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「良きにはからえ」はもう限界。菅首相の“自助”重視路線が見落としている決定的な事実

「まずは自助」という姿勢を打ち出す菅首相。しかし、歴史社会学者の小熊英二さんは、政治の中枢にいる人々はある重要な問題を見落としていると指摘します。

コロナ禍で見えてきたのは政策メインではなく、一般市民の自助努力をベースとした感染症対策だった。

協力や要請に基づく対策に対し賛否の声が上がる中、歴史社会学者・小熊英二さんはこうした対策は「これまでのガバナンスの延長線上であった」と指摘する。

新型コロナウイルス感染症への対応で見えた課題に、我々はどう向き合うべきなのだろうか。

社会のつながりに頼るガバナンスはコロナ禍でも

ーー「まずは自助」という菅首相の姿勢についてはどのように受け止めていますか?

日本の政府はガバナンスとして、可能な限りあらゆる物事への対処をソーシャルキャピタルに任せるという姿勢を取り続けてきました。

政府は「富国強兵」――インフラ整備と経済基盤整備に専念するから、社会の維持にはお金と人手はかけない。社会のことは社会の側でやってくれ、「あとは良きにはからえ」ということです。

家族と地域の相互扶助が盛んで、周囲に子どもを預けられる人がいるなら、保育園はいらない。住民みんなが知り合いで、自治会長と民生委員と先生が地域の家庭の経済状況をよく知っているといった社会なら、それでも機能したでしょう。

すでに述べたように、2002年から2014年に、「子どもを預けられる人がいる」と回答した母親が、57%から28%に落ちている。こういう変化は、ここ20年でも急速に進んでいます。

おそらく菅首相のような年代の人たちは、自分の周囲に子ども預けられる人が減ったこの十数年の変化がわからないのだと思います。

また、おそらく自助と共助をあまり区別してないでしょう。

何もかもを市場からすべて購入できるわけではない中で、近隣や親族と助け合い、地域では自治会や社会福祉協議会が機能し、どこでどのような困りごとが起きているのかを把握している。このような社会を想定している。

GDPの変化といった数字に関しては把握していたとしても、現実の変化を感覚的に理解してないと思います。

ーー政府はコロナ対応でも、かなりの部分を一般市民の自助努力に頼る形で進めているように見えます。

基本的にはこれまでのガバナンスの延長線上であったと見ています。

日本では、できる限り法律的な措置は取られません。

それは社会の側も、政府を信用しておらず、政府に介入してほしくないと考えているためでもありました。そして行政も、法律で事細かに明文化すると、行政の裁量の余地が少なくなるので、それを避ける傾向があったためです。

例えば、生活保護についても「所得が〇〇円以下になったら支給する」と明文化してしまうと窓口で可否を判断する余地がなくなってしまいます。行政はそうした裁量はできる限り手元に残しておきたいという論理が働く。

ですから、基本的には法律的裏付けもなく、罰則規定もない「行政指導」が重宝されるわけです。そのような指導のもとに、地域や業界、企業に後の対応は委ねてしまう。

ただし、今回のコロナ禍の対応を見ていて、いまだに法律で明文化しない「お願い」「要請」ベースのガバナンスが機能するのかと思ったのも事実です。

まだ機能するからこそ、その手法に頼りたいという気持ちもわからなくはない。でも、昔に比べてソーシャルキャピタルが希薄となった社会では無理も多いだろうと思います。

ーー例えば、どのような点で無理が生じていると考えますか?

一例を挙げれば、学校の一斉休校です。

印象としては、あのとき、都市部の公立学校の生徒と家庭が大きな影響を受ける傾向にありました。

お金がある私立学校は、いち早くオンライン教育を導入しましたが、公立学校はそういうことができなかった。だから公立学校の生徒は、事実上はほったらかしで、学力格差が開いたでしょう。

また報道をみていた限り、休校になっても、都市部より地方のほうが公立学校でもよく対応していたようです。学校と地域が密着していて、教員が家庭訪問で課題を届けたりできた地域は、オンライン教育ができなくてもソーシャルキャピタルでカバーする。

しかし都市部の公立学校は、お金もソーシャルキャピタルもない。そういう学校の家庭では、子どもを預ける先もなく、学校からの課題も連絡もなく、家庭で過ごすしかなかったわけです。

「あとは良きにはからえ」では、もう限界

ーー新型コロナが突きつけた課題に、我々は今後どのように向き合っていくべきなのでしょうか?

やはり日本社会がこの20年~30年でどのように変化してきたのかということについて、もっと認識した方が良いのだと思います。

非正規雇用の人が増えたということはあくまで1つの側面であり、根本の課題はソーシャルキャピタル頼りの限界だと考えます。

象徴的なデータが、自治会の加入率のピークは1980年代であったということです。

体感的には60年代を境につながりは希薄化してきたと捉える方もいるかもしれませんが、実際には80年代まではそうした地域のつながりは残っていた。自営業の開業率も、80年代初頭までは高かった。

自治会の加入率が急速に低下したのは2000年前後です。これは産業構造的に自営業がもたなくなってきた時期と重なります。

おそらく、80年代までに人格形成した世代と、それ以後の世代では、無意識の前提としている社会観がかなり違うでしょう。

現在、政治の中枢にいる人々はまだソーシャルキャピタルが今よりは機能していた時代に生まれ育っているため、こうした変化を実感することはないのでしょう。

近年、ジェンダーに関する発言でそのような古い価値観があらわになっていますが、ジェンダーに関する認識に限らず、様々な点において世界観は相当違うと思います。

ーー世代交代によって、政治に関わる人々の認識も変わり、ガバナンスのあり方も変化すると言えますか?

世代交代によって変わっていかざるを得ませんが、そこまですぐに変わるかどうかはわかりません。

自民党に代表される日本の政治の仕組みは、基本的に業界団体や自治会、町内会といったところを票田としています。

すでに社会を構成する大多数の人はそうした組織とつながっていないことは明白ですが、自治会や業界団体などから支持を取り付けた人々が当選し続けるという状況はしばらく変わらないかもしれません。

しかし、我々はソーシャルキャピタルが衰退してきたという現実を直視しなければなりません。「つながりのある社会に戻しましょう」と言ったところで、それはおそらく無理でしょう。

常識的に考えれば、公助の領域、つまり行政が負担する領域を増やし、公的支出を増やすしかない。

そして、行政の負担を軽くするためにも、様々なことを明文化するしかないのではないでしょうか。明文化しないほうが行政の裁量の余地は増えますが、その分だけ行政職員の負担は増えます。生活保護も、いちいち現場職員が審査をして親族照会をするより、書類審査で自動的に通したほうが負担は減る。

社会のつながりに任せ、政府は「あとは良きにはからえ」で上手くいった社会は、「小さな政府」で済みますから、コストパフォーマンスが優れていたかもしれません。

しかし、ソーシャルキャピタルがどんどんと失われていく社会では、そのようなやり方は機能しません。コロナ禍をきっかけに、その現実を直視するべきだと思います。