「コロナ禍で心はどうなってしまったのか。心は何を失い、何を失わなかったのか。私はそういうことを無我夢中で書き綴っていった。しかし、ネタはすぐに尽きた」
その言葉はあまりに正直だ。
コロナ禍の「心」の問題に向き合うと意気込んだはずが、次第にコロナ以前から始まる変化に目が向いた。
週刊連載の締め切りは容赦なく迫る。そんな中、新型コロナという「大きすぎる物語」に抗うため、カウンセリングルームで繰り広げられる「小さな物語」を伝えることを思いついた。
この本は、1人の臨床心理士の葛藤がそのまま詰め込まれた1冊だ。
東畑開人さんは問いかける。「心はどこへ消えた?」
「臨床心理学の最終奥義」を使うはずが…
東畑さんは臨床心理士としてカウンセリングを行う傍ら、十文字女子大学准教授として教壇にも立つ。
当初、2020年6月開始予定だった『週刊文春』での連載は、東畑さん自身の希望で前倒しされた。
「社会がものすごい勢いで変わる中で、僕もオンラインカウンセリングに対応できるようにネット回線を引き、バタバタと準備を進めていました。そうした作業がひと段落したタイミングで、ふと『心理士なんだから、今こそ人々の心について書かねばいかん』と思ったんですよ」
まず最初にトイレットペーパーがなくなり、次にマスクがなくなった。そして、人々は外出を自粛するようになった。「心」の専門家として、目の前で起きる出来事に必死に目を凝らそうとした。
当時を思い返し、東畑さんは「僕自身もパニックだったんだと思います」と笑う。
「よく自分に言い聞かせていました。大変な時こそ、パニックになりそうな時ほど、まずは一旦様子を見るべきだ、って。これが臨床心理学の最終奥義でしたから。そのためにも、目の前で起きていることを文章にすることには意味がありました」
コロナの陰に、見出した真の課題は?
「コロナ禍で一貫して感じていたのは、これは『個人』の危機であるということでした。これまで、当たり前のように存在していた『個人』というものが、社会を守るために軽視されていく。一人ひとりの人生の重みが見えづらくなってしまったと感じています」
コロナに揺れ動く自分自身の心、大学が閉鎖されリモートワークになったことで次から次へ飛び交うメール、オンライン授業のため「YouTuber」となり気付いたこと…
連載が始まったばかりの頃は、コロナに関する話題で溢れている。しかし、徐々にコロナの色は薄れていった。
これはいわゆるコロナ本ではない。この本のタイトルは「コロナ禍の心」でもなければ、「コロナの心理学」でもない。
もしかしたらそうなった可能性もあったかもしれないけど、そうはならなかった。
なぜなら、コロナについて書き続けているうちに、本当の問題は別のところにあったと気がついたからだ。
(『心はどこへ消えた?』)
「最初からこういうことを書こうと決めて、やってきたわけではありません。ただ、週刊連載を続けながら、徐々に僕は『個人とは何か』について書こうとしているんじゃないかということがわかってきた」
夏のある日、森のある大きな公園を散歩していると、コウモリを追いかける子どもと、その親が目に入った。
小さな子どもは突然、大きなくしゃみをする。母親は慌てて駆け寄り、そして、マスクをするよう注意した。
「こんな個人的な風景ですら、社会が求める規範に侵食されているということが非常に印象的でした」
東畑さんはつぶやく。
東畑さん自身も原稿作業が滞り、近くの喫茶店へ足を向けようとする度、脳内で都知事の声がこだました。この外出は不要不急ではないのか、と。
個人には様々な都合や事情がある。だが、パンデミックという「大きすぎる物語」はそうした個別具体の事情を飲み込んでいった。
今起きているのは「個人の危機」だ。胸の内に抱いていた小さな違和感が、確信に変わった。
「大きすぎる物語」の前で、消える個人
思い返せば、この1年半、社会では「大きすぎる物語」ばかりが語られた。
社会を守ること、自分や周囲の誰かの命を守るために行動することは間違いなく重要だ。
だが、それだけでは取りこぼしてしまうものがある。ここまではきっと皆が同意できるはずだ。しかし、その取りこぼしてしまうものの価値を語る言葉があまりに貧しいと東畑さんは言う。
「たとえば、感染リスクを考えるならば、大学の食堂ではできる限り会話をしない方が望ましい。でも、食堂で学生たちがおしゃべりをしている風景こそ、大学という場を構成する本質的な要素だったのではないかとも思う。ただし、じゃあそれって一体どんな価値なの? と聞かれると、明晰な言葉では答えられないんですよね。まして数値化することもできない」
はっきりと言葉で言い表すことができないということが、「現代社会における『心』というものの置き場所のなさを表しているのではないか」。
だからこそ、エピソードという方法が選ばれた。「非常に具体的で小さな物語を読んでもらうことで、その明晰でもなく、数値化もできない価値を伝えられるのではないか」と考えたのだ。
「食堂のおしゃべりにはこんな価値があります、と同じ土俵の上で語ったところで、『でも、人の命の方が大切じゃないか』という話になる。実際、その『人の命が大切である』ということは間違いありません。でも、一人ひとりが色々な事情を抱え、それぞれの人生の、それぞれのエピソードを生きていることもまた、間違いないことだと思うんですね。そうであるならば、それを実例として示していくことで数字やロジックでは見えないものの価値を伝えられないか。戦略的にエピソードを盛り込むことに決めました」
気楽さもある「自粛」の日々。でも…
自粛の日々に気楽さも含まれているのは、清潔なカプセルに閉じこもって、ウイルスと他者を遮断できるからだ。モンスターの出現しないRPGみたいなものだ。私たちはその安全さに一息ついたのだと思う。
だけど、危険な他者は栄養でもある。RPGではモンスターと戦わないと、レベルが上がらず、仲間も増えない。敵かもしれない他者と辛抱して付き合って、あるときその人が友であり味方であると気がつく。少なくとも敵ではなかったと知る。そういうことの積み重ねが、私たちの心を深くしてくれる。
(『心はどこへ消えた?』)
デスクワークができる人などを中心に、リモートワークが推奨された。リモートで仕事が可能な人については、あらゆることがオンラインで代替されていく中で、手に入った生活は一見快適なものだ。
通勤のために費やしていた時間は消え、煩わしい人間関係を気にすることも減った。
オンラインでの会議や授業が当たり前となる中で、「廊下」が消えたと東畑さんは表現する。「廊下」と共にそこで交わされていた、雑談や本音も行き場を失くした。
今では「退出」のボタンをひとたび押せば、自分一人の空間が広がっている。
「清潔なカプセル」に囲まれた生活には欠点もある。
「全部自分でコントロールできるようになってしまうということは快適に見えて、想像以上にヤバいのではないか」と東畑さんは指摘する。
「他者とは本質的に危険なものです。リスクがある。だけど、勇気を出して付き合ってみたら、案外安全だった。これが信頼というものの成り立ちだと思うんです。でも、他者と会うことを避けなければいけない自粛生活の中では、そうしたリスクを限りなくゼロに近づけることが試みられました」
コロナ禍の1年半、人は理性的に振る舞わざるを得なかった。
「本当は飲み会に行きたいけど今は我慢しなきゃいけないと自分に言い聞かせる、そして、我慢できたり、できなかったりする。そういう風に葛藤しているとき、『心』はあるのだと思う。つまり、理性と感情が自分の中であっちにいったりこっちにいったり対話しているときです。だけど、自粛の時期も長くなり、理性の力を強めすぎると、バランスが崩れてしまいます」
心が一つ存在するために、心は必ず二ついる
「コロナは風邪」と主張する人々や「自粛警察」に代表されるような他者の行動を監視する人々など、コロナ禍においては「振り切れてしまった」人が少なくなかった。
そこに見えるのは、「複雑さに耐えることの難しさ」だと東畑さんは説く。
「複雑さに耐えるということにこそ、心の条件があると僕は思う。なぜならば、複雑さに耐えるということは自分の中に存在する色々な声に耳を傾け続けるということだからです」
どういうことか?
「『自分』という一人の人間の中には、実は多様な声が存在している。例えば、『仕事最高だぜ!』と思っている自分もいれば、『でも、本当はどうでもいいんだよな』と思う自分もいるわけです。複雑さに耐えるとは、自分の中に矛盾した声が存在する居心地の悪さを受け入れること、そうやって葛藤しながら生きることだと思います」
葛藤し続けるためには、読書も「重要な役割を果たす」と東畑さんは語る。
「誰かがいるから、私たちは心の中に複数の声を置いておくことができる。人は一人で葛藤し続けることは難しく、誰かとその葛藤を分かち合うことが必要です。このとき、具体的な他者だけではなく、読書も役に立つ。実際、なんかモヤモヤしているときって、本屋さんに行っちゃいますよね。本を読むという行為は、ただそこに書かれているテキストを読むのではなく、その本を書いた著者と一緒に何かについて考えることを意味するのではないでしょうか」
《心が一つ存在するために、心は必ず二ついる》
この本の表紙をめくると、そこにはこんな言葉が記されている。
「心は必ず二ついる、この心は自分の心と他者の心という意味でもありますが、自分の中に存在する二つ、もしくは二つ以上の心という意味も込められているんです」
万人に向けたアドバイスは「もうできない」
コロナ禍は想像以上に長く、ワクチン接種を完了しても引き続き最低限の感染対策を求められる見通しだ。
先の見えない時代に、読者へメッセージを投げかけるとしたら何を伝えるか?
そう問いかけると、東畑さんは間髪を入れずに「みんなへのアドバイスはもうできない時代です」と答えた。
「僕らは、万人に対して等しく何かを言うことができなくなった時代を生きているのではないか」
「新型コロナにせよなんにせよ、リスク感覚は一人ひとり異なります。すると、「みんな」に向けられた言葉は、どうしても受け取り方に差異が出てしまう。何をどの程度危険と思うか、自分と他者では『違う』と痛感せざるを得ない時代になってきました」
パンデミックという「大きな物語」に個人が飲み込まれていく中にあっても、「心」を見出すヒントは至るところに隠されている。
むしろ、「心」は他者との「違い」にこそ宿るのかもしれない。
「万人に向けたアドバイスができない、だからこそエピソードをもとに一人ひとりが生きる小さな物語が有効だと思うんです」
「夫が嫌いだと語る女性や引きこもる小学2年生の男の子、卒業を迎える女子学生たち。それぞれがそれぞれの人生を切実に生きているエピソードを書きました。そこにあるのは他人の人生の話です。だけど、彼らの心の動きを追うと、なぜか自分の人生のことが思い出されてしまう。ここにエピソードの力があると思います。白黒はっきりさせることを迫る時代に、他者にも自分にも、灰色の部分があったことを思い出させてくれるのがエピソードです」