東日本大震災に襲われた岩手県釜石市。小中学校に通う子どもたちほぼ全員が避難し、津波を逃れた。
人口約4万人の市内で1000人を超える死者・行方不明者が出る一方、小中学生の99.8%が無事だったという事実は、一般に「釜石の奇跡」と呼ばれる。
なかでも、釜石市鵜住居地区で中学生が小学生の手を引いて避難したことは、徹底した事前の防災教育の成果で子どもたちが自主的に動いたと受け止められ、高く賞賛されてきた。
菊池のどかさん(25)は中学3年生だったあの日、小学生の手を引いて避難した。震災後、「奇跡」のストーリーを追うメディアの取材が相次いだ。中学校では防災を担当する委員会で委員長を務めていた。
だが、奇跡と呼ばれることに、戸惑いもあった。一時は、取材を避けるようになった。
あれから10年。大人になった菊池さんは釜石市の第三セクター「かまいしDMC」に就職。震災の伝承と防災学習を行う「いのちをつなぐ未来館」で働く。震災のことを語り伝えるのは、仕事の一つだ。
釜石で起きたことに、「奇跡」という言葉は本当にふさわしいのか。
あの日、実際に何が起き、なぜ子どもたちは生き延びたのか。
10代半ばで「奇跡」の語り手となることを求められた菊池さんは、何を感じていたのか。
そしてなぜ、震災の伝承と防災学習に取り組む道を歩むようになったのか。
「自分たちだけの力で避難できたわけじゃないのに」
震災後、釜石市鵜住居地区にある釜石東中の生徒が、隣の鵜住居小の児童の手を引き避難したことは大きく報じられ、「釜石の奇跡」のハイライトとして注目された。
菊池さんが、自分たちの避難行動が「釜石の奇跡」と呼ばれていることを知ったのは、震災からしばらく経ってからだった。
「正直あの頃、自分たちがどう報じられているのかに気付くゆとりはなかったんです」
「ようやく自分たちの気持ちが落ち着いてきた頃には、話がすっかり大きくなってしまっていて、もう収拾がつかない状況で」
震災から半年ほど過ぎると、「釜石の奇跡」を経験した子どもたちに話を聞きたいというメディアからの依頼が増え始めた。
だが菊池さんには、拭うことのできない違和感があった。
まず、どうして、そんなに話が大きくなっているのだろうと驚いた。そして、「自分たちだけの力で避難できたわけじゃないのに、という違和感がありました」
実際には中学生たちは当初、自分たちだけで避難したという。何が起きていたのか。
「何やってんだ、早く逃げろ」
菊池さんは当時、釜石東中の3年生。15歳だった。
3月11日。卒業式の歌を練習し、クラスメイトたちの多くは前日に届いた卒業アルバムに教室で寄せ書きをし合っていた。
午後2時半には家に帰る予定でいたが遅くなったため、隣接する鵜住居小にあった公衆電話ボックスから自宅に電話した。
その時、午後2時46分。大きな揺れが襲った。
中学1、2年生は部活動の時間で、校庭や音楽室など様々な場所にいた。中学3年生の教室は校舎の1階だった。
生徒たちは校庭の片隅にある「点呼場所」へ集まった。先生たちは学校の中に取り残されている人がいないか見て回った。
その時、職員室から1人の男性教員が「何やってんだ、早く逃げろ」と呼びかける声がした。
教員の指示を受け、全員の点呼が完了する前から、生徒たちは避難を始めた。
「まだ揺れている最中に避難を始めました。地震は3分半以上揺れていたようですが、地震発生から2分ぐらい経った時には、もう学校を出ていたと思います」
学校を出た時、時計は午後2時50分ちょっと前を指していた。
「こんな揺れで津波が3メートルなわけがない」
「小学生たちを待ってから避難すべきかどうか、私たちも悩んだんです。でも、もしかすると既に避難しているかもしれないと思い、一旦は自分たちだけで避難しました」
小学校も卒業式間近。時間割も変則的で、その時間に児童がいるのかどうかわからなかった。
釜石東中学校の生徒たちが避難先としてまず向かったのは、学校から800m離れた高齢者施設の駐車場だった。そこが学校指定の避難場所だったからだ。
駐車場に向かう途中、生徒たちは小学校や周囲の住宅に伝わるよう、避難を呼びかけながら走った。
「3メートルの津波が予想されます」。津波警報のサイレンが聞こえた。
誰かが叫んだ。「こんな揺れで3メートルなわけねえ」
「何かしら喋ってないと不安で怖かった。とりあえず、あの時は必死でした」
800mほど走ったところで、小学校から子どもたちが出てくるのが見えた。避難先の駐車場で5分ほど待機し、中学生と小学生は合流した。
待機する間も何度も余震があった。近くで落石も起き、さらに上のデイサービス施設へ移動することにした。
その日は校長会が開かれていたため、小中学校ともに校長は不在。代わりに中学校の副校長が、小中学生にまとめて指示を出していた。
「まとめて指示があったので、とりあえず小学生と中学生は手をつないで避難をしました。私たちが小学生の手を引いて避難をしたのは、駐車場からさらに高台にあったデイサービスセンターへの道だけです」
小中学生たちはその後、高台のデイサービスセンターから、さらに避難することになった。
「逃げた先は高さ15mの場所にありました。でも、津波はそこにも到達しそうな勢いだった。だから誰から指示が出たからということではなく、みんな反射で逃げました」
「走れ」「逃げろ」
さらに高台へと走る中、先生たちが必死で呼びかける声を何度も耳にした。
大きく報じられた「釜石の奇跡」、でも…
震災の日、子どもたちの命を救おうと行動した人々は、たくさんいた。
水門を閉めにいった消防団の人がいなかったら、小学生たちはきっと無事ではなかった。避難誘導してくれた住民の人たちもいた。教員も避難の指示を出してくれた。
「そうやって助けてくれた人たちがいっぱいいるのに、中学生が、自分たちで全部やったように伝えられていたことを、すごく申し訳なく感じていました。助けてくれた人たちを隠しているようで申し訳なかったし、何より亡くなった人たちのことを思いました」
鵜住居地区でも多くの人が地震と津波で命を落とした。鵜住居小に残った事務職員も亡くなった。
さらに当時は、行方不明となった家族の帰りを待つ人も少なくなかった。
「そんな中で、『私たちは助かりました』という話を、物語みたいに大々的に伝えられてもな…と感じていたんです」
「自分たちだけだったら、何と呼ばれようがいいんです。でも、周りの人たちの辛そうな姿を近くで見ていた。だからこそ、そうじゃなかったんだよって言いたくなる」
「たしかに色々な出来事が重なり助かったことは、奇跡的だったとは思います。でも、本当に色々な人のおかげで今生きている。私たちが生き残るために一生懸命尽くしてくれた人たちがいて、私たちは、たまたま助かったんです」
「ストーリー」から逃れられなかった
菊池さんは高校に進学後も高校生平和大使など、学校内外で幅広く活動した。
しかし、それは「流れに逆らえなかったから」とつぶやく。
震災の年、菊池さんは釜石東中で防災を担当する委員会の委員長だった。
「それも、たまたまだったんですよ。ジャンケンに負けて、委員長をやることになったんです」
だが、震災前の避難訓練などの通り組みが「釜石の奇跡」につながったというメディアが想定するストーリーを語ることを期待され、逃れることはできなかった。
菊池さんは高校生になってからも、様々な取材を受けた。
「取材に答えるうちに、『こいつが話してくれるなら、自分は別に話さなくてもいいか』という空気が広がったのかもしれません。自分以外にあの日の出来事を話してくれる人が、どんどんと減っていきました」
あの日の体験を語れなくなった
地元を離れて大学に進学すると、震災の体験を語ることが「嫌になった」という。
「大学では楽しく過ごせていましたけど、釜石に帰ってくると…いろんな気持ちが混じって、全然話したくないと感じるようになったんです」
大学に入った頃は、人を助ける仕事に就きたいと考えていた。防災教育に取り組む教員。地元の消防士。自衛官や警察官も考えた。
「でも、気持ちの面でついていけなくなって。頑張れなくなってしまって」
取材などで震災の体験を語ることも避けるようになった。
3年ほどが経った頃、「地元に戻って街の人たちのために働きたい」という思いが、再びこみ上げてきた。
「色々と考えてみると、自分を助けてくれた人を助けるためには、その地域で暮らしていないといけないと思ったんです。その頃、今の仕事を偶然見つけ、応募することを決めました」
いまは震災の伝承や防災教育を担当する。職務としてあの日の事を語る機会も少なくない。自身の体験を語ることに、もう抵抗はないのか。
「語ることを一時、休んだことで、自分の中で整理がついたのだと思います」
「震災から10年で復興は進んだと言われますけど…」
菊池さんは2020年9月、職場の研修で宮城県石巻市の旧大川小学校を訪れた。
すぐ高台に向かうという適切な避難指示がないまま、子どもたちと教職員ら計84人が津波に巻き込まれ、亡くなった。「大川小の悲劇」と呼ばれている。
「釜石の奇跡」と「大川小の悲劇」は、繰り返し比べられてきた。
それだけに、どんな気持ちで足を運べばいいのか悩んだ。
「しかし、遺族の方々とお話すると、ずっと命と向き合い続けてきたことが分かりました。同時に、あの日からの自分の歩みと比べてしまって。私は子どもだったからという部分はあるにせよ、どちらかと言えば周囲の流れに逆らうことを諦めてきた」
「私たちはあの日亡くなった人たちのことをどこまで大切に思ってきたんだろうって、振り返ってすごく後悔したんです」
あの日を境に、菊池さんの人生は大きく変わった。震災からの10年は「長くもないし、短くもない」。一言で表すことは難しい。
「震災にずっと振り回されてきた。この10年で自分は何をできたんだろうって振り返ってみると、何もできないまま10年が過ぎていったような気がするんです」
「私はたまたま15歳で被災した。それをものすごくポジティブに捉えると、運が良かったのかもしれません。すでに大人になっていたら、生活をどうしようかということに必死で、自分が何をしたいのか見つめることは、難しかったかもしれない」
「あの時、まだ子どもだったから、やりたいことを見つけて、地域の防災のために何が出来るかを考えることができています」
菊池さんは、あくまで地域の人々の目線で防災に取り組みたいという。
「消防署の人や大学の先生が伝える防災教育と、子どもたちを対象にした学校での防災教育。この2つは整いつつあるとは思います。でも、地域の人のための防災教育が、抜け落ちているように感じるんです」
専門家や教員として誰かを「指導」するのではなく、日々の暮らしの中で防災をともに考え、伝えたい。
「地震や津波、それに台風もこれからまた絶対に来る。だからこそ、地域のみんなと一緒に、どうやって備えるか、もしもの時はどうするか、少しずつ話し合って準備をしなきゃいけない」
「震災から10年で復興は進んだと言われますけど、防災という意味では、ようやくベースが整った。たぶんこれから、色々なことが始まっていくのだと思います」
BuzzFeed Japanでは、あの日から10年を迎える東日本大震災に関する記事を掲載しています。
あの日と今を生きる人々を、さまざまな角度から伝えます。
関連記事には「3.11」のマークが付いています。東日本大震災の関連記事は、こちらをご覧下さい。