皇后・美智子さまと四半世紀にわたって交流を育んできた絵本編集者の末盛千枝子さん(78)。時には、美智子さまが「皇后」として苦悩し、思いをめぐらされた場面を垣間見たという。
末盛さんはこの春、美智子さまとの親交をまとめた『根っこと翼 皇后美智子さまという存在の輝き』を上梓した。4月30日の退位の日を前に、BuzzFeed Newsは末盛さんに、美智子さまとの交流秘話を聞いた。
私的なお出かけにも護衛 時には山中にも…
末盛さんは1941年、彫刻家の舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が高村光太郎を訪ね、命名してもらったという。
慶應義塾大を卒業後、絵本の出版社「至光社」へ。時代は1960年代の終わり。初めて美智子さまと出会ったのも、この頃だった。
当時、至光社の社長が世話人となって皇太子妃だった美智子さまを囲む読書会があった。その名も「星の王子さまの会」。
ある日、美智子さまを含む数人で、大磯町に住む画家・堀文子の家に集まった。当時20代だった末盛さんも同席し、そこで美智子さまを紹介されたという。
「この時、私はお茶出しのお手伝いとして駆り出されていました。当時、父のデッサンを表紙に使っていた『ひろば』という雑誌があったのですが、そのデッサンを美智子さまが気に入られていたそうで。“舟越さんの娘さんです”と紹介されました」
「堀さんのご自宅は、前が海で後ろが山。その山の中にも護衛の警察官がたくさんいたんです。こんな私的なお出かけにも、これだけのお付きがいるのかと。プライベートというものがないのだと思ったことを印象深く覚えております」
その後、絵本の編集者として活躍してきた末盛さん。やがて時代も「昭和」から「平成」へ。美智子さまは、皇后に即位された。
1993年「皇后バッシング」 声を失われた美智子さま
1992(平成4)年に美智子さまは、IBBY(日本国際児童図書評議会)理事で交流があった児童書研究家・島多代さんの依頼で、詩人まど・みちおの詩を英訳された。
このときの詩集『THE ANIMALS 「どうぶつたち」』の出版で、末盛さんは美智子さまと再会。以来、四半世紀以上の親交を育んできた。
その時間の中で、美智子さまが皇后としての苦悩と向き合う姿を目の当たりにしたことがある。
1993(平成5)年のことだった。6月、皇太子さまは雅子さまとご結婚。天皇ご一家は、幸せの絶頂にあるかと思われた。
ところが、その4カ月後の10月20日。美智子さまは赤坂御所内で突然倒れた。美智子さま、59歳の誕生日だった。
宮内庁の発表によると、一時は意識が遠のき、問いかけに答えようとするが、言葉が出ない様子だったという。
そして美智子さまは、声を失われた。強いストレスが原因だったとみられている。
この年の春ごろから、週刊誌では皇室を批判する記事が相次いでいた。
特に美智子さまをめぐっては、名指しで「女帝」を連想させるような記事。いわゆる「皇后バッシング」が渦巻いていた。
現役の宮内庁職員とされる人物が、両陛下は夜遊びに耽って「快楽主義的」であると批判する記事をはじめ、「美智子皇后のご希望で昭和天皇が愛した皇居自然林が丸坊主」などの過激な言葉が踊った。
折しも、この前年には天皇陛下の中国訪問をめぐり国内の保守派が反発。一部は、天皇陛下のスケープゴートのように美智子さまを攻撃した。
美智子さまはこの年に誕生日に際して、記者クラブ(宮内記者会)からあった「皇后バッシング」に関する質問に、こう答えた。
どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。
今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許して頂きたいと思います。
しかし事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません。
いくつかの事例についてだけでも、関係者の説明がなされ、人々の納得を得られれば幸せに思います。
過熱するバッシング報道に対して、美智子さまがつづった異例の、そして精一杯のお言葉だった。
囁くような声で語られた『でんでんむしのかなしみ』
声を失われた1993年の冬、美智子さまは天皇陛下、長女・紀宮さま(黒田清子さん)とともに葉山御用邸で静養された。
この時、末盛さんもお見舞いのために島多代さんと葉山を訪れた。
「御用邸にお伺いした際、はじめに紀宮さまが筆談になる旨をご説明くださいました。しばらくして、皇后さまが応接間にいらっしゃいました。お手元にはコピーの裏紙をクリップに閉じたものと、鉛筆をお持ちになっていました」
「それでも皇后さまは、耳を澄まさなければ聞こえないようなお声ではありましたが、一生懸命にお話をしてくださいました」
「私たちが時おりひどい風邪をひき、声が全くでなくなるときがありますよね。そういう、本当にささやくようなお声でした」
痛々しいほどのお姿に、末盛さんは胸を痛めた。思わずカウンセリングなどを受けられないのかと尋ねたが、美智子さまは「難しい」。
たとえ内容が秘密とされようとも、他の人々に関わることを自分から口にすることはしたくないとのことだった。
それでも美智子さまは、旧知の友人たちと過ごす久しぶりのひとときを楽しまれた。末盛さんによると、美智子さまはか細い声ながら、堰を切ったようにお話をされたという。
この時、美智子さまが末盛さんらに紹介したのが、新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』だ。美智子さまが幼少期に親しんだ童話で、こんなあらすじだ。
ある日のこと、一匹の小さなでんでん虫が、自分の背中の殻には悲しみが一杯つまっていることに気付いた。
わたしの せなかの からの なかには
かなしみが いっぱい つまって いるのです
でんでん虫は友達を訪ねて、もう生きていけないのではないかと、自分の背負っている不幸を話す。
友達のでんでん虫は、こう答える。悲しみを背負っているのは君だけではない。私の背中の殻にも悲しみは一杯つまっていると。
小さなでんでん虫は、別の友達、そのまた別の友達を訪ねて歩き、同じことを話す。ところが、返ってくる答えはどれも同じだった。
そこで小さなでんでん虫はやっと気付いた。悲しみは、誰もが抱えているのだと。
かなしみは だれでも もって いるのだ
わたしばかりでは ないのだ
わたしは わたしのかなしみを こらえて いかなきゃ ならない
あの日、美智子さまが『でんでんむしのかなしみ』のお話をされたのは、「つらいのは、きっとご自分だけではない」とお感じになられたのではないか。末盛さんは美智子さまの胸中を慮る。
苦しみや悲しみも、ご家族で共有
極めて特殊な環境の中にあっても、天皇ご一家は「家族」としてのコミュニケーションを大切にしてこられたという。
浩宮さま(皇太子さま)誕生から3年が経った1963年(昭和38年)に、美智子さまは第2子を流産された。そのことは、後にお生まれになった礼宮さま(秋篠宮さま)と紀宮さまにも伝えられた。
楽しみや喜びだけではない。時には、苦しみ、悲しみもご家族で共有してきた。その一端を、末盛さんも垣間みたことがあるという。
「葉山へのお見舞いで感じたのですが、例えば私たち一般の人間は、家族の誰かがストレスで声を失うなんていう状況にあったら、おそらくとんでもなく気を遣うと思うんです」
「でも、天皇陛下と美智子さま、そして紀宮さまは、ごくごく当たり前の生活をしていらっしゃいました。皇后さまが、ささやくようなお声でお話になられるのを、お二人は変に特別視をせず、ごくごく当たり前に聞いていらしゃいました」
半年近くを経て、声を取り戻した時、美智子さまは周囲にこう語ったという。
もう大丈夫。私はpurify(浄化)されました。
何度も何度も、講演の草稿に手を入れて…
その後も美智子さまは、絵本や児童向けの書籍との関わりを持ち続けた。
これまでも海外訪問の都度、公式日程の合間をぬって図書館などを訪れてきた。東日本大震災では、被災地に絵本をおくる活動にも参加された。
皇后さまとの数ある思い出の中で、末盛さんが「印象深い」と語るものがある。1998(平成11)年9月、インド・ニューデリーで開かれたIBBYの世界大会だ。
この時、美智子さまは自身の読書体験などを回顧したスピーチを大会の基調講演として話される予定だった。
IBBYとインド側は4年越しで準備し、末盛さんもIBBYの会員として美智子さまを支えた。
ところが、この年の5月にインドが核実験を実施。美智子さまのインド行きは取りやめとなった。
末盛さんはこう語る。
「あの日、新聞の朝刊で『インドが核実験』の文字を見たときに、『これは(美智子さまのインド訪問は)ダメになった』と思いました」
ところが、当の美智子さまは諦めていなかった。講演のテーマは「こどもの本を通しての平和」。何度も何度も、講演の草稿に手を入れ続けられた。
開会の2週間ほど前のこと。政府側から「やはり行っていただくわけにはいきません」という申し入れがあったと、末盛さんは語る。
「この講演に向けて4年もかけて準備をしてくれた人たちがいる。自分のことを待っていてくれた人たちがいる。それにもかかわらず、インドに行くことが叶わず、基調講演ができない。美智子さまは『本当に申し訳ない』と」
思いつめた様子の美智子さまをみかねた末盛さんは、こんな提案をした。
「いまの時代ならテレビの同時中継やビデオなどもございます。現地に行くことはできずとも、なにか別の方法もあるかもしれません、と申し上げたんです。そうしたら美智子さまは、『そうかしら…』とおっしゃって…」
当初は代読案もあったが、末盛さんらの提案で基調講演はビデオメッセージとして収録されることになった。
「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれた」
美智子さまはビデオメッセージで、ご自身の愛読書や戦争経験、子育て中のエピソードなどを通じて、本という存在がいかに人生の支えとなったのかを気持ちを込めてスピーチされた。
その中には、苦しみの日々にあった美智子さまの支えとなった「でんでんむしのかなしみ」のエピソードもあった。そして、幼少期の読書こそが、自身の人生の糧となったことを話された。
今振り返って、私にとり、子供時代の読書とは何だったのでしょう。
何よりも、それは私に楽しみを与えてくれました。そして、その後に来る、青年期の読書のための基礎を作ってくれました。
それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。
読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。
しかしどのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。
私が、自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、他者への思いを深めますが、本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、読む者に生きる喜びを与え、失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。
悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、悲しみに耐える心が養われると共に、喜びを敏感に感じとる心、又、喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。
そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。
読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。
私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。
それは、美智子さまの人生哲学とも思えるようなスピーチだった。
講演は日本語版と英語版が作成された。英語版はニューデリーの会場で、日本語版はニューデリーでの上映終了を待ってNHKのETV特集で放送された。深夜帯にもかかわらず、視聴率は5%を超えた。
末盛さんは、この講演が日本国内で放映されたことに大きな意義があったと語る。
「それまでの皇室報道、とくに皇后さまをめぐるお話はどうしても『皇后さまがどこにお出かけになって、こういう服装をしていらっしゃった』など、外見の話題が先行していたような気がします」
「しかし、ご自身の読書体験を軸にしたあの講演をきっかけに、皇后さまがどのようなお考えをお持ちなのかを、国民が知るきっかけになった。そういう意味で、歴史的な講演だったと思います」
「陛下が誘ってくださったの」と、少女のように…
この4月、両陛下は結婚60年を迎えられた。その日々の中で、お二人は天皇・皇后として「象徴」の在り方を模索し続けてきた。
幸いにして「平成」の時代に戦争はなかったが、日本は数多くの災害に見舞われた。
両陛下は被災地に飛び、避難所で膝を付き、被災者を見舞った。かつて美智子さまは「皇室は祈りでありたい」と語られたが、常に国民とともにあろうとした両陛下の姿はまさに「象徴」だった。
先の大戦にも思いを寄せ続けた。沖縄戦終結の日(6月23日)、広島原爆忌(8月6日)、長崎原爆忌(8月9日)、終戦記念日(8月15日)は「忘れてはならない日」として毎年黙祷を捧げた。
国内外への慰霊の旅は、お二人にとってライフワークとなった。
退位後はそれぞれ上皇・上皇后となられる両陛下。皇太子、皇太子妃時代から問い続けた「象徴」としての旅が、いま終わろうとしている。
取材のおわりに、末盛さんは美智子さまのこんなエピソードを教えてくれた。
2013年4月のことだ。天皇陛下と美智子さまは、ホテルオークラで開かれた慈善晩餐会「チェリー・ブロッサム・チャリティーボール」に出席。20年ぶりにダンスを披露された。
天皇陛下は黒のタキシード、美智子さまは白のロングドレス。お二人は笑顔で手を取り合い、時おり耳元でささやき合いながらステップを踏まれた。
披露した4曲のうち、最初の曲がワルツ「シャルメーヌ」だった。お二人が出会って最初に踊った思い出の曲だ。
後日、この時のダンスに見惚れたことを末盛さんが美智子さまに話すと、美智子さまはまるで少女のように、そして嬉しそうに、こう話したという。
陛下が誘ってくださったの
60年前の夏、軽井沢のテニスコートから始まったお二人の運命は、時を経た今も色褪せていない。