16歳、初めてのセックスでHIVに感染した

    HIV感染から15年を経て、ナサニエル・ホールは、みずからの物語を舞台上で演じる。「やらないといけなかったんです。恥辱を打ち破るため」とBuzzFeed Newsに語った。

    16歳の少年がひとり、英国グレーター・マンチェスターのストックポートにある公園のベンチに座り、大切な物が配達されてくるのを待っている。卒業式のプロムで着るために近所のレンタルスーツ店で注文した、クリーム色のタキシードだ。

    少年の名前はナサニエル・ホール。すっきりと整った顔立ちで、明るい茶色の髪をトゲのように逆立て、首にビーズのネックレスをつけている。彼がゲイであることは誰も知らない。それを口にすることは彼にはできない。だが、クリーム色のディナージャケットを着ることは、自分は人とは違うのだ、と伝えるための、彼なりの方法だ。

    自分がクラスメートたちと、さらに違う存在になろうとしていることに、当時の彼は気づいていなかった。

    数分後には、サムという名の20代の男性が振り返る。ナサニエルと目が合うや、たちまち会話が始まり、それをきっかけに少年のなかで興奮が膨らんでいく。シックスフォーム(大学進学前の学習課程)カレッジを目前に控えたいま、ようやく「ゲイであること」を探るチャンスが来たのかもしれない。もしかしたら自分と同じような誰かと出会えるかもしれない、という興奮だ。

    ナサニエルには知るよしもないが、ふたりの短い関係は、生涯続く結果をもたらすことになる。生まれて初めてのセックスで、ナサニエルは人生を沈黙で満たすウイルスに感染することになるのだ。

    15年後、ナサニエルはマンチェスター南部のリベンジュームにある、あの公園のベンチから数キロ離れた自宅アパートに座り、あの日からの展開をBuzzFeed Newsに語ってくれた。HIVと診断されたこと、ショックに言葉を奪われ、両親に打ち明けられなかったこと、そしてその後に続く何もかもが蝕まれたことを。

    その沈黙はまもなく終わる――少なくとも、ナサニエルにとっては。この3週間後、全国HIV検査ウィークと世界エイズデーに合わせて、彼は舞台に立ち、自分の体験をもとにみずから脚本を書いた劇を演じることになっている。郊外で生まれ育ち、初体験でHIVに感染した、中流階級の少年の物語だ。

    別の言い方をすれば、彼はいままさに、「最初のクローゼット」(ゲイであることを周囲に言えない状態)から脱出する前に周囲にできてしまった「第2のクローゼット」を出ようとしているのだ。

    「こわいですよ」と32歳になったナサニエルは言う。「同時に、ワクワクしてもいます。(この劇は)自分という人間を変えてくれました」

    だが、脚本を書き、10代の少年だったころを振り返っていく過程で、ナサニエルが思いがけず見いだしたのは、HIVの沈黙を越えた何か、さらに遠くまで広がる何かだった。つまり、いまだLGBTのティーンエイジャーを飲み込んでいる孤独と、それが危険につながる現実だ。


    2003年のあの午後、ナサニエルの目に、サムは神話上の生きもののように映った。過酸化水素で髪をまだらに脱色し、ほとんど疑う余地がないほどぴったりとしたTシャツを着て、異国人を思わせるほど深い色に日焼けした、本物のゲイの男性だった。

    それほど明らかに、まちがいなく自分と同じだとわかる人を見たことがなかったナサニエルは、すっかり魅了された。サムは何度かちらちらと振り返った。

    現在のナサニエルは、細い縁の眼鏡ときっちり刈り込んだ髪の下で微笑みながら、「あの時は卒業を控えた夏で、大人になって、世界で自分の進む道を探しはじめるんだと意識していました」と語る。

    「ゲイとして世界へ出て行って、その意味するところを見つける心構えをしていました」

    それまで、その意味するところとは、学校で悪口を言われることがすべてだった。たいていは、ホモやオカマ野郎(faggot and poof)という言葉だ。尻をひどく蹴られ、その勢いで自動販売機に叩きつけられたことを、ナサニエルは覚えている。

    唯一、同性愛に関する話が出たのは、性教育のときだった。エイズで死にかけている同性愛者の男性のビデオだ。パートナーに対してコンドームを使ってほしいと頼む方法や、使わなくても大丈夫と言われたときの対処法に関するアドバイスはなかった。すべてが、あまりにも遠い世界のように見えた。

    「僕は、郊外の白人中流家庭で育ちました」とナサニエルは言う。

    「頭のなかでは、『あんたたちみたいな連中にはわからない』という思いがすべてを圧倒していました」

    だから、サムがふらりと近づいて来て、ナサニエルと並んであのベンチに座ったとき、目の前に立ち現われたのは、めまいのするようなつながりの期待だけだった。ふたりは話し始めた。

    「彼はウィル・ヤング(ゲイであることを公表している英国の歌手)に似ていました。明らかにゲイだとわかる人を見て、すごく興奮しました」

    サムが23歳だったのか26歳だったのかは、いまに至るまで思い出せない。ただ、大人のように見えた。「当時は、怖いとか搾取されているとか、そんなふうには感じませんでした」とナサニエルは言う。だが、いまは確信が持てない。

    ふたりは再会を約束した。何回か会ったあと、ふたりはサムのアパートへ行き、そこで探検はさらに進展した。服が脱げ落ち、コンドームのパックが現れた。だが、サムはコンドームを脇にどけ、ボール紙製の入れ物から潤滑剤だけを取り出した。「検査を受けてるから、大丈夫だよ」とサムはナサニエルに言った。「これを使う必要はない」。

    それに異を唱えようとは、思いつかなかった。「僕は何も知りませんでした」とナサニエルは言う。彼が知っていたことといえば、この経験豊富な年上の男性が未来への門口だということだけだった。

    「彼はゲイの世界を見せてくれました。ふたりでカナル・ストリート(マンチェスターのゲイ・ビレッジ)に行きました。彼は(ゲイとしての)人生への扉を開こうとしてくれていました。だからあのとき、コンドームが省略されたときには、『あなたがセックスのやり方を教えてくれるなら、あなたのリードに従う』という感じでした」

    その夏、さらに数回、情事があった。ナサニエルの母親は何かを疑っていた。ゲイなのかと息子に訊ね、サムのことを打ち明けさせた。サムは年上すぎる、関係を終わらせるべきだ、と母親は言った。母の言うとおりだと直感し、ナサニエルはそのとおりにした。

    だが、シックスフォームカレッジが始まる直前、地中海のメノルカ島で家族とバケーションを過ごしていたときに、ナサニエルは体調を崩した。嘔吐、下痢、発熱。帰国した彼を診察した医師は、水から感染したウイルスが原因だと考えた。

    数週間後、陰茎から分泌物が出たときにようやく、ナサニエルは性感染症クリニックに行こうと考えた。そのころには、入学したばかりのシックスフォームカレッジで、ある少年とひそかに関係を築きはじめていた。

    クリニックでは淋病が見つかったが、ナサニエルは当初、HIV検査を受けるのを拒んだ。不安のあまり現実から目を反らし、自分の感じていたぞっとするような恐怖をはねのけようとしていたからだ。

    その後、クリニックの職員がナサニエルを説得するまでに数週間、そして検査結果が戻ってくるまでにさらに2週間が過ぎることになった。

    「クリニックにはすごく長い廊下があって、その先にあるカウンセリング室まで連れて行かれました。単刀直入に、『検査結果が戻ってきました。HIV陽性でした』と言われました」

    ショックが沁み込んできた。

    「僕は何も言わなかったと思います。泣いていたのは覚えています。バスに轢かれたような気分でした」

    クリニックの健康アドバイザーは、その当時に得られていたエビデンスにもとづき、あと36年、つまり52歳までは生きられるはずだとナサニエルに伝えた。1980年代には、HIV陽性と診断された人は、2~5年以内の死を宣告されたも同然だった。それに比べれば大きく延びたとはいえ、限られていることに変わりはない。また、現在では、HIV陽性と診断された人でも通常とほぼ変わらない寿命を期待できるが、15年前はそれよりもはるかに短かった。

    クリニックのスタッフは、その日の診察時間が終わったあとも、何時間もナサニエルをその場にいさせてくれた。彼がどれほど若くて傷つきやすいか、承知していたのだろう。

    「僕にわかっていたのは、それが不治の病で、自分が感染しているということだけでした」とナサニエルは言う。

    「新たな恥と自己嫌悪の層が、ゲイとしてすでに持っていたものに加わったんです」

    クリニックのスタッフは、友だちを電話で呼んで、力になってもらったらどうかと促した。だが、そのスタッフも、何よりも重大な決断に関しては手を貸すことができなかった。

    「怯えていました」とナサニエルは言う。

    「家に帰って、家族に伝えなきゃいけないことはわかっていました。コンドームを使うことについては、すでに母と話をしていたのに、手遅れだった。僕が台無しにしてしまったんです。家族に話さなきゃいけないというあの恐怖は、いまでも蘇ってきます。『僕は人間で、間違いを犯した』と言わなければならない恐怖です」

    自宅の玄関ドアに鍵を差し込みながら、ナサニエルが考えていたのは、2つの選択肢があるということだった。

    「まっすぐキッチンへ行って、ありのままを話すか。それとも、2階の自分の部屋へ行って、ドアを閉めるか」

    彼は後者を選んだ。そして14年間、家族には打ち明けなかった。

    そのかわりに、ナサニエルはカレッジでひそかにキスをした少年に電話をかけた。彼はその知らせにも動じず、その夜、自宅から数キロを走ってナサニエルの家まで会いに来てくれた。だからって何も変わらない、これからも関係を続けられる、と伝えるためだ。ふたりはその後、8年間つきあった。

    一方、家族には告げないまま、ナサニエルはカレッジに通った。個人指導の担当教師に打ち明けることはできた。教師は校長に話したらどうかと勧めた。校長には、1980年代にエイズ患者の看護師をしていた姉がいたからだ。

    校長はナサニエルを、校長室でのランチに招くようになった。

    「ふたりで座って話をしました。校長はよく助言をしてくれました。どれも善意からのものでしたが、必ずしも最善の助言というわけではありませんでした。彼の聞いていたエイズ病棟の話がもとになっていましたから」

    2000年代はじめには、HIVの影響は1980年代とは大きく異なるものになっていた。1996年に効果的な抗レトロウイルス薬が導入されたことで、HIV感染者の生活は劇的に変わり、HIVが自動的な死亡宣告となることはなくなっていたのだ。だが、一般大衆はそうした変化をほとんど知らなかったため、汚名はまだ残されていた。

    ナサニエルは、ごく限られた友人たちにしか打ち明けなかった。大学時代も、その後の20代のあいだも、家族には話さなかった。学位取得の勉強中、治療開始前だったために、絶えず疲労感がつきまとっていたときも話さなかった。抗レトロウイルス薬の処方が始まり、心臓が早鐘を打つような不安とともに夜中に目覚めるようになったときも、周囲には話さなかった。その後、症状に対処するために周囲の人たちと疎遠になっていた影響が積もり積もって、鬱を発症したときも。

    ナサニエルは、シンプルにこう説明している。「このトラウマを抱えて生きながら、それを口には出さない。まわりの人たちから孤立しているように感じていたことは、いまも忘れられません」

    だから、たとえばある日、HIVクリニックで数年ぶりにサムに会い、サムに避けられたときも、息ができなくなってしまうような影響があったのだが、ナサニエルはそのことを家族に話せなかった。

    その代わり、当時30歳のナサニエルは、「ちょっとした精神的崩壊」に追い込まれ、破滅的行動に走るようになった。

    「パーティ三昧で、酒を飲みすぎるくらい飲んでいました。昼間からドラッグをやって、腹を立てるべきではないことにも腹を立てていました。ガラス窓に自分の手を突き刺したこともありました」。そうした状態は次第に悪化し、ナサニエルいわく、「鏡を見ても、もう自分が誰だかわからなかった」という状態にまでエスカレートした。

    自分がしなければならないのは、過去の体験を書くことだとナサニエルは自覚していた。ドラマとして語り直し、悪魔を退散させなければならない。彼はすでに、地元のHIV慈善団体「ジョージ・ハウス・トラスト」の支援を受けていて、自分の人生を語る講演活動を開始していた。だが、それをドラマ化して演じることは、両親をはじめ、あらゆる人に打ち明けることも意味していた。何度か打ち明けようとして挫折したあとでは、それが残された唯一の方法だった。

    「黙っている時間が長くなればなるほど、家族は僕が隠していたことに動揺するだろうと思っていました」とナサニエルは言う。

    「息子が打ち明けられなかったんだから、自分は悪い母親だと、母は思うだろうか? 僕は自分のしたことをあまりにも責めすぎていました――失敗したことを、猛烈な恥や汚名を背負い込んでしまったことを。本当のところ、それはただのウイルスで、僕はものすごく運が悪かっただけなのに。そんなことが、頭のなかを駆けめぐっていました。カミングアウトする前に頭をよぎることとまったく同じです。それをしようとする恐怖のほうが、実際の行動よりもつらいんです」

    ナサニエルは、兄たちと妹にも打ち明けたいと思っていた。そこで、1年前に両親に宛てて手紙を書いた。「愛するお母さんとお父さん」手紙はそう始まっていた。

    「話さなければならないことがあります。ずっと前に話さないといけなかったんです。僕はHIVに感染しています」

    2日後、あなたを愛しているというメールが両親から届いた。その後、母親が鉢植えを持ってアパートを訪ねてきた。そのときの思い出に、ナサニエルは甲高い笑い声をあげた。

    「僕は言ったんです。『なんで鉢植えを持ってきたの?』って。母はこう答えました。『わからないわ。息子にあんなことを打ち明けられたときに、いったい何を持っていけばいいの?』」

    ふたりは座って話をした。「あなたが話さなかったことに、傷ついても怒ってもいない」と母親は言った。「ただ、あなたがそれを耐えてきたということがつらいだけよ」。そのときのこと話しながら、ナサニエルは泣き出した。

    ナサニエルによれば、父親は例の手紙を読んだあと、息子を失うことになると思ったという。1980年代以降、状況が大きく変わっていることを知らなかったからだ。両親はまだ、息子の症状について話すことに慣れようとしている最中だとナサニエルは言う。だがいま、次第に近づいてきているものが、さらなる対話を呼び起こそうとしている――あの劇だ。

    ナサニエルは長年、若者たちとともに劇場で働いている。2017年には、15~25歳の若者グループと協力し、セックスと恋愛に関する演劇プロジェクトに取り組んだ。その経験のおかげで、ナサニエルはついに、自分の物語を劇にして演じようという気になったのだ。

    「彼らはとても勇敢で、すごく美しい舞台をつくっていました」とナサニエルは言う。

    「自分の物語やトラウマを題材にして――それを見て、僕もこの劇をつくりたくなったんです」

    ナサニエルはまず、脚本の基礎として、すでに書いていた短い文章を使うことにした。16歳の自分に宛てた手紙と、両親に宛てた手紙だ。その一人舞台を自分で演じなければいけないことも承知していた。

    「舞台に立って、『これは僕の物語、僕はHIV陽性だ』と自分が話すのです」

    ロンドンにはHIVのことを公言する人は大勢いるが、北部では少ないとナサニエルは言う。自分の劇を見た誰かが、もっとオープンに生きてくれたらいいとナサニエルは願っている。

    話をしているときのナサニエルは、物怖じせず、観察力が鋭い。ベンチに座っていたあの初心な少年とは、かけ離れているように見える。彼にはいま、長いつきあいのボーイフレンドがいて、キャリアもある。そしてまもなく、社会への声も手に入れようとしている。

    だが、脚本を書くにあたってナサニエルは、当時の自分自身に戻り、同時に大人としての意識で、サムとの間に起きたことを振り返った。その結果、いくつもの気づきが、連なるように訪れた。

    「あの初体験はロマンチックなものではなかったとか、16歳の僕の目に映っていたようなことではなかったのかもしれない、と考えたりします」とナサニエルは言う。

    サムをどう判断すればいいのか、ナサニエルにはわからない。性的搾取が狙いだったのか? 自分がHIVに感染していることを知っていたのか? 

    ナサニエルは、サムに対して厳しすぎる見方をしたくないようだった。何よりも、そうすることでいっそう苦しくなるからだ。サムのアパートでサムの友人2人と一緒にマリファナを喫ったことがあったのを、ナサニエルは覚えている。だが、記憶はそこで途切れている。

    ある日、過去を思い出していたナサニエルは、突然すべてを書きとめはじめた。「すべてが出てきたんです。それを自分で読んで、『いったいどこから出てきたんだ?』と思いました」。彼はそれをもとに、同僚や俳優の友人たちと制作に取り組んだ。そして最終的にできあがったのが、『ファースト・タイム』と題した劇だ。

    「劇の最初の数シーンは、若いころの僕の話です」とナサニエルは話す。とうの昔に失われた無垢を再現して演じるという点では難題だが、この体験は、目からうろこが落ちるものでもあった。

    「いまの僕からすれば、彼が子どもだったこと、大人になっていなかったことは、疑いようがありません」。ナサニエルはティーンエイジャーだった自分についてそう語る。

    このプロセスを通じて、奇妙なことが起きた。以前、ナサニエルは16歳の自分に宛てて、きみはこの先も大丈夫だと告げる手紙を書いた。だがいま、その年齢に立ち帰ってみたら、それとは逆に、過去から現在にメッセージが送られているような気がしたのだ。

    「16歳の僕は、こう言っていました。『ごめんなさい。とんでもないことをしてしまって、ごめんなさい。いまあなたが耐えていることは、僕のとった行動のせいなんです』って」

    その反応は、大きな変化をもたらした。「頭のなかで、すべてが変わりました。『ああ、そうだ、自分を許してやらなくちゃいけない』と思ったのです」

    実際にそうしてみて、ナサニエルが気づいたのは、大人になってからずっと、みずからの不完全さゆえの過ちを正そうとするかのように、完璧主義的な要求を自分に突きつけ、自分にプレッシャーをかけていたということだった。

    「そうした気づきも、劇のなかに入れています」とナサニエルは言う。

    「とんでもない失敗をしたとしても、それを償おうとして、完璧にならなくてもいいんです」

    ナサニエルによれば、そんなふうに自分にプレッシャーをかける衝動は、HIV感染の有無にかかわらず、ゲイのあいだでは驚くほどよく見られるという。なぜなら、世界全体の発するメッセージが、いまだに変わっていないからだ。おまえは人とは違う、おまえには何かが足りない、というメッセージだ。

    ナサニエルの場合、その影響は、完璧主義に加えて、セックスや恋愛で自己主張できないという形でも現れていた。そうした反応は、若いころにいじめられていた多くのゲイ男性に共通している。

    「それで気づいたのは、本当は自分の身に起きてほしくないと思っているのに、起きるのを許してしまうことが、往々にしてあるということです」とナサニエルは話す。

    「そして、自分は何も言わないんです」

    こうした自尊心の低さと、それに伴う孤立は、人によってさまざまな領域で発露するとナサニエルは考えている。

    「それは苦しいもので、乗り越えるのはたいへんです。悲しいことですが、僕の知りあいにも、乗り越えられない人がたくさんいます」とナサニエルは言う。

    「彼らは自殺したり、ドラッグをやりすぎたりして、僕たちは彼らを失ってしまうんです。そしてそれは、『快楽主義的なライフスタイル』を送るというような、定型的な表現で描写されます。でも、その下にある苦しみに、世間は気づいていません」

    2018年11月になってようやく、それが変わる兆しが見え始めた。スコットランド自治政府が、世界で初めて、公立学校でのLGBTIに関する授業を義務化すると発表したのだ。

    この試みの狙いは、同性愛者やバイ、トランスジェンダーに対する嫌悪によるいじめと、それに起因する精神障害や自殺を防ぐことにある。多くの人にとって、そうした教育のニーズは、これまでになく大きくなっている。

    15年前のナサニエルはベンチに座って誰かと出会ったが、現在のティーンエイジャーにはスマートフォンアプリとソーシャルメディアがある。出会いのチャンスも、危険な目にあう機会も、拡大している。

    HIV感染者に占める若者の割合は、ナサニエルが診断されてからの15年で、増えても減ってもいない。イギリスでHIV陽性と診断された人は、2003年には全体で9000人、24歳未満では1000人あまりだった。2017年の段階では、若者を啓蒙して予防法を教える数々の試みにもかかわらず、いまだに500人あまりの若者がHIV陽性と診断されている(全体では4300人あまり)。全体の感染者数は減少傾向にあるが、陽性と診断される若者の割合は依然として減っていない。

    ナサニエルが劇の脚本を書くだけでなく、ゲイであることの語られざる複雑さを、当初意図していたよりも大きく扱うことにしたのも、そうした諸々の状況が影響している。

    「やらないといけなかったんです」とナサニエルは言う。「恥辱を打ち破るために」

    だがそれは、過去のすべてと正面から向き合うことを意味する。しかも、「母と父が客席に座って観ている前で、顔に白粉をはたいて、サウナに行ってあんなことやこんなことをしたと話すんです。ある意味、清めの儀式です」

    だが、過去を演じる劇について話すとき、ナサニエルは知らず知らずのうちに、自分の気持ちよりも他者の気持ちを大切にした16歳、自分自身を責めて苦しんだあの16歳の少年が、彼のなかに今でも残っていることをあらわにしていた。両親を前にした舞台で過去を追体験したらどうなると思うかと訊ねたときに、彼が思いをめぐらせたのは、自分自身の痛みではなかった。

    「つらいでしょうね」とナサニエルは言った。「両親にとっては」

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:梅田智世/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

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