前の1996年夏。一筋の光が差し込んだ。15年に渡り、さまざまなコミュニティー、家族、大陸で多くの命を奪い続けたAIDSについて、カナダ、バンクーバーで開催された第11回国際AIDS会議で、驚くべきデータが提示されたのだ。

    プロテアーゼ阻害剤と呼ばれる新しい抗レトロウイルス薬に、驚異的な力があることが発見された。複数の薬を組み合わせたいわゆる併用療法(HAART療法=高活性抗レトロウイルス療法)でHIVの生活環を阻害し、ウイルスを無力化できることがわかったのだ。

    HIVを根絶することはできないが、ウイルスを抑制することで、この世で最も残酷な病気のまん延を抑制し、その姿を変えることができる。これで人々は救われる。そして、実際に救われた。

    しかし、それほど単純な話ではなかった。

    これから紹介するのは、早過ぎる死を迎える覚悟を決めながら、その死が訪れなかった3人の物語だ。3人はそれぞれの大陸で病床から立ち上がり、人生の終わりが第2の人生の始まりになった。新薬が導入されたあらゆる場所で、多くの人がこのような体験をした。HIVとAIDSの死亡率は激減した。第2の人生が突然訪れるこうした現象は、死の4日後、イエスによってよみがえらされた聖ラザロにちなんで「ラザロ・エフェクト」と呼ばれるようになった。

    しかしそれは、ちょうど聖ラザロの物語と同様に、単純な話ではなかった。聖ラザロが蘇生した奇跡は、奇跡を起こしたイエスを十字架に張り付け、救われた聖ラザロも殺すという計画を加速させることになった。

    死を迎える間近で得た第二の人生は、すべてを変えてしまうのだ。

    バーナードは1988年、医師から宣告を受けた。

    「『君の言う通り、HIVに感染している』と、医者は言った」とバーナードは振り返る。「検査前後のカウンセリングはなかった」。バーナードはイングランド、ブラックプール出身のユダヤ系英国人で、当時25歳だった。まだ治療法はなく、テレビでは「無知による死」を避けるよう呼び掛けるCMが流れていた。墓石が倒れる音がとどろく恐ろしいCMだった。男性の同性愛者を中心に、すでに多くの人がHIVに感染していた。

    「体が拒絶反応を示し、軽いノイローゼになった」。HIVと診断された人の中には、建物から飛び降りたり、自宅に火をつけたりする人もいた。

    英国の連続ドラマで初めてHIV感染者を取り上げた「イーストエンダーズ」では、当時の世間をよく表す落書きが画面に映し出された。「AIDSは人間のくず」。新聞各社も、感染者の過失だという論調を取っていた。キリスト教の指導者たちは、神の業、つまり罰だと言い切った。母親たちは葬儀で、息子がゲイだったことを初めて知らされた。生き残ったパートナーたちは、通夜、遺言、そして家から閉め出された。

    バーナードは、当時暮らしていたロンドン北部のフィンズバリー・パークで、親身になってくれる主治医を見付けた。病気について話すことができるのは主治医だけだった。

    「1980年代、世間の偏見は本当にひどかった」とバーナードは話す。「偏見という霧の中を歩いているような気分だった」。主治医は「とにかく体に気を付けて」と助言することしかできなかった。バーナードは最大限の努力をした。

    「頭の中の半分は『私は死ぬ。私は死ぬ』と繰り返していた。残りの半分は『ばかなことを考えるな。死ぬはずがない』と自分を励ましていた」

    数年後、障害者生活手当の受給を申請できるよう、別の医師が、余命6カ月を告知する書面にサインした。それでもバーナードは、死期が近付いていることを受け入れられなかった。

    「私は制度を利用しているだけだと自分に言い聞かせていた。本当の私は余命6カ月などではないと」。医師は本当に余命6カ月と考えていたのだろうか。それとも、給付金を受け取ることができるようにしてくれただけなのだろうか。その答えは今もわからない。いずれにせよ、いくつかの症状を除いて、バーナードの体はまだ深刻な状態ではなかった。

    1992年、残された時間を精いっぱい生きようと覚悟を決め、バーナードは英国から米国に移住した(ビル・クリントンがHIV感染者の入国を禁止する直前のことだ)。バーナードには夢があった。ハリウッドで記者になるという夢だ。死ぬときに世話をしてくれるボーイフレンドもほしかった。

    バーナードは目を細めながら、当時を振り返る。「カリフォルニア州には、ホリスティックでポジティブな環境があると聞いていた。AIDSで死ぬ運命にある人たちも希望を持っていると。私は希望の光を求めていた」。先のことは何もわからなかった。

    最初は順調だった。夢が現実になり、さまざまな雑誌の仕事で映画スターを取材した。

    セックスはほとんどしなくなった。

    「HIVを感染させてしまうのがとても怖かった」。それでも、バーナードは愛を求めていた。逃れられない運命に耐えられる愛を。1993年、体調が悪化し始めた。引っ越し先のサンフランシスコでの出来事だ。視力の問題と脚の痛みがあったが、決して重い症状ではなかった。

    「軽症のAIDSだ!」とバーナードは笑った。1年後には、笑いごとでは済まなくなっていた。

    免疫系の主要なマーカーに、CD4細胞(正式名はCD4陽性T細胞)と呼ばれる白血球の数値がある。血中のCD4数が200以下になると、免疫系の異常と診断される。HIV感染者が、弱った免疫系を原因とする感染症を発病すると、AIDSという別の診断名が付く(現在は、多くの医師が「後期HIV」という診断名を好む)。1994年、バーナードのCD4数は200を切った。

    バーナードは、サプリメントや健康食品に可能な限り投資した。AIDSの友人たちは次々と視力を失っていった。網膜に深刻な炎症が起きるサイトメガロウイルス網膜炎が原因だ。

    併用療法が発表されるまで、患者たちは抗レトロウイルス薬を単独(単剤療法)または2種類(2剤療法)服用していた。効果は限定的だった。バーナードはAZT(ジドブジン)、DDC(ザルシタビン)、サキナビルなどを処方されたが、効果は見られなかった。しかも、バーナードのウイルスは薬剤耐性を獲得してしまった。

    しかし1995年、バーナードはバンクーバーに住む1人の男性と出会い、恋に落ちた。名前はピーターとしておこう。ピーター自身、そして、ピーターのいるバンクーバーが、バーナードの運命を変えた。

    「彼はまさに求めていた男性だった。死にゆく私の世話をしてくれる男性だ」。バーナードはピーターと暮らすため、バンクーバーに引っ越した。翌1996年、バンクーバーで国際AIDS会議が開催され、記者の資格を持っていたバーナードは会場に入ることができた。新薬のデータが発表され、スタンディング・オベーションが起きたときのことを、バーナードははっきり覚えている。

    1996年、バンクーバーで開催された第11回国際AIDS会議

    「間違いなく重要な何かが起きたという感覚があった」。しかし、話を聞くうちに、恐ろしい予感が頭に浮かんできた。併用療法に使われる抗レトロウイルス薬は、バーナードにとっては、すでに薬剤耐性を獲得していたか、化学構造が似ているため効かない可能性が高いものばかりだったのだ。「多くの人が恩恵を受けるのは素晴らしいことだ。しかし私は例外だろう。あのとき、私はこのように考えていた」

    バーナードの予感は的中した。1999年、バーナードは瀕死の状態にあった。薬が効かなかっただけでなく、臓器がむしばまれ、肝炎を発症したのだ。ピーターは24時間体制で看病してくれた。

    バーナードは遠くを見つめながら、「私にとっては、健康がフルタイムの仕事になった」と言った。頬はこけ、下半身はやせ細り、HIVの初期治療で最も有名な副作用も出た。体の脂肪が失われるリポアトロフィーと、脂肪が別の場所に現れるリポジストロフィーだ。

    「エネルギーが消耗していた」とバーナードは振り返る。「近所に買い物に行くか、料理をするか。1日に1つのことしかできなかった。世界は小さくなる一方だった。椅子に座り、窓の外の世界を眺め、自分はあの世界の一員ではないと実感する日々だった」

    バーナードはこの時期について、少し戸惑った様子で、離れたところから説明する。ちょうど、子供のころに見た悪夢の話でもするように。

    「自分が21世紀を祝う可能性も、40代を迎える可能性も低いとわかっていた。われわれは2人とも、私の死を予期していた」

    2人の関係は、パートナーから「患者と介護者」へと完全に変化した。そして関係は悪化した。「私はそれまでの自分を失ってしまった」とバーナードは話す。「私は、私というアイデンティティーを捨て、ピーターの世話を受ける人間になった。彼は父親で、私は息子だった。力も自主性もない幼児になってしまった。このような関係を続けるしかなかった。私の知らない自分の姿があった。私は空っぽの存在だった」

    バーナードは英国の家族に、自分の死期が近いことを伝えることはできた。男性同性愛者の両親、特にリベラルでない両親の多くは、そうした報告さえも受けられないことが多かったのだが。

    「世話をしてくれる男性を見付けたから、1人で死ぬことはないと伝えた」。バーナードは無表情に語った。

    バーナードは結局、21世紀を迎え、最新の治療法について調べ始めた。そして、主治医のジュリオ・モンタナーとともに、全く新しい薬剤の組み合わせを考案した。カレトラという新しい抗レトロウイルス薬を含む8種類の薬剤を投与するというものだ。モンタナーは現在、HIVの専門家として世界的に高い評価を受けている。

    「極めて実験的な組み合わせだった」とバーナードは説明する。「死ぬか、元気になるか。いちかばちかの賭けだった」

    わずか数週間で、体調が回復し始めた。血中のウイルス量も減少した。副作用の胃腸障害はひどかったが、健康状態は6カ月で劇的に改善した。バーナードはある日、バンクーバーのスタンレーパークに散歩に出掛けた。

    「初めて椅子から立ち上がり、外に出た。初めて色のある世界を見ているような感じだった。公園を歩いた……」。バーナードは大きく息を吸い込んだ。その目には涙がたまっている。バーナードは何とか平静を保ち、さらに続けた。「公園を歩いたことをよく覚えている。自然の美しさ、空、木々、山、海をただ見ていた。そして、こう実感した。『なんて素晴らしいんだ。私は生きている。もう死ぬことはない』と」

    バーナードは椅子に座ったまま姿勢を変え、顔を上げた。まるで目の前にオアシスが広がっているかのように、周囲を見回している。「あれこそラザロ・エフェクトだ。私は死からよみがえったのだ」

    バーナードは健康と人生を取り戻した。それは自分を取り戻したことも意味する。

    しかし、この事実が2人の関係を壊した。

    バーナードが第2の人生を享受していることに気付いたピーターは、数年前に亡くした父親を追悼する時がついに来たと悟った。父親を亡くしたときのピーターの悲しみは、ボーイフレンドを助けなければならないという義務感によってかき消されていたのだ。ピーターは、ようやく表面化した悲しみに押しつぶされた。しかしバーナードは、世話をする側に回ることも、恩返しすることもできなかった。

    「私がよい患者だった領域で、彼は違った。そして、彼が素晴らしい介護者だった領域で、私は違った。私たちは関係を修復しようと努力したが、結局、憎み合うことになってしまった」。バーナードは友人たちに会うため、故郷の英国へと旅に出た。ある友人が、イングランド南部の海辺の街ブライトンに暮らしていた。

    「私はブライトンに一目ぼれをして、ここで暮らしたいと思った。バンクーバーは美しい街だが、もうとどまることはできなかった。自分の過去、亡くなった人々、ピーター、AIDSについて、あまりに多くのことを思い出してしまうからだ。人生の新たな1章に踏み出すときが来たのだ」

    バーナードはバンクーバーを去り、ブライトンに移り住んだ。芸能記者に戻るのはやめ、HIVとAIDSの治療に関する文章を書き始めた。この取り組みは後に、HIV感染の犯罪化に反対するキャンペーンへと発展した。

    セックスも再開した。多くの場合、投薬を続ければ、感染力を失うレベル(「検出不能」なレベル)までウイルスを抑制できる。この事実のおかげで、HIVを感染させてしまうかもしれないという恐怖は和らいだ。「ここである男性と出会い、セックスしたときのことをよく覚えている。10年ぶりのセックスだった。『最高だ! またセックスができるなんて!』という気分だった」

    2000年代前半、バーナードは現在のパートナー、ニックと出会った。ニックはドイツに住んでいるが、13年がたった今も、離れていることが2人のためになっている。共依存の心配がないと、バーナードは話す。

    もう死なないとわかったことは第1歩。長く生きられるかもしれないとわかったことは次の1歩。バーナードはゆっくりと目覚めている。

    「まるで生まれ変わったみたいだ」とバーナードは語る。「簡単に言えば、私は30代を失った。今は新しい命を手に入れ、第2の人生を送っている。1年先や2年先の計画を立てることもできる」

    鏡に映る自分もまるで別人だった。生命力に満ちあふれ、体重も増え、肌には血色がある。ただし、頬はこけたままだ。リポアトロフィーの痕跡が消えることはない。

    「長く続いた戦いの傷痕だ」。バーナードはこけた頬をふっくらさせるため、美容整形外科に通い始めた。バーナードの頬は自然な外見を取り戻した。もう自分の顔に過去の痕跡を見ることはない。

    バーナードは頭上の箱について、何が入っているかを話し始めた。しかし彼は、続きを話す前に、彼が知っているロブという異性愛者の名前を挙げた。彼の話をしておかなければならないと思ったのだ。(第2章に続く)


    この記事は英語から翻訳されました。

    翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan