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不要とされる不安が広がる日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)

熊谷晋一郎さんインタビュー第3弾は、杉田水脈議員の言葉が一部の人に賛同され続けている背景にある日本の空気について考察します。

「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」

自民党の杉田水脈・衆院議員が雑誌に寄稿し、当事者団体だけでなく、障害者団体ら他のマイノリティからも批判を浴びながら、本人や自民党からの明確な謝罪は未だにない。

障害者の差別問題に長年取り組んできた東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野准教授の熊谷晋一郎さんに寄稿を読んでいただいた上でのインタビュー。第3弾は、杉田議員の発言が一部に受け入れられているのはなぜか、日本の空気について語っていただいた。

税金をどのように考えているのか?

――生産性のない人、人口を増やすのに貢献できない人は税金で支援することに賛同が得られない、とする杉田議員のメッセージを、弱者の切り捨てのように受け止めた人は多いと思います。税金の使い道を決める国会議員の言葉ですからなおさら重みがあります。

「生産性がないから税金を使わなくてもいいというというロジックを読んだ時に、杉田議員は政治家として、税金をどのように捉えているのかとても気がかりになりました。そもそも税金を媒介にした富の再分配というのは、政治家の重要な仕事の一つだからです」

「社会は、みんなが自分たちに必要な財やサービスを生産し、それをみんなに分配することで成り立っています。この分配の仕方には、市場を通じて生産した分に応じて分配する『貢献原則』と、国家が税を使って必要に応じて分配する『必要原則』があります」

「うまく機能している市場があれば貢献原則に従った分配が実現します。しかしそれでは、必要性が満たされない人々と、必要性以上の分配にあずかる人々との間に格差が生じます」

「国は税金を集め、それを必要性が満たされていない人へと再分配することによって、必要原則に立って貢献原則を補っていくという機能を果たしているわけです。必要原則に基づく再分配は、必要性が価値の源泉であるという前回の私の主張や、憲法の定める生存権が、絵に描いた餅にならないための大切な国家の役割です」

「『生産性のない人に税金は使えない』という論の運びだけを文脈から切り離して批判することはフェアではありません。しかし、杉田議員の寄稿の表現は慎重さに欠けているといわざるを得ないでしょう。なぜなら、国政を担う政治家が、『必要原則はゼロでいい』と表明しているように聞こえてしまうからです」

「自分の方が生産性が高い」と誇示し合う社会?

――多く生産し、国に貢献した者が富を独占する、という社会は、弱肉強食の殺伐とした社会になるように思えます。そんな社会の中では、それこそ前回おっしゃったように、ありのままの自分でいることが許されず、社会の価値観の中で「より優れている自分」になることに力を注ぐナルシストが増えそうです。

「必要原則と貢献原則のバランスは大事で、その舵取りをするのが政治の重要な仕事の一つですが、貢献原則100%の社会では、皆がナルシストにならざるを得なくなり、優生思想がはびこることが予想されます」

「なぜなら、いかに自分に能力があり、生産性があるかの証明をし続けなくては、分配にあずかれなくなるからです。すると、他人よりも自分の方が『生産性が高いぞ』と誇示しあう傾向が強まるのではないでしょうか」

「杉田論文については、多くの批判がここに集まっているのですから、そういうつもりで言ったわけではないという説明を期待したいと思います」

マジョリティの当事者研究から見えるもの

ーー杉田議員の言葉に抗議の声が広がる一方、賛同の声も聞こえます。自分がいつ強者の立場から滑り落ちるかわからない不安の裏返しでもあるのでしょうか?

「私がテーマにしている当事者研究では、最近、『障害』ですとか『LGBT』ですとか、『貧困』など、自分の生きづらさを説明するカテゴリー名をもたないけれど、なんだか言葉では言い表せない生きにくさを抱えている、マジョリティ自認のある当事者の取り組みが始まっています」

「お尋ねの問題を考える上では、マイノリティの当事者研究ではなく、始まったばかりの彼らマジョリティの当事者研究を参照し、考えて続けていく必要がありそうです」

――マジョリティと自己認識がある人も当事者研究をする必要があると考えているのは、新鮮な問題意識ですね。

「『当事者運動』が、自他にとって比較的分かりやすいカテゴリー名をもつ人々によって担われてきたのに対し、『当事者研究』は、今まで表す言葉が存在してこなかった苦労に、言葉を見つけ出したり作り出したりする実践です。マジョリティの当事者研究が生まれるのは必然でした」

「評論家の杉田俊介さんも、そうした取り組みをされているお一人です。彼は、障害者運動やフェミニズムの主張に対して、シスヘテロ(自身の性別に違和感がない異性愛者)のマジョリティ男性という立場から真摯に向き合い、慎重に言葉を紡いでこられた方です」

「以前、杉田俊介さんと対談をさせて頂いたときに、障害がなくヘテロの多数派男性は、マイノリティとは逆に、『制度的にも法的にも、あるいは社会のデザイン的にも、あまりにも優遇されてきたがゆえに、それを問う必要性そのものがなかった。だから、ものすごく言葉が貧しい』とおっしゃっていました」

「杉田俊介さんはとても正直な方で、ご自身の規範意識や理性は、基本的にはリベラルやPC(ポリティカル・コレクトネス、政治的・社会的に公正・中立で差別的ではない立場)的なものが正しいと思っていると述べたうえで、しかし、『身体や無意識のレベルではそれについていけず、身がもちませんでした』とも述べておられる。これは、優生思想は言わずもがなですが、リベラルもまたナルシシズムに陥りうるという、重要な指摘だと感じました」

「さらに俊介さんは、知人と『自分の体の声を聞くのは怖いよね』という話をされたそうです。自分の言葉を自分で内省していくぶんには、自意識の問題だからいくらでも言い訳が効くけれど、自分の体の声を聞くのはすごく難しくて怖い、と」

見えやすい困難vs見えにくい困難

――普段、LGBTや障害を持つ人を応援している人でも、自分の子供がLGBTであることを打ち明けたり、障害を持つことがわかったりするとなかなか受け入れられないことに悩むという話はよく聞きます。自分の理性が否定するような自分の姿とは向き合いたくないですよね。

「リベラルに乗っかれるなら、それに越したことはない。ただ、そこに行ききれない人たちはわりと多数派のなかにいて、そういう人たちが、前々回私が言ったような正論で批判され続けたときに、排外的なもののほうに急速に取り込まれていくという風景、これが、マジョリティが置かれている現状についての杉田俊介さんの当事者研究的な見立てです」

「そして、その背景には『自分は虐げられ傷ついている』『自分は痛みを感じている』『自分は幸福ではない』といった、マジョリティ側の、ある種の言語化しにくい被害者意識があるともおっしゃっていました。しかしマジョリティであるがゆえにそれを表面化することはできず、それを言葉にしてしまうと差別になるという自縄自縛のなかで、だんだん自分が衰弱していく感じだそうです」

「これは、診断がついていない難病者や、精神障害・発達障害など、周囲からも自分からも『見えにくい病気や障害』を持つ人々の当事者研究と、とてもよく似た構造を持っています」

「困難は、表に見えていたり、あるいはそれを記述する言葉がすでに十分世間で流布されていれば、『見えやすい困難』になります。そして堂々と、『自分は困っている』と表現でき、ニーズも主張しやすくなります」

「しかし、私たちが日々使っている日常言語は、一部の困難しか表現・共有できません。ゆえに、日常言語で言い表すことのできない見えにくい困難を持つ人々は、困っていることやニーズを表せる言葉が世間に流通していないものですから、『自分の努力不足なのだろうか』という罪悪感をもちやすくなります」

「あるいは、相手に伝わる言葉がないものだから、医学が『症状』『逸脱行動』とレッテル貼りをしてしまうような表出になったり、暴力的で露悪的な言動で表現するほかなくなりがちです。その結果、自分の困難は伝わらず、ニーズは満たされないままになります。こうして、人知れず見えにくい困難を抱えて『困っている人』は、『困った人』とみなされていくのです」

「すると、彼らの中に罪悪感や被害感情が膨れ上がっていきます。加えて、堂々と言語化できる見えやすい困難をもつ他のマイノリティに対して、複雑な気持ちを抱え込むことにもなりがちです」

「すなわち、ここに存在しているのは、『リベラルvs反リベラル』だとか、『マイノリティvsマジョリティ』という対立構造というよりも、『見えやすい困難vs見えにくい困難』という対立軸なのではないのか、というのが私の整理になります」

「これは、当事者研究でいうところの、『言語のバリアフリー化』というトピックにつながる問題といえるでしょう。建物や公共交通機関、道具などが、マイノリティにとって使い勝手の悪いデザインになっているのと同様、言語という公共財もまた、一部の人々が自分の経験やニーズを表現するには不便なデザインになってしまっているというわけです」

必要なのは困難を表す言語のバリアフリー化

――マイノリティへの不満や対立を深める一因ともなっている、見えにくい困難への解決策はどのようなことが考えられるのでしょうか?

「当事者研究の狙いの一つは、類似した困難やニーズを持つ仲間と協力して、見えにくい困難を表す言葉を生み出し、広めることで可視化する、いわば言語のバリアフリー化とでもいうべきものです」

「杉田俊介さんから教えて頂いたのは、今や見えにくい障害や病気を持つ人々だけではなく、マジョリティも見えにくい困難を抱え込んでおり、罪悪感や被害者意識、見えやすいマイノリティ性への複雑な感情を募らせているのかもしれないということでした」

「これ自体、検証が必要な仮説ではありますが、もしもこの仮説が正しいのなら、これから行わなくてはならない作業は、彼らマジョリティが、自分たちの困難を正直に見つめ、言葉にしていくことなのだと思います」

「当事者研究の観点からいうと、その作業は、私が行うものではなく、マジョリティ自認のある、困っている人々が行うものです。ですから、杉田議員の発言を支持する理由となっているマジョリティ側の困難があるのかどうか、あるとしたらそれが『自分がいつ強者の立場から滑り落ちるかわからない不安』なのかどうかといった問いは、私が答えるべきものではないのでしょう」

「ですが、同時に当事者研究では、他の当事者の当事者研究からヒントをもらうことも多いのも事実です。とくに、一生懸命努力すれば、なんとかマジョリティと同じようにふるまうことができるような、可視性の低い障害や病気をもつ人々の当事者研究は、マジョリティの当事者研究を進めていく上である程度参考になるかもしれません」

「不要とされる不安」が推し進める悪循環

「前回紹介した、依存症やナルシシズムの当事者研究も、その一例といえるでしょうが、私自身も、身体障害という見えやすい障害だけでなく、慢性疼痛という見えにくい障害をあわせもっています」

「こうした、困難が表に見えにくく、ゆえに過剰適応の努力を強いられやすい人々の当事者研究では、自分たちの困難を『不要とされる不安』という言葉で表すことがあります」

「他人や社会から『面倒くさいやつ』とか『用なし』と見なされ、見捨てられてしまうのではないかという不安が原因で、『隠せる弱みなら隠しておこう』と判断し、身体に鞭を打ち続けてしまうという苦労を表したものです」

「自らの身体に鞭を打ち続けているナルシストからは、身体の声を羅針盤に他者や社会のありようを変化させようとするアクティビストの姿は、苛立ちの感情を引き起こすものとなります。どこかで、『こっちはこんなに頑張っているのに、あいつらは甘えている』と見えてしまうでしょう。その感情の延長線上に、必要性よりも生産性を優先する優生思想があります」

――今回の杉田議員の問題でも、杉田議員の寄稿を批判する人に対し、激しい差別的な言葉で罵る言葉がSNS上などで散見されます。あの寄稿をきっかけに、抑え込んできた不満が爆発しているようにも見えます。

「優生思想的な、『生産性がない人に税金をつかって再分配する必要はない』という考え方が広がれば広がるほど、『あなたは用無しよ』と言われたら、分配にあずかれなくなるという『不要とされる不安』をすべての人々が強めることになるでしょう。こうして、『優生思想→不要とされる不安→ナルシシズム→優生思想の強化…』という悪循環が成立します」

「不要とされる不安は辛いですから、もしもそれがマジョリティをも巻き込み始めているとしたら、みんなの中にどこかで、怒りや不満、被害者意識が広がっていることになるでしょう。被害者意識は加害者を要求するものですが、人はそこで、『誰が加害者なのか』の解釈を間違えることがあります」

「例えば、本当は暴力を振るうパートナーが加害者なのに、パートナーをイライラさせる子どもが悪いと見誤って、子どもを加害者のように扱ってしまうという、辛い現実に直面することもあります」

「青い芝の会の横塚が加害者を正確に射抜いたように、本当の加害者は私たち全員を『不要とされる不安』に陥れている、過剰な貢献原則と、優生思想というスティグマなのだ、という認識を共有することが重要なのではないでしょうか。それが、前回述べた、ナルシストとアクティビストの連帯が目指すところでしょう」

杉田水脈議員の言葉がもつ差別的効果 熊谷晋一郎氏インタビュー(1)

「生産性」とは何か? 杉田議員の語ることと、障害者運動の求めてきたこと 熊谷晋一郎氏インタビュー(2)

偏見を強める動きに抵抗するために 熊谷晋一郎氏インタビュー(4)

【熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)】東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医

新生児仮死の後遺症で、脳性マヒに。以後車いす生活となる。大学時代は全国障害学生支援センタースタッフとして、障害をもつ人々の高等教育支援に関わる。東京大学医学部医学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究。

主な著作に、『リハビリの夜』(医学書院、2009年)、『発達障害当事者研究』(共著、医学書院、2008年)、『つながりの作法』(共著、NHK出版、2010年)、『痛みの哲学』(共著、青土社、2013年)、『みんなの当事者研究』(編著、金剛出版、2017年)、『当事者研究と専門知』(編著、金剛出版、2018年)など。