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「政治家の人生は歴史という法廷で裁かれる」と語った元首相の半生

死去した中曽根康弘元首相は「政治家の人生は、その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価される」とつづっていた。

中曽根康弘元首相が11月29日、死去した。101歳だった。

1918年、群馬県出身。東京帝国大学を卒業後、内務省に入省。海軍経理学校を経て、海軍主計少佐に。

終戦後の1947年、日本国憲法下で初の衆院選で初当選。同期には、同じく1918年生まれの田中角栄がいた。

1959年、岸信介内閣で科学技術庁長官として初入閣。原子力政策を推進した。

後に田中角栄元首相が有罪となったロッキード事件では、関与を疑われ、国会で証人喚問された。

1982年、自民党総裁選に勝利。第71代総理大臣として「戦後政治の総決算」を掲げ、5年に及ぶ長期政権を率いた。

外交面では日米同盟を強化。レーガン大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う個人的な関係を築いた。

さらに防衛費では、ボーダーラインとしてきた「GNP比1%枠」を初めて突破する予算を編成。アメリカとの安保体制の連携を強めた。

一方で83年の訪米時、「不沈空母」発言が物議を醸す。日本を空母に見立て、当時のソ連に対抗しようとの趣旨の発言があったとされ、批判を受けた。

1985年には戦後の首相として、初めて靖国神社を参拝した。

国内では公社の民営化を図った。臨時行政調査会(臨調)の土光敏夫会長とタッグを組み、国鉄(現JR各社)・電電公社(現NTT)・専売公社(現JT)を民営化を推し進めた。

しかし、世代交代はやってきた。1987年の統一地方選で敗北。竹下登氏を後継に指名。首相の座を降りた。

かつては小派閥の領袖ゆえ、土壇場で政治的態度を変える「政界風見鶏」と揶揄されたが、1997年には大勲位菊花大綬章を受章。

その後も衆院議員として活動したが、小泉純一郎首相からの引退勧告を受け、2003年に国会議員を引退した。

老年に差し掛かり、自らの心境を「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んだ。

議員引退後も政治活動は継続。シンクタンク「中曽根康弘世界平和研究所」の会長としても活動。政界の重鎮として存在感を放った。

憲法改正を強く訴え、9条2項の改正で自衛隊を憲法上で定められた組織にするよう主張した。

晩年には首相時代を含めた政治活動の記録を国立国会図書館に寄託した。歴史に、自らの業績の検証を委ねた。

「政治家の人生は、その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価される」

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