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「生産性」とは何か? 杉田議員の語ることと、障害者運動の求めてきたこと 熊谷晋一郎氏インタビュー(2)

LGBT当事者だけでなく、障害者やがん患者らも抗議の声をあげている杉田水脈議員の寄稿文。障害や病気など、様々な困難をもつ本人が、自分たちの経験を語る言葉を探求する「当事者研究」という取り組みを進めてきた熊谷晋一郎さんに、杉田水脈議員の寄稿はどう響いたのか。第2弾ではさらに踏み込んで分析します。

LGBT当事者だけでなく、障害者からも批判を浴びている自民党の杉田水脈議員の「(LGBTは)生産性がないから税金を使うべきではない」とする寄稿。

障害者を生きづらくしている社会の壁について研究を続けてきた東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野准教授の熊谷晋一郎さんのインタビュー2回目では、この「生産性がない」と人を選別する思想についてさらに深く切り込みます。

杉田議員の言う「生産性」は「子供を産むこと」を指す

ーーまず一つ目の論点です。杉田議員の発信でもっとも批判が集まっている理由の一つが、「(LGBTは)生産性がない」として、公的支援は必要がない存在だと勝手に選別したことです。これに対し、LGBTだけでなく、障害を持つ人たちも反発しました。

「すでに初回でも述べましたが、重要なのは、この記事で言うところの生産性というのは、子供を産む能力に限定して使われているという点です。貨幣を介して市場で交換される財やサービスは、土地、資本、人(労働者)という3つの基礎的な『生産力』によって生産されます。この3つの生産力の規模を維持し続ける過程は、再生産と呼ばれることもあります」

「3つの生産力のうち、人を再生産する過程は、

  1. 子供を産む
  2. 命と健康を保つようケアをする
  3. 生産能力を発揮できるよう教育する


などの過程に分けられますが、杉田議員が『生産性』という言葉で言い表そうとしているのは、再生産のうち1のみといえるでしょう」

「『生産性がない人々に対して、国や社会は税金を使った支援(再分配)をしなくてよい』という考え方は、優生思想的なものと言えます。そして優生思想は、スティグマ(差別や偏見)現象の代表格です」

「これに対する反論としては、『いや、LGBの人々にも生産性がある』というものと、『そもそも生産性と分配を結び付けるべきではない』という2通りが考えられます」

「前者は、優生思想自体は温存させながら反論する立場で、後者は優生思想自体を批判する立場です」

「杉田議員の記事がいうところの生産性が1に限定されているとしたら、『LGBの人々に生殖という意味での能力が備わっていないというのは間違いで、生殖とセクシュアリティが切り離された性的指向を持っているだけだ』『1を様々な理由で選択できない、あるいはしない人々も、2や3の形で人の再生産過程に参加しうる』といった反論が、容易に思いつくところです」

優生思想そのものを批判すること

「そうではなく、生産性に基づいて分配を決定する『優生思想』そのものに対する批判は、より根本的なものであり、賛否両論ある難しい論点でもあるでしょう」

1970〜80年代の障害者運動を牽引した『青い芝の会』は、ずっと、『働かざる者、食うべからず』とでもいうべきこの優生思想を批判し、生産性の有無とは無関係に、すべての命が無条件に肯定される社会の実現を主張してきました」

「これは、昨今の障害者支援の現場でもしばしば目にする『障害者でも、適切なサポートがあれば潜在能力を発揮し、生産者になれるのだから、必要な支援を提供せよ』というタイプの運動とは一線を画すものといえます」

「もちろん、そのような運動にも機会の平等を目指すという重要な意義がありますし、否定できるものではありません。でもそれだけでは、優生思想そのものから距離を置くことはできないのも事実です」

「生産性とは無関係に、すべての命が無条件に肯定されるべきという『青い芝の会』の主張は、日本国憲法第25条に掲げられる国の生存権保障義務を踏まえれば、当たり前の主張に過ぎないのですが、当時はラディカルな主張として受け止められました」

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。(日本国憲法)

「今回、杉田議員の記事に対して、障害者運動の団体が異議申し立てをした背景も、『性的マイノリティへの対策は生産性につながらない→生産性につながらないのであれば国が公的に対応すべきものではない』といったロジックへの反発があります」

「一方、障害者運動における優生思想批判は、『優生学上の見地から不良な子孫の出生を防止する』という目的の下、『子供を産む』権利を障害者たちから奪って、本人の承諾なしに不妊手術を受けさせた旧優生保護法にも向けられてきました」

「本人の同意がない優生手術は、1949年から1994年の間に、統計に現れただけでも約16500件も実施され、その68%は女性でした。ゆえに障害者運動の中では、『子供を産む』ことへの自由を求める主張と、その自由を国家によって奪われた過去への謝罪と救済が要求されてきました」

「そのような背景があるため、障害者の反優生思想運動の中には、『生産活動で人の価値を決めるな!』という主張と、子どもを産むという形での『再生産活動への参入の自由を!』という主張が、併存してきたといえます」

自ら再生産への参入を求めてきた障害者運動

――生産性で人を判断するなと主張してきた障害者運動が、同時に再生産を求める主張をしてきたということですね。

「これは、障害者運動の側も、立ち止まって振り返るべき点であるように感じています。生産性の強調を批判する一方で、再生産への強い志向性を持ってしまうことが、誰かを抑圧してしまっている可能性はないのか、という振り返りです」

「例えば先日、『当事者研究と専門知』という本を出版したのですが、その中で、私と同年代の障害者同士で集まり、『先輩障害者から受け継ぐべきもの、受け継ぐべきではないもの』というテーマで座談会を行いました」

「その中で、私と同じ脳性まひという身体障害をもつ20代の女性が、優生保護法と戦ってきた先輩の女性障害者たちから、『あなたは産める時代なんだから産みなさいよ』と言われたというエピソードを紹介してくれました。彼女は、歴史的背景を踏まえればその言葉の意図はわかるものの、そんな時代でもないし、なんだか違和感を覚えたと話していました」

ーー若い世代、特に女性は再生産を求められると反発するわけですが、障害者運動を担った古い世代では、それが「普通に近づく」かのように主張されてきたわけですか。

「どこかでそういう面があったのでしょうね。『差別されてる自覚はあるか』という、脳性まひを持ちながら障害者運動をした横田弘という人物と、彼が所属していた障害者団体『青い芝の会神奈川県連合会』の評伝では、『いのちの環』という表現を使っていました」

「彼の思想に影響を受けた先輩方からは、『障害者の種を残すんだ』という思想を感じることはままありました。自由には、『~への自由』と『~からの自由』があり、常にその両者を求めることが必要です。私たち障害者は、『産む自由』とともに、『産まなくていい自由』を主張していかなくてはなりません。すなわち、目指すべきは選択の強制ではなく、選択肢の確保です」

その選択は、知らないうちに強制されたものではないか?

「さらに言えば、選択肢の確保は、形式的なものではなく、実質的なものでなくてはなりません。再び優生思想の例を取り上げましょう。優生思想は、産む場面と、死ぬ場面の2つにおいてあらわになります」

「それは例えば、出生前診断や尊厳死が問題になる場面で、障害を持つ子を『産むか産まないか』の選択を迫られたり、自らが不治の病や障害に直面して『死ぬか死なないか』の選択を迫られるときです」

「一見、選択肢が確保されていて良いことのように思いますが、選択結果は、スティグマや社会資源によって大きく影響を受けます。障害をもつ子どもの育児を支え、病や障害をもちながら豊かに生きることを実現する社会資源がない、あるいは知らない場合には、当然、中絶や尊厳死へと水路づけられるでしょう。障害者へのスティグマもまた、同じような効果を及ぼすことは明らかです」

――前提条件や環境が違っていれば、他の選択肢を選ぶ道が拓けたかもしれないのに、それが整っていなければ選択肢があってもないに等しいという意味ですね。

「形式的な選択肢の提示の問題点を、例えを用いて説明しましょう。あるファストフード店が、客の回転率を上げるために、客に気が付かれない程度に他店よりも硬い椅子を設置したとします。硬い椅子のせいで、短時間で店を出るよう強いられているにもかかわらず、客はそのことに気づかず、何ものにも強制されない自分の自由意志で店を出たと感じています」

「この例において、店を出ることを、中絶や尊厳死を選択すること、店に居続けることを出産や生存を選択することになぞらえてみると、硬い椅子は、先に述べた障害者にとっての社会資源の不足や、スティグマに相当するといえるでしょう」

「政治や運動の目指すところは、硬い椅子のまま座り続けることを強いたり、そんな店は早く出ろと命令したりすることではありません。また、椅子が硬いまま選択権のみ解禁すれば中絶や尊厳死は加速しますが、現代的な優生思想はそのようなスタイルで機能しています。政治や運動が目指すべきは、まず、椅子をもっと柔らかくすることなのだと思います」

「少し脱線してしまいましたが、この記事の生産性という概念をめぐっては、LGBの人々に再生産という意味での生産性がないというのは、2や3の側面を切り捨ててしまっているという理由で端的に誤りです。そして、生産性と分配を関連付ける優生思想は、スティグマの極端な例なので、すでに述べた理由から正当化できないと、私は考えます」

なぜ人を生産性で判断すべきではないか

――根本的な質問をさせてください。そもそもなぜ生産性で人の価値を判断すべきではないと言えるのでしょう? 私たちの住む社会では人の価値を生産性で測ることが日常的に行われている気がします。

「大変難しい質問です。先ほども、障害者支援の現場で、障害者が持っている潜在的な生産能力を開花させるために、社会に対して合理的な配慮を求めること自体は否定できないと述べましたが、その背景には生産性に価値が宿るという前提があります。しかし、それだけでは優生思想というスティグマを追認することになってしまいます」

「私もずっと、こうした問題を考えてきました。現時点での私個人の考えを述べることにしますが、是非、様々な立場からのコメントや批判をいただき、引き続き考えていきたいと思います」

「優生思想は、人の価値を、その人が生産した財やサービスの価値で測ることができると主張します。つまり、人の生産者としての側面に注目しています。しかしそもそも財やサービスに価値が宿るのは、それが人によって必要とされるからではないでしょうか」

「つまり、人の必要性こそが価値の源泉であって、生産性にも価値は宿るけれども、それは手段的かつ二次的な価値に過ぎないのではないかと私は思うのです。誰にも必要とされない財やサービスを生産したとして、その生産性に価値は宿るでしょうか?」

「生産性に価値が宿るのは条件付きですが、必要性には無条件に価値が宿っているとしか考えられないと個人的には思います。それが、生きていく上で様々な必要性をもつすべての人々に無条件に価値が宿ると私が考える理由です」

「このように考えてくると、『生産性がない→その人に価値はない→その人の必要性(ニーズ)を満たす再分配は必要ない』という優生思想のロジックは、目的と手段が転倒してしまっているように感じます」

ーー相模原事件に限らず、意識がなく、コミュニケーションも取れず、生活するのに全ての世話を見てもらわなければならない障害者や高齢者を「生産性がない」として生きる価値がないと見ている人は少なくありません。「生きているだけで価値がある」という思想をきれいごとと受け止める人もいます。

「私は医者としての仕事もしてきましたが、命ある身体と向き合う時は、身体そのものが持っている、必要性を満たそうとする傾向を応援しようとします。例えば、血糖値を維持し、酸素を十分取り入れようとする傾向です。その傾向自体が、必要性としての価値の源泉で、その価値を守り抜くのが医者の仕事だと私は考えて診療に携わってきました」

「もちろん先ほども述べたように、終末期や出生前診断など、優生思想が入り込みやすい現場が医療の中にもあります。本人の意思と、命の傾向との間に齟齬が生じることもあります。意思は、自分に固有の必要性を訴えかける身体の声や環境条件、過去の経緯などを踏まえず、社会に流布する通念や価値観などに容易にジャックされるものです」

「その結果、身体は明らかにある方向に進もうとしているけれども、本人の意思は別の方向を望むということが起こり得ます。そのときに、患者さんの中にも強い葛藤が生じ、患者さんの身体と、患者さんの意思と、そして私の三者で議論することが必要になります。この三者面談は、終末期などの特殊な場面で先鋭化しますが、日常診療においても常に行われているかもしれません」

「この三者面談において、患者さんの意思と、私の二者は多弁で、患者さんの身体は口下手です。したがって医師としての専門性は、口下手な身体のメッセージを、メッセージの最大の受け手である患者さんの意識と、メッセージの解読のプロである医師との共同作業によって読み取り、体が目指している方向性を三者面談に反映させるところにあります」

「しかし、患者さんの意思が、身体の声をあまり考慮せず、他者の目や、社会に流布する一般論や価値観を優先する傾向が強いケースもあります。その時は、三者面談が難航します。恐らくそういう状況は、『生きているだけで価値がある』という思想をきれいごとと受け止める人の状況と地続きなものでしょう」

自分を抑え込んで生きるナルシストと優生思想

――なぜ、身体の声をあまり重視せず、他者の目や、社会に流布する一般論や価値観を優先するようなことが起きるのでしょうか?

「非常に難しい問題ですが、ここ10年近く行ってきた、依存症自助グループとの当事者研究を通じて学んだことの中に、ヒントがあるような気がしています。例えば、依存症とナルシシズムを関連付けて論じた先行研究は、当事者研究の中で報告されている内容の一部をうまく説明できると感じてきました」

「精神科医のローウェンは、著書『ナルシシズムという病い』の中で、自分の存在に対する他者からの承認を得たいがために、他者から称賛されるであろう自己イメージ(理想像を投影した仮面)に、過剰なのめり込みをしている人びとをナルシストと呼びました」

「ローウェンによればナルシストは、仮面と現実の自分を区別することが難しく、身体を自分の意思の従属物とみなしており、『こうあるべき』という強靱な意志によって、みずからの身体的な感覚や感情さえもその仮面の下に抑えこむ傾向があるといいます。彼らは、等身大の自己を犠牲にしながら、仮面としての自分のイメージをより高めることへと向けられています」

「これは、三者面談において患者さんの意思が、身体の声や環境条件、過去の経緯などを踏まえず、社会に流布する一般論や価値観に支配されてしまう状況と共通しているように思います。私は、ローウェンの言うナルシスト傾向と、優生思想にリアリティを感じる心性との間に関係があるのではないかと感じているのです」

「ナルシストは、はじめからナルシストであったわけではないでしょう。等身大の自分を否定する人間関係や社会環境の中で、『等身大の自分では生きてはいけないのだ』と学習してきた結果だろうと思います」

「依存症の自助グループは、正直になって、仮面を外した等身大の自己を語り、それを仲間に受け入れてもらうことを通じて、長いこと医療者もさじを投げてきた依存症からの回復という偉業を成し遂げてきました」

ーー性的マイノリティも日本社会の中でなかなかカミングアウトできず、仮面をつけて生きている人が多いと言われています。政治家が、性的マイノリティへの公的支援は必要ないと語ってしまう社会の中で、等身大の自分を否定せざるを得ず、ナルシスト的に生きている人も多そうです。

「ナルシストが置かれている状況は、実は依存症者や障害者や、性的少数派といった様々なマイノリティが置かれている状況と、『等身大の自分を否定され、否定してきた』という点で、近いところにあるともみなせるでしょう。でも両者にはわずかな違いもあります」

「どんなに努力しても周囲の期待通りの仮面をかぶれないマイノリティは、ナルシストになる選択肢は残されておらず、等身大の自分を受け容れてアクティビスト(運動家)になるしかなかったのかもしれません」

「私は、ナルシストとアクティビストが、ともに正直になり、『等身大の自分を否定する社会通念や価値観』に苦しめられてきた共通経験に気づき、それを変えていくべく連帯する可能性を夢見ています」」

(続く)次回の公開は来週になります。

杉田水脈議員の言葉がもつ差別的効果 熊谷晋一郎氏インタビュー(1)

「見えやすい困難」と「見えにくい困難」が対立する日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)

偏見を強める動きに抵抗するために 熊谷晋一郎氏インタビュー(4)


【熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)】東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医

新生児仮死の後遺症で、脳性マヒに。以後車いす生活となる。大学時代は全国障害学生支援センタースタッフとして、障害をもつ人々の高等教育支援に関わる。東京大学医学部医学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究。

主な著作に、『リハビリの夜』(医学書院、2009年)、『発達障害当事者研究』(共著、医学書院、2008年)、『つながりの作法』(共著、NHK出版、2010年)、『痛みの哲学』(共著、青土社、2013年)、『みんなの当事者研究』(編著、金剛出版、2017年)、『当事者研究と専門知』(編著、金剛出版、2018年)など。