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上皇さまから天皇陛下へ、受け継がれた「歴史」との向き合い方

戦後74年、戦争を経験した世代は歴史の表舞台から去りつつある。折に触れて「歴史」を学ぶ大切さを語ってこられた天皇陛下。その姿勢は、皇太子さまにも受け継がれていた。

時事通信

新年の一般参賀で手を振られる天皇陛下と皇太子さま(当時)=2019年1月2日、皇居

(*この記事は2019年4月30日に掲載された記事です)

およそ30年にわたって在位した天皇陛下が退位される。いま、一つの時代に幕が下ろされる。

敗戦国の皇太子として40年あまり、そして天皇として30年。今日までの歩みは、父・昭和天皇の名の下におこなわれた戦争の記憶と向き合った日々でもあった。

天皇陛下にとって、幼い日の記憶のはじまりは「戦争」だった。

私の幼い日の記憶は、3歳の時、昭和12年に始まります。


この年に盧溝橋事件が起こり、戦争は昭和20年の8月まで続きました。したがって私は戦争の無い時を知らないで育ちました。

1999年、即位10年にあたって

「平成」が戦争のない時代として終わることに、天皇陛下ご自身も「心から安堵している」と述べられている。

国内外で続けてこられた平和への願いの原動力は何だったのだろうか。天皇陛下の戦争体験と、新天皇となる皇太子さまに受け継がれた歴史と向き合う姿勢をひもとく。

誕生時に鳴り響いたサイレン

Bettmann / Bettmann Archive

皇太子明仁親王(天皇陛下)

1933(昭和8)年12月23日早朝、東京市内では日の出とともにサイレンが高らかに鳴り響いた。

サイレンは東京市内18カ所で1分間鳴り続け、10秒の間を置き、さらにもう1分間鳴った。

皇太子明仁親王、いまの天皇陛下の誕生を知らせるものだった。

「お世継ぎ」誕生に湧く日本

東京日日新聞(1933年12月24日)

明仁親王は、昭和天皇と香淳皇后の間に初めて生まれた皇男子。つまり「お世継ぎ」だ。

誕生とともに「天皇」なることを運命づけられた子。その誕生に日本中が沸き立っていた。

朝日新聞(1933年12月24日)

当時の新聞は「慶び!天地に満つる夜」「御母子様とも極めて御健やか」などの大見出しで報道した。

朝日新聞(1933年12月24日)

明治製菓が新聞に出した広告

紙面には皇居・二重橋前で提灯行列をつくる国民の姿や、企業の奉祝広告が載った。北原白秋の作詞で慶祝歌も作られた。

日の出だ 日の出に

鳴った 鳴った 

ポーオ ポー

サイレン サイレン

ランラン チンゴン

夜明けの鐘まで

天皇陛下 お喜び

皆々かしは手

うれしいな 母さん 

皇太子さま お生れなった

(「皇太子さまお生まれなった」作詞:北原白秋、作曲:中山晋平)

「ご祝儀」ムードで株式市場や相場は高騰。築地市場では鯛がよく売れたという。

Keystone-france / Getty Images

皇太子明仁親王(天皇陛下)1935年


1933年、世界は大きな岐路にあった

朝日新聞(1933年2月25日)

1933年の日本は大きな岐路にあった。満州事変から2年、五・一五事件から1年となるこの年、日本は国際連盟を脱退した。次第に国際的な孤立を深め、軍国色が強まっていく時期だった。

時事通信

アドルフ・ヒトラーとフランクリン・ルーズベルト。

世界を目を向けると、ドイツではナチスが政権を獲得し、アドルフ・ヒトラーが首相に就任。アメリカではフランクリン=ルーズベルトが大統領となった。

世界は刻一刻と、第二次大戦前夜を迎えようとしていた。

授業中、背後には厳しい傅育官が…

Keystone-france / Getty Images

皇太子明仁親王(天皇陛下)1939年

未来の「天皇」として生まれた明仁親王。3歳で父母と離ればなれにされ、傅育官(ふいくかん、養育を担当した職員)など側近たちの手で育てられた。

1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。やがてナチス・ドイツがヨーロッパを席巻した。

首都パリが陥落し、フランスがナチス・ドイツに降伏した1940年。6歳の明仁親王は学習院初等科に入学した。

Hulton Archive / Getty Images

皇太子明仁親王(中央)

授業中には背後に厳しい傅育官が立ち、姿勢が悪かったり、頰づえをつくと叱声が飛んできたという。時にはひざや手をたたき、首の角度も直したという。

Bettmann / Bettmann Archive

音楽の授業中のこと。教員から「殿下」と呼ばれた際、返事ができずモジモジしたことがあった。すると傅育官が歩み寄り、「お名前をおっしゃい」と怒鳴りつつ、背をたたいたこともあった。明仁親王の眼には涙がたまっていたという。

皇太子として、軍の視察も…

朝日新聞(1943年10月23日)

「皇太子殿下 皇軍工兵の精華と農作の実情御見学」と一面トップに 

1941年12月8日、日本軍が米・ハワイ島の真珠湾を攻撃。太平洋戦争がはじまった。日中戦争が泥沼化していた中、日本はアメリカ・イギリスとも戦火を交えることになった。

明仁親王も皇太子として軍などを視察。国威発揚の役割を担わされた。

Ullstein Bild Dtl. / Getty Images

ミッドウェー海戦

ところが、太平洋戦争は開戦半年で大きなターニングポイントを迎える。

1942年6月、日本はミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗した。主力空母4隻、巡洋艦1隻、熟練パイロット120人以上、戦闘機およそ300機を一度に失うという大損害だった。

以降、日本は太平洋の制海・制空権を次第に喪失。戦局の劣勢が方向づけられた。

沼津、日光、そして奥日光へ疎開

Bettmann / Bettmann Archive

やがて日本本土は、米軍機の空襲の射程圏内に入っていった。

1944年5月、明仁親王は東京を離れ、静岡県の沼津御用邸へ疎開する。2カ月後にサイパン島が陥落すると、本土空襲の危機がさらに高まった。

明仁親王は、沼津から栃木県日光の田母沢御用邸、さらに奥日光へ。この頃は食糧事情が悪化し、野草や木の実で空腹をしのいだこともあったという。

終戦2日前の外出中には米軍機に遭遇。防空壕に走った。

焼け野原と化した東京を見た

1945年8月15日正午、敗戦を告げる玉音放送。疎開先の奥日光のホテルで、父・昭和天皇の声をラジオ放送で聞いた。

時事通信

天皇陛下が戦時中疎開し、終戦の玉音放送を聞かれた部屋が残る建物=栃木県益子町 

終戦から3カ月あまりが経った1945年11月25日、明仁親王は奥日光から東京へと戻った。車窓から見えたのは、東京大空襲で焼け野原と化した帝都の姿だった。

Keystone / Getty Images

戦後、日光の疎開先から焼野原の中にトタンの家の建つ東京に戻ってみた状況は、現在の東京からは、とても考えられないものでした。
1993年天皇誕生日に際して

明仁親王、11歳の秋だった。

書き初めで誓ったのは…

時事通信

終戦翌年の1946年、学習院初等科6年だった天皇陛下が学校に提出された正月の書き初め

終戦翌年、1946年の書き初めで明仁親王は半紙にこうしたためた。

「平和国家建設」

この言葉通り、天皇陛下は皇太子時代から今日にいたるまで、平和への願いを行動で示されてきた。

沖縄戦終結の日(6月23日)、広島原爆忌(8月6日)、長崎原爆忌(8月9日)、終戦記念日(8月15日)は「忘れてはならない日」として毎年黙祷を捧げた。

特に、沖縄に寄せる思いには並々ならぬものがあった。1975年、皇太子時代に初めて皇族として沖縄を訪問。この時は「ひめゆりの塔」で火炎瓶を投げつけられた。

時事通信

火炎瓶が投げられ、混乱の中、警備陣に守られ難を避けられる皇太子ご夫妻(当時、中央)

それでも、沖縄の苦難の歴史に思いを寄せ続けた。平和を願った「琉歌」も詠んだ。

花よおしやげゆん 人知らぬ魂

(花を捧げるのです。誰にも知られず、戦場で亡くなった無名の人々の魂に)

戦ないらぬ世よ 肝に願て

(戦争のない世を、心に願いながら)

国内のみならず、サイパン島で追い詰められた人々が身を投げた断崖「バンザイクリフ」、日米の激戦地パラオ・ペリリュー島などにも足を運んだ。

時事通信

サイパン島のバンザイクリフを望み、黙礼される天皇、皇后両陛下=2005年6月28日

父から子へ、受け継がれた「歴史」との向き合い方

Keystone-france / Getty Images

過ちを繰り返さないために、何ができるのか。

折に触れて、天皇陛下は「歴史」を学ぶことの大切さを語ってこられた。戦後70年にあたる2015年に、このようなおことばを述べられている

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。


多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。


この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

過去を学び、現在を知り、未来に活かす。その姿勢は、皇太子さまにも受け継がれた。

同年、皇太子さまも55歳の誕生日に際して「歴史」について述べられている。歴史学者でもある皇太子さまもまた、歴史を学ぶ意義を説かれた。

私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています。


両陛下からは、愛子も先の大戦について直接お話を聞かせていただいておりますし、私も両陛下から伺ったことや自分自身が知っていることについて愛子に話をしております。


我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています。


戦後70年を迎える本年が、日本の発展の礎を築いた人々の労苦に深く思いを致し、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になればと思っています。

Anadolu Agency / Getty Images

戦後74年、戦争を経験した世代は、歴史の表舞台から去りつつある。

父から子へと時代は変遷し、そこに生きる人々の顔ぶれも変わる。それでも忘れてはいけないことがある。それが「歴史」である。

<参考文献>
▽知られざる天皇明仁(橋本明、2016年・講談社)
▽戦争をしない国 明仁天皇メッセージ(矢部宏治・須田慎太郎、2015年・小学館)
▽天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成(辻田真佐憲、2019年・幻冬舎)
▽旅する天皇 平成30年間の旅の記録と秘話(竹内正浩、2019年・小学館)
▽日本人と象徴天皇(「NHKスペシャル」取材班、2017年・新潮社)
▽天皇はいかに受け継がれたか(歴史学研究会編、2019年・績文堂出版)
▽天皇家の想い 心に寄り添う珠玉のお言葉(山下晋司監修・ワニブックス・2019年)
▽週刊朝日 天皇皇后両陛下ご成婚50年記念号(2009年4月17日、朝日新聞社)

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