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「これで子どもの命が守れるか?」あの日、12歳の娘を失った教員はキーボードを叩きながら涙を流した

「逃げたけど津波は来なかったねで良いんです。学校はそうあるべきでしょう」

宮城県石巻市の大川小学校で2011年3月11日、子どもたちと教職員合わせて84人が、津波で命を落とした。「大川小の悲劇」と呼ばれている。

「救えなかった命はあの日、先生たちが間違いなく救いたかった命です」

佐藤敏郎さんは10年前、大川小に通う6年生だった娘を失った。2015年に教員を辞め、いまは「語り部」として、人々にここで何が起きたのかを伝え続けている。

大川小の悲劇を巡っては2019年、石巻市や学校側の不備を認める判決が最高裁で確定した。これに伴い、学校の防災基準も強化された。しかし、共同通信のアンケートによると、新たな基準を達成したのは、全国の市区町村のうち45%に過ぎない。

あの日から10年、多くの犠牲をもとにした教訓は、どこまで現場に根付いたのか。どうすれば、学校は子どもの命を守れるのか。

「救ってほしかった命が救えなかった」

あの日、石巻市大川小学校の児童らは地震発生から約50分、校庭で待機していた。

その後、教員らは子どもたちに、学校の裏山ではなく、近くの「三角地帯」と呼ばれる橋の方角へ移動するよう指示した。そして、津波に巻き込まれた。

佐藤さんは当時、隣接する女川町の中学校に勤務する教員だった。

教員だからこそ「学校にいるのなら、きちんと避難誘導される。娘は大丈夫」と思っていた。「大川小が孤立」との知らせを耳にしてからも、無事を信じていた。

「救えた命、救えなかった命、救いたかった命、それに救うべき命がある。俺は、どれも大事だと思っている。あの日、大川小では救ってほしかった命が救えなかった」

教育現場で84人が命を落とした事実を、遺族として、そして元教員として考え続けてきた。

語り部として現場に立つ時、佐藤さんは「真ん中で考える必要がある」と口にする。

「救ってほしかった命だけが取り上げられて、悲しみに沈む俺らみたいな遺族の姿ばかりがクローズアップされることもある。でも、それだけじゃ、あの日、先生たちが一生懸命だったことが伝わらない」

「逆に、あの日先生たちがどれだけ一生懸命だったかという点だけを伝える人もいる。だけど、そうすると、先生たちは一生懸命だったから、あの出来事は仕方なかったねってなっちゃう。それは間違いでしょう」

この10年、常に伝えることの難しさを突きつけられたからこそ、そう思うという。

「大川小の悲劇」を巡っては、原因の究明を求める遺族らと、すぐに責任を認めようとしなかった行政側の対立が続いた。

石巻市教育委員会は生き残った子どもたちから状況を聞き取っていたが、そのメモは後に廃棄された。どんな証言があったのか、今となっては資料がない状態だ。

2013年2月には、文科省主導で第三者による検証委員会が発足した。

しかし、委員会による1年間にわたる検証でも、「なぜ避難できなかったのか」という問いに、明確な答えが示されることはなかった。

10年近く経ち、ようやく進み始めた時計の針

「遺族がいつまでも騒いでいる」という視線を感じたことも、少なくない。

佐藤さんは原告団に名を連ねることはなかったが、2014年3月には犠牲となった2児童23人の遺族が、石巻市と宮城県を提訴した。

仙台高裁が下した判決は、震災前の防災対策の不備を認めるもの。学校側には児童の安全を守る義務があるとし、震災前の備え=事前防災に過失があったとし、その必要性に言及した。

市と県は上告したが、最高裁は棄却。遺族側勝訴の判決は2019年10月10日に確定した。この判決により、全国の教育現場で、綿密な事前防災が求められることになった。災害から子どもたちの命を守るうえで、大きな前進だった。

一方で地元では、震災から8年も係争中であったことを理由に、あの日の出来事の位置づけが、あいまいなままになってはいないだろうか。

石巻市が配布した防災教育の副読本に、「大川小」の文字はない。石巻市が設置した防災センターの震災伝承コーナーにも、大川小の写真はない。

判決確定後の19年12月、石巻市による遺族への謝罪説明会が開かれた。会の途中、遺族の1人が「謝るなら、ここでじゃないでしょう」と提案した。

この言葉を聞いた亀山紘市長はこの日、震災後で初めて、旧大川小の校舎内に足を踏み入れた。

「何となく子どもたちが呼んでいる気がしてさ。俺らは校舎の中まで案内したんです」

2020年11月、宮城県の新任校長の研修が旧大川小で開かれた。

地元行政が、学校で子どもたちの命を守ることへの責任を認める。それに基づいて、新たな行動を取る。

そこまで震災から約10年。あまりに長い時間を要したという印象は拭えない。

「これで命が守れるのか?」キーボードを叩きながら涙が出てきた

「俺らがやっていることは、全部空振りというわけでもない」と佐藤さんは語る。

判決の確定は、改めて学校現場における防災教育が見直される機会にもなった。判例を学ぶため、法学部の学生が旧大川小を訪れる機会も増えつつある。

「きちっと筋道立てて、これからのことに生かしてもらえるようなことをやっていきたいと思う。大川小のことを理解してもらえるよう、噛み砕いていかないと。俺なんかはね、子どもでもわかる言葉であの日起きたことを伝えたいなと思っているんだよね」

「ちょっと進んでは戻って、ちょっと進んでは戻って。でも、たしかに前へ前へと来ている感じはするんです」

同時に、本当にこれでいいのかという疑問も残る。

学校でいじめなど大きな問題が起きると、文科省は通達を出す。

それを受けて有識者会議の設置や研修会の開催、調査と報告書の作成といったステップを踏み、最終的にはそれぞれの学校現場で対応マニュアルが作り直されることになる。

「ますます先生たちは、子ども達が見えなくなるものを背負わされていく」

「それしかやることないのかって思うわけですよ。そうやって、子どもが見えなくなる、手が伸ばせなくなる状況が、学校現場ではどんどんと増えている」

2012年、文部科学省は東日本大震災を受け、地震や津波対策に関するマニュアル作成の手引きを公表。同年、宮城県では各小中学校に「防災担当」の教員を、拠点校には「防災担当主幹」を置く制度が整えられた。震災の反省から生まれた仕組みといえる。

佐藤さんも、勤務先の女川第一中学校で「防災担当主幹」となった。

「宮城県は震災後、防災マニュアルの書き直しを学校現場に求めてきた。県には防災教育の細かい指針がある。それを踏まえてマニュアルを作り直すように、と」

「もちろん、俺も担当だったから作ったよ。作ったけどさ、パソコンのキーボードを叩きながら涙が止まらないんだよ。これで本当に子どもの命が守れんのかなって。どれだけ細かく書いたところで、それだけじゃ、守れないでしょう」

細かいマニュアルの書き直しよりも先に、大川小での出来事から学べることがある。

当時の大川小の避難マニュアルには「空き地か公園に逃げる」と記されていた。しかし、学校の周囲には「空き地」も「公園」もなかった。

「大川小学校の事故に関して何が必要だったか。それはたった一行の言葉です。『津波警報が出たら山に避難する』、これだけマニュアルに書いておいて、それを毎年確認して教員の間で共有していれば、あの日84人は助かったんだよ」

同じ石巻市内、北上川を挟み大川小の11kmほど北に位置する相川小学校では以前、地震が起きたら学校の屋上へ逃げることがマニュアルで定められていた。

しかし、このマニュアルは震災前に見直され、新たに裏山が避難場所に指定された。

3月11日、相川小学校の校舎は屋上まで津波に飲まれた。しかし、子どもたちは裏山に登り、無事だった。

「逃げたけど津波は来なかった」と言えるよう、せめて教訓に

あの日、大川小学校では防災無線の広報車が学校の前を通り過ぎる中、ようやく避難すべく動き始めたことが、生き残った人々の証言からわかっている。

「津波が来るはずがないだろうと思った、だから逃げなかったのは確かだよ。でも、津波が来るはずがないだろうと思っていたとしても、津波警報が出たら逃げると決まっていたら、逃げられたはずなんだよ」

避難する上で求められるのは、まず逃げるかどうか。次にどこに逃げるのかという判断だ。

情報と時間があるほど、正しい判断を下すことが容易になる。だが、緊急時に時間的余裕は乏しく、時に誤った情報も耳に入るのが現実だ。

「判断が遅れれば遅れるほどまずい。大川小で避難が始まったのは津波が来る直前、最後の1分でした」

「でも、ちゃんとマニュアルがあれば、津波警報が出ている時点で逃げると決断できる。きちんと避難場所も決まっていれば、どこに逃げるかを議論する必要はない。すぐに行動できるんです」

「あの日、4つのタイプの学校があった」と佐藤さんはいう。

1)津波が来たけど避難して助かった学校

2)津波は来なかったけど避難した学校

3)津波は来なかったけど避難もしなかった学校

4)津波が来たけど避難しなかった学校

の4つだ。「そして、最後の学校だけが、救えたはず命を救えなかった」

「どれであるべきかは、明白でしょう。『逃げたけど津波は来なかったね』で良いんです。学校は、そうあるべきでしょう」

大川小は「未来をひらく場所」

大川小があった地区には、多くの人が暮らしていた。津波はすべてを流し、今はぽつんと学校だった建物だけがたたずむ。

佐藤さんは語り部の最後、決まって「大川小は未来をひらく場所なんです」と笑顔で語る。

手にするのは、震災前の大川小で子どもたちが学ぶ姿を写した写真だ。

一輪車に乗った子どもの姿、教室で勉強する様子。これらを目にすると、震災前の光景が、改めてまぶたに浮かぶ。

「未来をひらく」は、大川小学校の校歌の題名だ。「われらこそ あたらしい 未来を ひらく」。校歌はこんな歌詞で締めくくられている。

この歌のように、この場所で起きたことを、未来へつなげたい。

だから、「大川小の出来事を、せめて教訓にしてほしい」

それが、佐藤さんの願いだ。

「未来の命を救うため、教訓のためとかって言われるけどさ…。俺たちは未来の教訓のために子どもを産んで、育てていたわけではない。未来のことなんてどうでも良いよって思うことだってあるんだよ」

「でも、もう子どもは帰って来ない。だから、『せめて』と言うんだよ。せめて2度とこういうことを繰り返さないために、俺らは大川小の出来事から何かを学んでくださいと言うしかないんです」

「子どもが無事だったことを、『奇跡』と表現してはいけない」

《夢だけは 壊せなかった 大震災》

《見たことない 女川町を 受け止める》

《ありがとう 今度は私が 頑張るね》

これらは、佐藤さんが震災後、女川第一中学校の国語の授業で生徒たちに書いてもらった俳句だ。

そこにはあの日を生き抜いた子どもたちが一人ひとりが考え、絞り出した17文字が並ぶ。

あの日からの10年を生きたくても生きられなかった人がいる一方、復興が進む10年をあの日から生きてきた子どもたちがいる。

震災から4年後、佐藤さんは学校を辞めた。今はNPOの活動に関わり、学校と外部の連携を引き出すべく走り回る。もちろん語り部や防災教育の取り組みも進めながら、だ。

どうすれば、学校は子どもの命が守れるのか。

2011年3月11日から10年。大川小の悲劇が、私たちに突きつける問いだ。

「あの日しっかり避難した学校で子どもが無事だったことを、『奇跡』と表現してはいけないと思うんです。それでは、運が良かったか、悪かったかの問題で終わってしまうから」


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