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「新型コロナの方がインフルエンザより致死率は高そう」 そもそも比べられない2つの感染症を無理やり比べる理由

流行のはじめからインフルエンザと比べられ続けてきた新型コロナウイルス。オミクロンで重症化率が下がり、ますます「インフルエンザ並みだ」という声が高まっていますが、実際のところどうなのでしょうか?

新型コロナが登場するまでは、呼吸器感染症としてもっとも私たちに身近だった季節性インフルエンザ。

新型コロナの流行が長引き、規制にうんざりしている人も増えていることから、「コロナはインフルエンザ並みだ」と主張し、規制の撤廃を求める声も強まっている。

本当にコロナはインフルエンザ並みなのか。

BuzzFeed Japan Medicalは、正面から致死率を比較した国立感染症研究所感染症疫学センター長の鈴木基さんに話を聞いた。

※インタビューは3月7日に行い、その時点の情報に基づいている。

よく比べられてきた新型コロナとインフルエンザ

——そもそもなぜ新型コロナウイルスと季節性インフルエンザはよく比較されるのでしょう。

新型コロナの感染力や重症度などがインフルエンザと比べてどうなのかは、2020年にコロナの流行が始まった当初から問われ続けています。我々研究者もずっと議論してきました。

おそらく一番身近に経験してきた感染症なので、「あれと比べてどうなのか」は一番わかりやすいのだろうと思います。

また、新型コロナで人々の生活に規制をかける根拠となっているのは「新型インフルエンザ等対策特別措置法」であることも影響しています。

——コロナと比べる議論が起きるまで、季節性インフルエンザでたくさんの人が亡くなっていることをあまり意識せずに暮らしてきたような気がします。

そうなんです。年によっては、季節性インフルエンザの「超過死亡(※)」は1万人になることもあります。

※感染症や災害、戦争など特定の理由で平年より上乗せされた死亡者数。

——でもこの2年間、致死率を比較する研究は出てきませんでした。

これまで手元では検討していたのですが、それを研究者として、または専門家として公式に表に出してはきませんでした。

なぜかといえば、そもそも両者は比較のしようがないことがわかっていたからです。

分母も分子も数え方がバラバラ 正確な数字は把握しづらい

——なぜ両者は比較できないのかを教えていただけますか?

まず、まったく違う数え方であることが挙げられます。

季節性インフルエンザは定点把握疾患で、全数を数えているわけではありません。全国の約5000の医療機関を受診した人数を国として集めています。全体の数は推定式で推定しています。

これに対して新型コロナは仕組み上は全数把握疾患で、一応、全数が報告され、国が数えることになっています。

そもそも定点調査から全体数を推定したインフルエンザと、建前上は全数がカウントできているはずの新型コロナでは分母の性質がまったく違うのです。

さらには、それぞれの背景には、感染しても受診しなかった人が数倍はいると思われます。その実態は大規模な抗体調査などから推し量るしかありません。

また、分子である死亡者数も、インフルエンザで亡くなる方は主にお年寄りですが、全員がインフルエンザの検査を受けているわけではありません。むしろ大半は検査を受けずに亡くなっています。

インフルエンザが死亡原因です、と死亡届に書かれた人を人口動態統計で数えても過小評価になります。

なので、「インフルエンザ関連死亡」という、インフルエンザによる死亡者数と何かしらの肺炎による死亡者数を足した数を分子に使う手法もあります。ただ、今度はすべての肺炎が含まれるので、過大評価になります。

間として最も実態に近いだろうと考えられてきたのが「超過死亡」です。インフルエンザ関連死亡が例年よりどれぐらい多いかを見たのが超過死亡です。

しかしそれも本当にインフルエンザを原因とする死亡のすべてなのかといえばそうではなく、完全な代替指標ではありません。

一方の新型コロナの分子(死亡者数)は、検査が陽性となって亡くなった方は、どのタイミングで亡くなったのか、本当の死因が何なのかは問わず全員厚労省に報告されます。

これは本当に新型コロナを原因とする死亡という意味では過大評価の可能性がありますが、こちらも全てが診断されるわけではないので、過少評価の可能性もあります。そうなると、超過死亡を使うほうがよく、海外ではよく用いられています。

結局、インフルエンザと新型コロナは、分母の数え方も分子の数え方も違う。しかも、その分子も分母も本当の値がどこにあるのかは、正直言ってわからないのです。わからないものを両方比べてもわからない結果になることは、数を見る前から明らかです。

だから研究者は2年間、手をつけてこなかったのです。

さらにインフルエンザは毎年の流行とワクチン接種で、多くの人が免疫を獲得しています。コロナは流行が始まって2年で、必ずしも全員が免疫を獲得していません。公衆衛生的な介入の強さや治療薬の効果が異なることも、それぞれの重症化リスクや死亡リスクの推定値に影響します。

「規制をかける要件を満たしているのか?」 社会からの要請

——では、なぜ今、そんな無理な比較をあえてやろうということになったのですか?

まず社会的な要請が大きくなってきたからです。年末からオミクロンが流行ってきて、どうやらデルタよりは死亡リスクが低くなっていそうだとわかりました。

また、新型コロナ対策が長引いてきて、今はまん延防止等重点措置となっていますが、そもそも特措法では季節性インフルエンザよりも一定程度、重症化リスクが高いことが措置の適用要件となっています。

オミクロン株で重症化率が変わり、「そもそも、特措法適用の要件を満たしているのか」という議論が再燃してきたわけです。

そうした中で、政府分科会や厚労省のアドバイザリーボードの中からも比較できないのかという声が出てきた。

確かに学術上、比較するのは適切ではありません。日本に限らず、海外でも「りんごとみかんを比べるようなものだ」と言われています。

とはいえ「できません」の一言で終わるのではなく、コミュニケーションの一環として、一応こういう数字があって、比べるとこうだけれども、こういう理由で正確なことはわからない、と丁寧に説明することも我々の責任だろうと考えました。

とりあえずやってみて、比較が難しいという実情を伝えていくことが、より誠実な態度なのではないかという議論になり、我々も協力したのです。

——コロナの流行も長引いて、もう規制はやめたいという声が高まっています。本当にインフルエンザよりも重い感染症なのか示せ、と政府や専門家に批判的な声が大きくなっていることも影響しているのでしょうか?

社会的な要請の理由はそういうことだろうと理解しています。

いわゆる「ウィズコロナ(コロナと生きる)」の状態に、すでに実態としてなってきているわけです。これだけ世界中で流行し、動物にも感染する感染症で「ゼロコロナ」にすることは現実的な選択肢ではありません。

これから新型コロナとどう付き合っていくのかという覚悟のようなものが出てきている中で、我々が親しんできたインフルエンザと比べたいというのが社会のニーズなのでしょう。

致死率の推定値には幅があるが....おおむね新型コロナの方がインフルエンザより高い

——前置きが長くなりましたが、実際に比較してみるとどうでしたか?

こちらはそれぞれの感染症での致死率を推定したグラフです。一つの数字では比較できないので、いくつかのパターンを用意し、それぞれのパターンにも幅を持たせました。

ちなみに、学術用語では致命率という言葉を使いますが、一般には馴染みがないので、ここでは致死率と呼ぶことにします。

オレンジは、レセプトのデータベースに基づいて出した季節性インフルエンザの致死率の推定値です。青は、分母が推定受診者数で分子が超過死亡です。

そもそも受診者数が推定数ですし、インフルエンザにかかっても多くは受診しないし、例え受診しても診断されないこともあります。海外の研究からも数倍の感染者数はいるだろうと想定されるので、分母は4倍の幅を取って推定しています。

そうすると、インフルエンザの致死率は0.1は切るだろうけれど0.01は超え、だいたいこの幅に収まるだろうと考えられます。

一方で、新型コロナの値は、赤色は分母を流行の初めから報告されてきた累積症例数、分子を報告された累積死亡数で推定しています。

流行が始まった当初は致死率は5%を超えていたわけですが、徐々にワクチン接種の普及などで下がってきて、途中で1%を切りました。昨年末にさらに下がったのはおそらくオミクロンの重症化率の低下を反映しています。

緑は超過死亡を使った推定値です。

最初に比較はできないと言いましたが、これらの結果を見ると、ものすごく幅を広く取って、季節性インフルエンザの最も高い値と比べても、新型コロナの方が総じて高そうです。

確実に言えることは、流行当初は非常に致死率は高く、季節性インフルエンザよりもはるかに高かったことです。桁としてゼロが2つ違うぐらい差がありました。

それが新型コロナの致死率は徐々に時間と共に下がってきました。

要因は自然感染やワクチン接種で免疫を獲得した人が増えたことで重症化しにくくなったこと、直近はオミクロン株に置き換わったことで重症化率、致死率が下がったことなどが挙げられます。治療薬も貢献しただろうと思われます。

新型コロナの致死率が下がってきたことで、我々に馴染みのあるインフルエンザに近づいてきているのは間違いないです。

医療現場が実感する負担の重さはまた違う

——この結果に基づいて、アドバイザリーボードの専門家たちも3月2日に「オミクロン株による新型コロナウイルス感染症の現時点で分析された致命率は、季節性インフルエンザよりも高いと考えられる」と暫定的な見解を出しています。どういうインパクトを狙ったのでしょう?

特措法の要件を満たすか、という議論では直接的な答えではないですが、一つの考える材料を提示していると思います。

しかし、社会的にはおそらくそれほどインパクトはないでしょう。

結局、コロナと共に生きていくという覚悟のようなものが社会の中で少しずつできていく中で、やはりこれぐらいだよね、と受け止めていただけたのかなと思います。

——特措法が適用される感染症だというデータは出されたわけですが、早く日常生活に戻そうと考える人たちはおそらく納得しないでしょう。見方によっては「これほど差が縮まってきたのだから、もう規制しなくていい」と受け止める人もいそうです。

このレポートは数値と必要最低限の解釈だけですので、これをベースに議論してほしい。

これを見て、「新型コロナの致死率は下がっているとはいえ、まだ特措法の要件を満たしているから、重点措置や緊急事態宣言を今後も使っていくべきだ」という議論もあり得るでしょう。

一方で、「ここまで下がってきているのだから、特措法の対象から外すか、医療逼迫を避けなければいけないことも考えて、新型コロナ用の新たな法律を作るべきだ」という議論もあり得るでしょう。

——ただ、致死率が低くても、これだけ感染者の数が増えると医療現場の負担が重くなり、一般医療にも影響が出ることが現実的に起きています。新型コロナの患者対応に当たっている医療者たちは違った見方をすると思うのですが、どうでしょうか?

確かに患者を診ている臨床の先生たちは、「致死率の違いはこんなものかもしれないが、それでは測れない違うタイプの病気だ」と常々おっしゃっています。病気のメカニズムも違うし、院内感染対策のやり方も違うし、治療や管理の仕方も違う。

それに、たとえ致死率が下がっても、それ以上に感染者数が増えれば、季節性インフルエンザとは比べ物にならないほど多くの死者が発生することは、米国等の現状をみれば明らかです。

致死率が近いか遠いかだけでは病気は比較できないし、そればかり見ていると本当に重要な違いが見えなくなってしまうので注意しなくてはなりません。

対策の習慣やリスクの認知、感染対策技術が整えば日常の感染症に

——全体に規制の網をかけて過ごしたい人と、規制を全面撤廃したい人には大きな溝があります。どうやってすり合わせていくべきだと思いますか?

いつウィズコロナになるのかという声がありますが、もうすでに私たちは実態としてウィズコロナの生活を送っています。新型コロナを排除しようとしているわけではありません。

いま多くの人たちが望んでいるのは、さまざまな制約のストレスから解放されることなのだと思います。

本来、私たちは自由に自分の行動を決めたい。リスクもある程度とって「こういう行動をすればハッピーになるけど、感染してつらい思いをするかもしれない、さてどうするか」と自分で判断して自分で選びたいわけです。

結局、感染してつらい思いをしても、わかっていて自分の決めたことだから仕方ないと思えるなら、ストレスもあまり感じないかもしれません。

問題は、感染症の場合、その行動の結果が自分だけに返ってくるのではなく、一定の確率で他の人にもつらい思いをするリスクを与えてしまうことです。しかも、その大きさは健康な人と高齢者や持病のある人で大きく違います。

さらに、新型コロナのような新しい感染症では、それぞれのリスクの捉え方も違う。特に流行当初は、どういう感染症かもわからなかったので、新型コロナがまったく気にならない人もいれば、ものすごく不安な人もいました。

各々のリスクの捉え方も、リスクによる影響の大きさも違う中で、それぞれがバラバラに行動を取ってしまうと、本人が選んだわけではないのに望ましくない結果を被る人が社会の中に数多く出てきます。

そんな不公正は受け入れられないので、不便ではあるけれどみんなで制約を受け入れてリスクを下げようとしてきたのが、最初の緊急事態宣言以来の私たちの社会ではないでしょうか。

でもさすがに2年も経って、制約を続けることの弊害も大きい。いつまでも同じように続けるわけにはいきません。

ではどうするかです。制約によるストレスをなくしていくには、制約しなくてはならなくなった原因を取り除く必要があります。つまり、自分の行動で他人のリスクを不当に上げることがなく、社会の中で皆のリスクの捉え方がおおむね揃っているようにしなくてはなりません。

例えば、食中毒や下痢症への対策を考えればいいと思います。

私たちは何世代もの経験から、食事の前は手を洗い、生水は飲まない、食材は調理して食べるといった習慣があります。それを制約と感じる人もいるかもしれませんが、それほど多くはないでしょう。

そして社会のインフラとして、上下水道を整備し、食品を安全に流通して保存する技術や制度をつくってきました。すべての病原体ではありませんが、治療方法やワクチンもあります。

それでも食中毒や下痢症は起こるわけですが、それを私たちは日常のリスクの範囲内だと捉えています。

つまり個人の対策が習慣となり、技術や制度が整えられていれば、各々の判断基準で行動しても不公正な事態にはならず、日常の中で感染症と共存することはできる。

新型コロナも一緒です。

当初と比べ、対策の習慣やリスク認知はかなり整ってきましたが、まだ十分ではありません。マスクや3密回避は、習慣にするにはあまりに日常生活への影響が大きい。感染対策の技術としてワクチンができましたが、接種回数や対象年齢など使い方は完全に定まっていません。有効な換気や空気清浄の技術も開発する必要があります。

こうした習慣や技術や制度をもう少し時間をかけて確立できれば、下痢症や食中毒と同じように、日常的な感染症とすることができるでしょう。

弱者を守る公正さと、自由の制限とのバランス

——社会全体としてはコロナ対策は十分身につけていると思います。一方で、マスクはいらない、ワクチンもいらないという人も目立っています。揃えるのは難しそうです

確かに今はまだ難しい時期です。これから新たな変異ウイルスが出てくるかもしれませんから、リスクが変化する可能性もあります。ただ、ゼロコロナにはできないので、これから時間をかけて対応していくしかありません。

——呼吸器をつけている人や免疫が低い人などは、日常に戻そうとする動きに恐れを抱いていると思います。社会的弱者をみんなで守るのか、多数の自由が制限されることを問題視するのか、このバランスはその国の哲学が問われる話では?

感染しても重症化しない若い人たちのリスクの捉え方と、高齢の人や持病のある人のリスクの捉え方は、ある程度は違っていても仕方がないと思います。実際にリスクの大きさが違うわけですから。両者の認識の共有を促しながら、違いを前提として対応を考えなくてはなりません。

特に子供や若い世代の教育や文化活動の機会を確保することは、私たちの社会の将来のために必要ですし、それに伴うリスクは社会全体で受け入れる必要があるでしょう。

ただ、その過程で、公正さが失われてはいけません。先ほど言った習慣、技術、制度などの社会環境が整備されることで公正さを実現することが私たちのゴールだとすれば、そうなるには時間がかかります。

まずは感染した場合に重症化リスクの高い人たちを感染から守った上で、どれだけ行動選択の自由を維持することができる仕組みを実現できるかどうかが大事です。

それがまだできないうちは、社会全体の制約は、もう少し続けていかなければいけないだろうと思います。

【鈴木基(すずき・もとい)】国立感染症研究所感染症疫学センター長

1996年、東北大学医学部卒業。国境なき医師団、長崎大学ベトナム拠点プロジェクト、長崎大学熱帯医学研究所准教授などを経て、2019年4月から現職。