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【写真で振り返る】アメリカにあった日系人収容所ってどんな感じだったの?

写真家の宮武東洋は、第二次世界大戦中に米政府により日系人強制収容所に送られた。彼は収容された日系アメリカ人の日々を撮影し続けた。

真珠湾攻撃をきっかけに、第二次世界大戦を通して続いた、米連邦政府による「日系アメリカ人の強制収容」のことを知っているだろうか?

1942年、写真家として活動していた宮武東洋さんは、カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所に収監された。

当時このような日系人収容所は、「マンザナー強制収容所」を含め、米国内に10カ所あった。

この記事では、当時の日系アメリカ人の体験を記録した写真をまとめている。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

真珠湾攻撃があった翌日の1941年12月8日(現地時間)、カリフォルニア州オークランドの店の窓に掲げられた大きな看板。

看板には、「私はアメリカ人です」と書かれている。

日系人は西海岸の指定地域からの退去を命じられ、店は休業した。

店主は、カリフォルニア大学の卒業生だったが、人口密集地にいた多くの日系人とともに戦時中は収容所に送られることになった。

Clem Albers, via the Library of Congress

1942年、強制収容所へ送られる前にサリナスの集合センターに到着した日系人の家族。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

カリフォルニア州サリナスの集合センター。収容所へ移動する前。日系人の荷物の山。

Ansel Adams / Library of Congress

トム・コバヤシさん、カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所にて。

Ansel Adams / Library of Congress

倉庫の管理者たち。マンザナー強制収容所にて。

Ansel Adams, via the Library of Congress

列になって両手を伸ばし、柔軟体操をする少女たち。マンザナー強制収容所にて。

Ansel Adams, via the Library of Congress

1943年、山々を背にしてマンザナー強制収容所の畑で収穫をする日系の農業労働者たち。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

エスター・ナイテさん。ロサンゼルスからの事務員。

マンザナー強制収容所の自分の住居でアイロンをかけている。

Ansel Adams, via the Library of Congress

商業デザイナーのアキオ・マツモトさん。マンザナー強制収容所で看板を書いている。

Ansel Adams, via the Library of Congress

テーブルの上に置かれた署名入りの写真、切手が貼られた封筒、装飾用のカボチャ、テーブルクロスの上に載せられた観葉植物。

マンザナー強制収容所のヨネミツさん宅にて。

Dorothea Lange, via The Library of Congress

日系アメリカ人の少年。サンフランシスコから最初に退去させられた664人のひとり。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

1938年、サンフランシスコの中華街にあった地元新聞社の前で記事を読む人々。

サンフランシスコにいた中国人の多くは、広東人だった。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

1942年、米陸軍の市民排除命令第20号に応えて、サンフランシスコの戦時民間管理局に出頭する日系の住民たち。

A newspaper headline reads "Ouster of all Japs In California near"
Dorothea Lange, via the Library of Congress

1942年、オークランドで売られていた新聞。

カリフォルニア在住の全日本人は追放間近、と書いてある。

Toyo Miyatake Studio

若い女性。マンザナー強制収容所にて。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

ファースト・ストリートとフロントストリートに貼られた市民排除命令第5号。

日系人は4月7日までに退去するよう命令されている。

サンフランシスコで最初に影響を受けた地域だった。

Dorothea Lange, via the Library of Congress

1942年4月、サンフランシスコの戦時民間管理局でバスを待つ日系人たち。

Clem Albers, via the Library of Congress

1942年、ロサンゼルスのリトル・トーキョーで、日系アメリカ人が退去したばかりの店。

朝日洋服洗濯所の店の窓には、「閉店。オーエンズ・バレーには持っていきません」と書いてある。

1923年、宮武さんは、ロサンゼルス市のリトル・トーキョーに自身の写真スタジオを開業した。

宮武一家が、マンザナー強制収容所の自宅の居間でくつろぐ写真が残っている。

Ansel Adams / Library of Congress

宮武東洋さんとその妻。ふたりの間に座っているのは娘。

長椅子には少年が3人。マンザナー強制収容所の自宅の居間にて。

開業当時、宮武さんは静物の美術写真に情熱を注いでいたと、孫のアラン・ミヤタケさんは話す。

アランさんは現在、祖父の写真スタジオを引き継いでいる。

自らも収監されたとき、日系アメリカ人コミュニティに起きていることを記録するのが写真家としての義務だと、宮武さんは心に決めた。

Mountains in distance and a sign in a desert that reads "Manzanar Unit War Relocation Area"
Toyo Miyatake

マンザナー強制収容所に送られた写真家の宮武東洋さんは、レンズとフィルムホルダーを隠して持ち込み、収容所でカメラを自身で組み立てた。

「収容された1年目のあるとき、祖父は私の父アーチーにカメラを見せ、このようなことが二度と起きないように、この記録を残すことが自分の義務だと言いました」と孫のアランさんは話す。

コロナ渦でアジア系アメリカ人に対する差別が増加しているなか、人種差別の歴史と向き合う必要があるのかもしれない。

Toyo Miyatake

この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan