ペットを亡くすのはつらい経験です。しかし悲しいことに、ペットロスが話題になったり、ペットロスについて深く考えたりする機会は、あまりありません。
そこで、猫の行動や健康の専門家ジャクソン・ギャラクシーさんの登場です。
ギャラクシーさんは、「ジャクソン・ギャラクシーのキャット・キャンプ」というバーチャル・セミナーを開催しました。
そこで、ペットロスからの回復を専門にしているステファニー・ロジャースさんと組み、「おかしくなんかない。悲しいのだから」というタイトルで、ペットロスについて取り上げました。
以下は、ロジャースさんからのアドバイスです。
「悲しむ機会が奪われてしまう」ことは、実際に起こり得ます。
「悲しむ機会が奪われる」とはつまり、「誰か・何かを失った時に、他人から堂々と受け入れてもらえない、あるいは社会的に認められない、人前で嘆くことができない悲しみ」だとロジャースさんは説明します。
たとえば、流産、死産、自殺、殺人、それから新型コロナウイルスでの死などがあります。
「動物を亡くしたときは常に、悲しむ機会が奪われてしまうものです。というのも、大したことない、と他の人から思われがちだから」
「たとえ友達や家族からでも、その悲しみを表立って認めてもらえることはほとんどないか、まったくないものです」
「さらに多くの場合、大っぴらに悲しむことができません。社会的なサポートがなく、ペットの死は簡単に片づけられ、軽視され、過小評価されてしまう」
このような喪失感を経験すると、孤立感や孤独感にさいなまれてしまいます。
嘆いているときは、他の悲しみへの扉が開きます。そのため悲しみは、1つだけではなくなります。
ギャラクシーさんは今年、愛猫リリーを亡くしました。そのとき、その前に亡くしていたリリーの母親の死への悲しみも再び味わったそうです。
ロジャースさんは、「人は、失った1匹を悲しむだけじゃないのです」と加えました。
でも、決してあなたひとりではない、と心にとめておいてください。
「こうした痛みや悲しみのすべてをひとりで抱え込まなくてもいいのです。目には見えない、人のネットワークがあります」
あなたがこれまで愛し、失ったすべての生き物は、あなたの心の中に今もいることを忘れないで。
「その絆は今も存在しています。絆は、体と一緒に死んだりしません」
それから、あなたは「おかしくなった」わけでもなければ、「弱い」わけでも「子ども」なわけでも、「感情的過ぎる」わけでもありません。
「あなたは、このどれでもありません。ただ悲しんでいるだけなんです」
悲しみの深さは、愛の深さと正比例します。
「相手が爬虫類でも両生類でも哺乳類でも、愛に形は関係ありません。悲しみの深さを決めるのは、どんな関係であったか、どんな愛であったかなのです」
「嘆き」とは、喪失に伴う内なる感情だと定義されています。嘆きとは事象ではなく、「プロセス」なのです。
「悲しみとは、あなたの中で起きているもの。もしかしたら、それを表現するのは難しいと感じるかもしれないし、言葉が見つからないかもしれません」
このプロセスは続いていきます。始まりも、途中も、終わりもありません。
「愛する存在が死んだという事実に、『平気』だと思えるときが来ることはありません」
「とは言っても、今感じている強さで続くこともありません。その強さは、10年、15年たってぶり返してくるかもしれませんが、あなたが生きていく中で変化し続けていきます」
嘆くという行為は、内的な経験を外に向けて表現することです。
「もっとも分かりやすい嘆きの例は、泣くこと。これは、悲しみという内なる経験が外へ向けて表現されたものです」
「他には、儀式もあります。大掛かりで手の込んだ儀式である必要はありません」
「死別がもたらす感情はときに、時間と関係しています。悲しむための社会的な儀式が今でも存在する文化では、特にそうです」
「もう1つの例は、失った存在について人と話し合うというものもあります」
悲しみが複合的に混ざり合ったり、累積したりすることもあります。
「何か/誰かを亡くし、悲しみが消化されるより早いペースで立て続けにまた喪失を経験すると、悲しみが複合的に混ざり合ったり累積したりします」
「そんなとき私たちは、こうした感情を処理するだけの余力を持ち合わせていません。『処理』のプロセスには、過去の喪失について再び悲しむことも含まれます」
「集団での悲しみ」と呼ばれるものもあります。そして私たちは誰もが今、これを味わっています。
「『集団での悲しみ』の定義は、コミュニティや社会、都市、国、あるいは世界全体が集団として、極端な変化や喪失を経験するときの悲しみです」
「今まさに新型コロナウイルスのパンデミックの中で生きているように、集団的な悲しみの中で暮らすとき、私たちは継続的な喪失――つまりずっと続き、すぐには終わりが見えない喪失――を悲しんでいることになります」
「そこには、ストレスとトラウマも同時に存在します。そして、集団での悲しみの際に感じる個人での悲しみは自動的に、先ほどお話した『複合的に混ざり合った悲しみ』になります」
そして、聞きたくないかもしれませんが、悲しみそのものに対して「できること」は何もありません。
「私たちがしなくてはいけないのは、悲しみを『乗り越える』ことから、『変化をもたらす人生経験として理解すること』に、 焦点を変えることです」
あなた自身ができる行動として、「悲しみを受け入れる」ことがあります
「まず、今経験している喪失の大きさと強さを認めます。(前述した通り)愛と悲しみは正比例することを思い出しましょう」
「なので、たくさん愛したのなら、たくさん悲しむということを受け入れてください」
役立つエクササイズとして、失った存在に思いをはせ、「私が失った人/ものは……」と書き出す方法があります。
「私はこれを、『喪失を書き出して主張する』エクササイズと呼んでいます。喪失は、生き物だけとは限りません」
「このリストを作るとき、一番最近経験した喪失から始めるといいでしょう」
「思い出すのはいいですが、あまり考え込み過ぎないようにしましょう。自然に流れるまま書き出します」
その後、喪失したことで「私の世界はどう変わった?」と自問しましょう。
「落ち着いて自分の悲しみを受け入れ、向き合う勇気があるとき、必ずしもネガティブな変化だけでないことに気付くはずです」
そして、「この喪失を自分の人生にどう取り入れられるか?私が失った人/ものを追悼する方法として一番良いのは?」とも自問してみます。
「自問の内容が、『どうすれば乗り越えられるか?』『どうすれば手放せるか?』『どうすれば前に進めるか』ではない点を忘れないでください」
「セルフ・コンパッション(自分を思いやること)」が鍵です。
「あなたが大切だと思っている人を扱うのと同じように、自分自身を扱ってあげる必要があります」
「イマココ」に集中して、マインドフルネスを実践してみましょう。
「未来がどうなるかあれこれ考えたり、過去に思いをはせたり、過去のことで自分を責めたりするのはやめましょう。『いつも通りの生活』が始まるのは常に、『今から』なのです」
すぐに「今」に到達する方法は、呼吸に集中することです。
「呼吸に集中すると、心拍数と血圧が下がり、より多くの酸素が血液に行き渡ります。つまり、思考プロセスがよりはっきりするのです」
そして最後に、心は無力になるよりも罪悪感を抱くものである、と知っておきましょう。
「みじめな気持ちになっているときは常に、あなたの心の中には空想の世界が広がっていて、そこではあなたが愛する動物が、今も生きています」
「悲しみを処理する際の最大のタスクは、死を実際に起きた現実と認めることです。このプロセスには時間がかかります」
「理性は、死が実際に起きたと理解しています。しかし自分の理性以外の部分が、死を現実であってほしくないと思っていると理解するまでには、長い時間がかかります」