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「新型コロナジャパン株」の対処法は? これまでかき消されてきた声を聴いて

日本のコロナ対策に疑問を抱いてきた医療人類学者の磯野真穂さん。日本独自のコロナの捉え方を「新型コロナジャパン株」と呼び、その対処法を提案します。

新型コロナウイルスの第8波はようやくピークを過ぎた。

政府は対策の全面緩和に舵を切っているが、今後も流行の波が断続的にやってくることを考えると、感染対策と緩和の難しいバランスをどう取ればいいのか。

医療人類学者の磯野真穂さんと引き続き、議論してみた。

※インタビューは1月10日に行い、それ以降も議論を重ねてまとめている。

感染対策、もう全てなしでいいのか

——日本のコロナ対策に違和感を持つ磯野さんはどんな対策を続けていますか?

例えば、コロナになったら重症化しそうな人に会う時は、自分の体調に気をつけるとか、会う時期を変えるとか、一緒に酒を飲まないとかは気をつけます。

中にはすごくコロナを怖がっている人もいるので、その人の気持ちは尊重するようにしています。先日、目のゴーグルをつけた人と一緒にご飯を食べました。

医療系の方なのですが、お会いしたときはずっとアイゴーグルをつけており、消毒液も欠かさず、ご飯を食べている間も周りに人が増えてきたら「危ない」とおっしゃってマスクをつけていました。病気がおありのせいか大変気を遣っているようでした。

「怖さ」は一人称的なものです。誰かに「そんなに怖がるのはおかしいよ」と言われても、気持ちは変わるものではありません。だから相手の感染対策は尊重します。

授業や講演などでも、マイクなど他人の触れたものに触れたくなさそうにする方もいます。そういう場合は、「自分だけ神経質に変なことをしている」とは思わせないような雰囲気作りは心がけています。

感染対策の徹底が植え付けた恐怖心

——先日、20歳になった大学生の子が成人の日に計画していた友人との旅行を、濃厚接触者になったことでキャンセルしたという話を聞きました。自己隔離の期間も過ぎていたのに「万が一、友人にうつしてはいけない」と断念したようです。感染対策の徹底を言われ続けたことで、これほど「人にうつす恐怖心」が植え付けられたのかと愕然としました。

相当に植え付けたと思います。若い世代ほど、早く染まったのではないでしょうか。

先日、小学校4年生の女の子のお母さんとお話しした際、お母さんが「(外だから)マスクを外していいよ」と言ったのに、娘さんは「恥ずかしい」とそのままつけ続けていた、という話を聞きました。

これはある意味、「感染対策の成功」ではないでしょうか。理由はどうあれマスクをつけているわけですから。

「誰かにコロナをうつさないように、マスクは人と会う時はきちんと着けなければダメですよ」と、マスクの着用を対人関係上のマナーとして教えた。マナーを守れないことは恥ずかしいことなので、「感染対策はマナーです」という呼びかけが小4の心にきちんと浸透したわけです。

——それは大きい影響として残り続けるかもしれないですね。

先日お話しした小学校の先生は、「過度に怖がらせないように感染対策を教えるのがすごく大変だった」と話していました。

ですが、感染対策に限らずリスク対策は、ある程度の恐怖を植え付けないと成功しません。「このままだと心筋梗塞になる可能性が上がりますよ」といった形で将来の自分の姿を想像させ、怖がらせる必要があります。

感染対策をマナーの一環として教えると共に、それを守らなかった時の悲惨な結果を想像させて行動変容を促す。岩永さんがお話しされた大学生の行動も、これまでの感染対策の成功例の1つといっていいかと思います。

——重症化リスクが低いと言われる子供でも感染者数が増えると、わずかな割合であっても、死者や深刻な後遺症が残る子が出てきます。子供の死や重症化はあってはならないことと受け止められ、専門家はピリピリしています。先日出た20歳未満のコロナ感染後の死亡例の分析で、病院に着いた時に既に死亡していた事例が44%だったという結果も衝撃で、危機感が強まっています。

44%という数字は、それだけ見ると大変な数字ですが、数字は見せ方によっていかようにでも印象を変えることができます。

44%は、50症例のうちの22例と理解していますが、例えばこれを、20代未満の感染者数約50万人を全数とし(厚生労働省提供のデータから算出。2020年9月から2022年9月)、その中に22例を入れれば、この数字は0.0004%まで下がります。

私は「全数からいったら0.01%にも満たないのだから大したことはない」と言いたいわけではありません。

そうではなく、リスクを強調したい人は全数は控えめにして、44%を強調するだろうし、そうではない人はもっと少なく見えるように数字を見せるだろうということ。そのくらいリスクの表現の仕方は、発信する人の価値観によって異なるということです

リスクを減らすための対策の程度は社会が決める

子どもの死という悲劇に立ち会ってしまった医療者や親御さんにとって、その出来事が人生観を変えるほど辛く、苦しいことであるのは間違いないでしょう。

でも、その悲劇をなくすために、ありとあらゆる対策を社会全体として講じるのかは、別次元の問題です。

人類学者のハイジ・ラーソンが出した『ワクチンの噂—どう広まり、なぜいつまでも消えないのか』(みすず書房)の中に、インフルエンザで17歳の娘を亡くした米国の両親の話が出てきます。

ご両親は、インフルエンザの予防注射を打つか打たないかの選択を娘に委ね、娘は「打たない」という選択をし、ご両親は娘の選択を尊重したことを後悔していると。

ご両親はその経験から、「たとえ基本的に健康で元気いっぱいなティーンエイジャーがかかった場合でも、インフルエンザが深刻な病気であると警告すること」が自分達にとっての使命であると話します。

このご両親のお話を重くみて、子どもの死や重症化があってはならないから、インフルエンザのワクチン接種を社会として義務化するという選択もありうると思います。

同じように、高齢者の餅の事故をなくすために、お正月に餅を売るのをやめるという選択、飲酒運転による事故をなくすために夜間に酒を売るのをやめるという選択もあるでしょう。

コロナ対策もそれと同じで、病院に着く前に亡くなっていたお子さん22人が限りなくゼロに近づくことを第1優先にし、ありとあらゆる感染対策をとるという選択もあるはずです。

でもそういう対策をとることで、失われるものもある。

そのバランスをどうとるのかは、それぞれの社会が選択するものであり、それが全世界のコロナ対策の多様さに表れていると考えています。

——一つのリスクをゼロにする代わりに失うものもあるわけですね。最初のインタビューでも指摘されていましたが、対策を取るべきリスクとして何を選ぶかは、社会の中で恣意的に決められていくところがあります。

はい。コロナ対策については多くの方が数値を上げながら発言をします。それは自分の意見に客観性を持たせるためですが、リスク対策について完全に客観的になることはできないことをまず皆が認識すべきではないでしょうか。

どれだけ数値を掲げて客観的に見せていても、そこには自分の経験、価値観が反映されてしまう。リスク対策はそういう主観と主観のぶつかり合いであることを互いが認識してから議論を始めないと、現在のツイッターで見られるような罵詈雑言の投げ合いになることは必至です。

コロナ対策については、三人称化される主観と、そうでない主観があった。私はそう捉えています。

コロナは労働問題でもある

私にとってのコロナはずっと労働問題でした。「大切な命」というこの3年間繰り返されたフレーズに私が乗れなかったのはそのせいです。

コロナ流行が始まった当時、私はちょうど失業者でハローワークに通っていました。コロナの煽りで契約を切られた人もたくさんいたはずで、ハローワークの外までたくさん人が並んでいました。朝の8時半からです。

その後しばらくしたら「密を防ぐ」ため、待合スペースの椅子が減らされました。結果、自分の順番が来るまで皆立って待つわけです。1時間近く待つことあるハローワークでの出来事です。

このような光景を見る中で、「ここの命は大切ではないのだな」と思わざるを得ませんでした。

医療関係者の言葉や、ICUの写真は頻回にメディアに掲載されましたが、ここには誰も来ていない。だから、「弱者を守ろう」と言っている人たちの声が私には響かなかった。「弱者が誰かは発信力のある人が決める」「ここの命は大切ではないのだな」と思わざるを得ませんでした。

もう一つ、忘れられないことがありました。

私が以前住んでいた地域にあった飲食店のご主人が自殺をしたのです。コロナで店が立ち行かなくなり、絶望してしまったことが原因と言われています。とてもショックを受けました。

ちょうど志村けんさんや岡江久美子さんが亡くなった頃でしたが、飲食店のご主人の報道は彼らに比べたらとても少なかった。自死は繰り返し報道しないというガイドラインがあるにしても、それだけには集約しきれない温度差を感じました。

芸能人がコロナで亡くなればものすごく報道され、「命は大事だ」と叫ばれる。

でも、その逆らいがたい「命は大事だ」という声の裏で、職を失っている人、自殺をした人もいる。声すら上げられない人もいる。

パンデミックが始まって以来、「あなたが無自覚なために誰かにコロナをうつして、どこかの誰かが亡くなるかもしれません」といった呼びかけが頻繁になされました。

でもそれは逆も言えると思うのです。あなたがそう呼びかけたせいで、あなたの知らない誰かが職を無くし、生活が困窮していたかもしれない。あのような呼びかけをしていた人に、そのような自覚は果たしてあったのでしょうか?

対策緩和と医療逼迫を単純に結びつけないで

——今、対策の緩和に舵が切られています。これまでのコロナ対策の反省点を踏まえて、何をすべきだと思いますか?

精神論と医療逼迫を結びつけるのはやめた方がいいというのは先に話した通りですが、さらに付け加えれば一部の専門家の方はもう少しSNSの発信の仕方を考えるべきだと思います。

けんかし、嘲笑し、バカにする。そのような発信に賛同するのは、その人の意見に初めから賛成している人だけでしょう。違う意見を持った人がそれを見て真摯に反省し、意見を変えることはまずないと思うのです。

SNSは恐怖や怒りを煽ると拡散されます。コロナ対策は、たくさんの変数が混じり合っていて、こういう対策さえとればいい、とは簡単に言えなくなっています。

医療をめぐる問題発信は「みんなのため」を強調しやすい話題です。

でもだからこそ、「みんなのため」を掲げて誰かを批判したりするときは、その発信をする自分の中にどんな価値観や感情があるのかを精査すべきだと思うのです。怒りと憎悪が駆け巡りやすいSNSにおいては、なおさらにこの慎重さが必要かと思います。

——私が先日取材して感銘を受けたのは、「医療は社会生活の一部にすぎないと思っています。『医療者が大変だから飲食業が我慢しましょう』というのは絶対に間違いです」と緩和を受け入れ、その上で、重症化リスクのある人は感染した時に早めに重症化予防の薬を処方してもらうように準備しておくという現実的な対策を訴える救急医のインタビューでした。

そのようにお考えになっている医療職の方が今の医療を支えてくださっているのだと思います。

そう考えると、大事なのはみんなが自粛することではなく、陰性証明書の提出をむやみやたらに要求しないとか、コロナにかかった時に医療機関がちゃんと診てくれるとか、救急車をタクシーのように使わないとか、そういうシステムの齟齬の修正ですよね。

日本のコロナ対応はまるで「新型コロナジャパン株」

先日、ウォール・ストリートジャーナルが日本と韓国を「マスクチャンピオン」(Mask-Wearing Champion)として紹介していました (1月20日)。

この中で日本は、マスク着用を法的に義務化しなかったにもかかわらず、その着用が広く行き渡った国として紹介されています。この紹介のされ方からも明らかなように、日本のコロナ対策はアメリカの新聞紙から見ると大変ユニークに写っていることがわかります。

私は最近、「新型コロナウイルスジャパン株」という言葉を使うのですが、これは医療人類学の古典的な病気の見方から発しており、それは「病気」を「疾病」と「病い」に分ける考え方です。

ざっくりいうと「疾病」は生物学的な病気の理解、「病い」は調子の悪い人だけでなく、その人を取り囲む人々も含めた、心身の不調に対する理解と対応のあり方を指します。この二つを合わせたものが「病気」です。

新型コロナのウイルスそのものが日本と他国で大きく異なるということは考えにくいでしょう。

ただ前半でお話しした「和を持って極端をなす」という対応や、ウォール・ストリートジャーナルの紹介のされ方からわかるように、日本のコロナは「病い」の部分がユニークで、それゆえに新型コロナという「病気」の現れ方もユニークになっています。私はこの現象を指すために、「新型コロナジャパン株」という言葉を使っています。

社会全体を巻き込んだ健康をめぐる未知の問題が起こると、日本は命令されたわけでもないのに極端なところでバランスをとり、それをいつまでも続ける傾向がある。これが今回も繰り返されています。この傾向にはいい面と悪い面があるでしょう。

リスク対策は社会が選び取っていくものですから、マスクチャンピオンであり続け、感染者が出たらイベントなどを次々中止にし、気が緩んではならない、と呼びかける社会のあり方を続けるのもありなのかしれません。

ただこのような状態を変えたいのであれば、自然科学の観点からこの病気を分析したり、啓蒙したりするだけでなく、「病い」の観点からこの病気を捉え、社会の構造そのものを変える努力をする必要があるでしょう。

意見の違う者同士で罵詈雑言を投げ合っていても何も始まりません。

——飲食店でバイトを始めてみると、経営者はコロナ禍でとても苦しんでいるのですが、感染対策について文句を言ったことがありません。それは受け入れながら、支えもないまま孤軍奮闘している印象です。

飲食店などを経営されている皆さんは、置かれた状況の中で生き残る術を日々模索するという生き方を選ばれているのかもしれませんね。

意識された危機に照らし、価値あることとそうでないことを安易に腑分けしたり(ex. 不要不急)、日々の姿勢を批判したり(ex. 気の緩み)する対策や呼びかけのあり方の功罪を振り返る段階に来ていると思います。

これまで顧みられてこなかった人、声を上げられなかった人の声に耳を傾けるべきだと思います。

(終わり)

【磯野真穂(いその・まほ)】医療人類学者

1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。研究テーマは、リスク、不確定性、唯一性、摂取。

著書に『なぜふつうに食べられないのかーー拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界ーーいのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(宮野真生子氏と共著、晶文社)、『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』 (集英社新書)がある。