【熊本地震】「逃げるのは弱いこと?」県外に避難した、ある家族の葛藤

    車中泊や余震のストレスによる関連死が相次いだ熊本地震。もし何かが起きたとき、どう行動するのがベストな選択肢なのか。

    2度の大きな揺れが人々を襲った、熊本地震。一時は最大18万人以上が避難者となり、避難所だけに収まりきらずに、公園やスーパーマーケットの駐車場にも人が溢れかえった。

    多くは車で過ごさざるを得ず、エコノミークラス症候群や余震によるストレスを原因とした車中泊後の関連死が相次いだ。共同通信によると、その数は41人に上る。

    手段は、ほかになかったのか。熊本に残らず、「県外一時避難」を選んだ家族がいた。

    逃げるという選択

    「『残る=がんばっている』が正しいというような空気感があったんです。悪いことをしているような気持ちになってしまって。でも、避難は良い選択だったと今は思っています」

    2016年4月16日の本震当日、家族で県外に避難することを選んだ男性(30代)は、BuzzFeed Newsの取材にそう語る。

    教育関係の仕事につく妻(30代)と娘(2)と3人で熊本に暮らす。

    決して、熊本にとどまった人たちから好意的に捉えられたわけではなかった。後ろめたさや息苦しさを感じることもあったという。

    「逃げることは、弱いことじゃない。選択肢のひとつなんです」

    そう思えるようになるまでの1年間、男性と家族はどんな選択をしてきたのか。

    心に傷が残るんじゃ…

    2016年4月14日。

    最大震度7の前震が起きたとき、男性は妻と娘と家にいた。幸いにして大きな被害はなく、水やガスや電気は通じたままだった。車を持っていなかったため、そのまま家にとどまることにした。

    「でも、余震はすごかった。これはまた大きいのが来るなと感じて、避難の準備を進めました。ご飯を大量に炊いて、おにぎりをつくって、お風呂などに水を貯めて、靴やバッグを用意しました」

    その「嫌な予感」は当たった。4月16日未明、前震とは「レベルの違う揺れ」が再び襲った。

    「3人で寝室にいたんです。あの瞬間は死ぬかと思いましたね。家人と2人して娘に覆いかぶさって、なんとか守ろうと必死でした」

    近所の小学校にすぐ避難をした。体育館は危険だということで眠る場所がなく呆然としていたところ、隣人が「うちの車で寝ていいですよ」と言ってくれた。

    当時1歳だった娘は、母親からずっと離れなくなった。余震のたびに怖がり、ストレスからか、奇声をあげるようにも。

    「それを見て、命に関わらなくても、この子の心に傷が残るんじゃないかって思ったんです。家のことや、妻の仕事のこともありましたが、子どもと何かを天秤にはかけられないですよね」

    妻の実家のある関西地方に、ひとまず避難をしようと決めたのはこの時だ。

    耐えることができない

    実際、子どもは震災のストレスを受けやすく、PTSD(心的外傷後ストレス反応)などの症状が出ている子どもへのケアの重要性が指摘されている。

    西日本新聞によると、熊本地震では少なくとも3222人の小中学生が心のケアのため、「カウンセリングが必要」と判断されたという。

    それに、と男性は続ける。

    「熊本には阿蘇山があるし、近くには川内原発(鹿児島県)もある。2度も震度7があった以上、重ねて何かが起きたら、逃げることすらできなくなるんじゃないかとも考えました」

    身を寄せていた近所の避難所には人が殺到しており、炊き出しは十分ではない。トイレも衛生的であるとは言えなかったし、家のインフラも途絶した。

    さらに、自分自身と妻も2度の揺れでストレスがかなり溜まっていた。「これは耐えることができない」。そんな状況も、男性の判断を後押しした。

    感じた後ろめたさ

    ただ、肝心の手段がない。

    高速道路は通行止め、新幹線は止まり、空港は閉鎖されていたからだ。残るはタクシーしかなかったが、県内の会社は営業していないか、出払っているかのどちらかだ。

    「すでに福岡方面に数台が向かっていたようです。往復の負担が大きいので、行けるかはわからないという条件で、予約を入れました」

    その日の夕方、タクシーが迎えに来ると連絡があった。車中泊をさせてくれた家族に挨拶をしたが、その一家の長女が「すごく複雑な表情をしていた」ことが忘れられない。

    「その子も当時の状況を怖がっていて、ここに残りたくない、という僕たちもなんだか、後ろめたい気持ちになってしまって……」

    タクシーを1時間も走らせると、普通の日常が広がっていたことに驚いた。

    「お店はやっているし、お弁当もある。そこに来て緊張が解けたというか、呼吸がなんだか楽になったんですよね。疲れもドッと出た」

    福岡から新幹線に乗り、夜には関西地方にたどり着いた。

    「数日過ごすと娘はよく眠れるようになり、奇声もださなくなりました。2日半でていなかったうんちもちゃんと出るようになって、ほっとしましたね」

    自分たちは弱いのかな

    避難をして辛かったことは、いくつかある。

    妻は、地震で仕事関係の知人を亡くしていた。別の知人からは、「人が死んでいるのに、逃げるべきじゃない」というメールが送られてきた。

    「ただでさえ辛い状況にいたのに、あのメールはかなりこたえたようです。県外に避難したことが悪いことのような申し訳なさを感じてしまいました」

    一方で、2週間ほど経つと職場からは「いつ出られるようになりますか?」という連絡が来るようにもなった。

    「まだ余震があれだけ続いているのに、日常を無理やり取り戻そうとしているというか……。早く戻って頑張ることが、当たり前というトーンなんです。県外に避難することは、そもそも選択肢にないような」

    テレビでは連日、ボランティアや地元の人たちの様子が伝えられた。早くも復興に向けて歩み出している人たちが、「頑張っている」として報じられた。

    「貢献できていない自分たちは弱いのかな、と感じてはしまいましたね。疎外感です。身の置き場がないような気持ちでした」

    妻の実家での慣れない暮らしにストレスを感じることもあった。家や、手入れをしていた庭の様子も気になっていた。

    早く戻りたい気持ちは大きかったが、余震が落ち着くまでは、避難を続けようと決めていた。

    余震は3千回以上

    一家が熊本に戻ったのは1ヶ月後だ。まだ余震は続いていたが、いちばんひどい時期は脱していた。

    本震翌日から5月16日までの余震(震度1以上、気象庁)の数は、3068回。うち震度4以上は55回もあった。残った人たちの心を疲弊させた大きな要因だ。

    「弱いのかな、ダメなのかなとも思ったけれど、戻ってきたときに心に余裕があったことに気がつけて。逃げてよかったと思えるようになりました」

    周りに何かを言われることもなかった。避難を経験してわかったこともある。

    「物資が手に入らず、衛生状況の悪い避難所や車で鬱々と過ごすよりも、無事なうちに、まだ元気なうちに逃げるべきだということですね」

    たとえば、と男性は言う。災害時に県外に避難できるだけのお金を計算して、普段から用意しておくことが重要だと。

    普段から選択肢に

    「地震が起きると誰しもパニックになる。ちゃんとした判断ができづらい。だからこそ、普段から選択肢を用意しておくことが大切だと感じました」

    「熊本から福岡までのタクシー代は3万円でした。それで、ひとまずの安全が確保されるんです。それなら『良いな』って思いませんか」

    お金があったり他の地方に親戚がいたりと、条件に恵まれた人しか避難できないのだろうか。

    「被災者に無料で開放している福岡のホテルもありました。市営住宅を無料で開放している自治体もあった。そういう情報ってなかなかテレビでは見かけないけれど、調べれば出てくるものも多かったですね」

    今後また災害があったときも避難できるように車を購入した。男性はいう。

    「過労死でも戦争でもおなじ。日本って、逃げるのはよくないって思う人が多い。でも、決してそうではない。弱いことではないし、誰かを守るために必要な、最初の選択肢じゃないでしょうか」


    BuzzFeed Newsでは、被災地のいまを「【熊本地震】あれから1年、被災地はどう変わったのか。いまの様子と比べてみると…」という記事にまとめています。