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感染してもいいけど、1人目にはなりたくない… なぜ、"自粛警察"や感染者バッシングは起きるのか?

先が見通せない中、新型コロナウイルスの影響は続く。そんな中で、どのような心構えで日々を過ごすことで、少しは気持ちが楽になるのだろうか。

新型コロナウイルスの感染拡大の波は一旦落ち着きを見せているものの、影響の長期化が予想されている。

専門家会議が示す出口は、ワクチンもしくは治療薬の確立。その地点に、いつになれば到達できるのかは、現時点では定かではない。

そんな中、自分や他者の「心の揺れを許そう」と精神科医で一橋大学教授の宮地尚子さんは言葉にする。

感染者の個人情報が晒され、バッシングも起きた。自治体が定めた営業時間の要請に従わない店舗に、営業自粛を求める張り紙などが貼られるケースもある。

コロナと生きる時代に、どのような心構えで日々を過ごすことで、気持ちは楽になるのだろうか。宮地さんに聞いた。

「自粛警察」、なぜ顕在化?

「自分の心も揺れるし、身近な誰かの心も揺れ動く。まずは、自分自身の揺れに気付いて、その上で身近な人との間でズレが生じることを知っておくことが大事だと思います」

宮地さんはこう語る。そして、この新型コロナの影響が続く中では、道徳的判断を一旦止めることが重要だと指摘する。

「いま、社会のあらゆる人の心が揺れている。そうした時に、道徳的判断を下すことは、批判や非難の形をとりやすい。最も危ないこと、それは処罰感情を抱くことです」

「処罰感情は非常に恐ろしいもので、自分を"正しい"側に置き、誰か他の"正しくない"人を罰する構造になる。人というのは、大義名分を与えられると暴力的になる生き物です。他罰的な態度の裏には、恐怖が潜んでいるのですが、だからこそ、こうした感情に任せて批判や非難をすることは危険だと感じます」

新型コロナの影響が続く中で、普段は穏やかな人が、他者に対して攻撃的になるシーンは少なくない。だが、「他の誰かがどういう事情を抱えているか、いつもよりも見えにくい今、一度立ち止まって考えた方が良い」。

緊急事態宣言が発出され、飲食店の営業などが制限される中で、世間では「自粛警察」と呼ばれる行為が表面化した。要請に従わぬ店舗へ貼り紙が貼られるなど、処罰感情が表面化している。

また、ネット上では大型連休中に東京から山梨を訪れていた女性の新型コロナ感染が判明したことを発端に、バッシングも相次いだ。

なぜ、こうした処罰感情は、歯止めが効かなくなるのだろうか。

「道徳的判断に紛れ込んでいるのが、『自分は我慢しているのに、あの人たちは我慢していない』『自分たちは言うことを聞いているのに、あの人たちは聞いていない』といった感情です。でも、そんな言い方をしてしまうと正当性を失ってしまいますから、倫理的、道徳的な言葉で批判をする」

「真面目な人が不真面目な人や一見不真面目に見える人を怒るという構造はどこにでもありますが、自分が我慢をしている苛立ちや不自由感が、特にこうした批判や非難につながりやすい側面があると考えられます」

「正しさ」は恐ろしい

同時に、人から人へと伝播する感染症の性質がコミュニティ内での互いの行動への厳しい目につながりやすいと宮地さんは指摘する。

「いま、あらゆるコミュニティで、自分たちのコミュニティを守るために、誰がウイルスを持ち込んだのかということに意識が向きやすいのではないでしょうか。多くの人は自分たちが住むコミュニティを『純潔』なまま保ちたいと願う。そうした時に、誰が『汚れ』を持ち込んでいるのかと厳しい目を向けたくなるのだと思います」

こうした、外から「敵」が侵入することを防ぐ気持ちは誰しもが持ちうる。徳島県では飯泉嘉門知事が県外ナンバー車の実態調査を行うと明言。その後、他県からの来訪者の車への嫌がらせが問題となった。

しかし、このような互いの行動への厳しい視線が、結果的に感染拡大防止を妨げる可能性があるため、注意する必要がある。

岩手県の達増拓也知事は5月15日、「第1号になっても県はその人を責めません」と発信。新型コロナ感染が疑われる場合には、相談するよう呼びかけたと朝日新聞が報じた。相談をためらい、医療へのアクセスが遅れることで重症化や感染拡大が進む可能性があるためだ。

「友人が以前、『新型コロナに感染するのはいいけど、絶対に一人目にはなりたくない』と言っていたんです。その言葉が非常に印象的で、今でもはっきりと覚えています。そのコミュニティにウイルスを持ち込んだ存在になりたくないという思いもあるでしょうし、何より『あなたのせいで、感染が広がった』、自分が加害者なのだと名指しされることは怖いことだと思います」

「加害者という言葉自体、意図的に害を与えているようで強すぎますよね。なので、私は加傷者、被傷者という言葉を使うようにしています。その地域やコミュニティでの最初の感染者は、被傷者でもあると同時に、加傷者的立場にも立ってしまう。そうした加傷者には非難の矛先も向きやすいですし、排斥されてしまう。正しさや潔癖さは、時には怖い方向にも働くということは、覚えておいた方が良いかもしれません」

誰と親密でいるのか、問われる日々

日本では「ソーシャルディスタンス」(社会的距離)という言葉を使い、他者と2m程度の距離を開けることが推奨された。だが、欧米では「Physically Distant, Socially Connected(身体的な距離をとりながら、社会的にはつながろう)」といった呼びかけがなされている。

たとえ、感染防止のために他者と身体的な距離をとったとしても、他者とつながっていようとする意識が、そこにはある。

人から人へと感染する感染症の性質として、誰かとリアルに関わることがリスクになる。実際、感染予防の観点から、緊急事態宣言下では、家族以外との接触をできる限り避けるよう呼びかけがされていた。

そうした中で、「誰と親密でいつつ、この状況を乗り越えるかが問われているのではないか」。宮地さんは言う。

「今、誰と運命共同体になるかが問われているのかもしれません。家族だから安全とは限らないし、一緒に時間を過ごす人との関係性によって、生活も大きく左右されるでしょう」

コロナと生きる日々、モデルの切り替えを

連休明けにオンラインではじまった大学の授業。ゼミ生の声に耳を傾ける中で、罪悪感や自己嫌悪感を抱く人がいることに宮地さんは気づいた。

「けっこう、みんな微妙な罪悪感を持っているんですよね。自分はもっと悲壮に感じなくてはいけないのでは、何か役立つことをしなくてはいけないのではと。のほほんと過ごしている自分への、自己嫌悪感のようなものとも言うことができるかもしれません」

「本来は、自分がどう感じるべきかなんてことは誰かに指図されるものではない。でも、こうした非日常の中では、どのような感じ方が正しいのか、答えのようなものを求めてしまう部分があるのかもしれません」

「人は何もできない状態では、フラストレーションを溜めこみます」

新型コロナと生きる日々では、「あらゆることをコントロールできないと自覚した上で、ある種のコントロール感を探っていくしかない」と宮地さんは説明する。

そのような中で、どう気持ちを保つことが必要なのか。宮地さんが例として挙げたのは、急性疾患への対応と慢性疾患への対応の違いだ。

例えば、慢性疾患である糖尿病の場合、治療の目的は血糖をコントロールして、糖尿病がない人と同じ健康寿命を保つことだ。そのために、指導を受けながら食事療法や運動療法に取り組むことが一般的だ。

このように慢性疾患と付き合っていく上では、患者自身のセルフコントロールが求められてくる。

「慢性疾患になると、治療のプロセスも専門家主導ではなく、当事者主導が重要になってくる。また、急性疾患であれば会社を休職するかもしれませんが、慢性疾患の場合は出来る範囲で仕事を続けていきますよね。慢性疾患に向き合う上ではパラダイムを転換することが求められるとされています」

「今回も、急性疾患のモデルから慢性疾患のモデルへと気持ちを切り替えていかなくてはいけない。そうして、長期化する『非日常』と付き合っていく必要があるのだと思います」

時代が大きく変わる中で…

「飛行機などで気軽に移動できないことは残念だけど、コロナで無駄な会議が減ったり、遠方の人とオンライン会議で会いやすくなったり…私は、もうコロナ以前には戻れないかもと思ったりもするんです」

これもまた、本音だ。

「リア充でいなければというプレッシャーがなくなってホッとしている人もいるのでは。金曜日の夜は友達と出かけて、美味しいものを食べて…みたいなことを意識しなくてすみますし、誰かと比較せずにすむ部分は確実にありますよね」

こうしたコロナと生きる日常を暮らす中で、新しいマナーが生まれ、少しずつ拠って立つものを見出せるようになるのではないか。そんな語りには、宮地さん自身の期待も込められている。

「この新型コロナの流行を機に、時代が大きく変わることは確実ですよね。新しい文化を生まなくてはいけないでしょうし、生まれていくだろうとも思います。いろんな工夫をして、柔軟に新しい可能性を探っていく必要があります」

「同時に、長期戦になることが予想されていますので、省エネも必要になってきます例えば、自分で情報収集して行動することは非常に正しいけれども、刻々と状況が変わる中では、それを続けてしまうと疲弊してしまいますよね。だから、ほどほどに。自分で情報収集して考えるときと、そうでない時間とのメリハリをつけた方が良いと思います」

「先が読めないのは怖いし、困るんだけど、人間がどう行動するのかを学ぶ機会とも捉えられる。学生たちには、こんなに大きく物事が変わることを経験することは滅多にないから、しっかりと観察をするようにと伝えているんです」

いやがおうでも社会は変わろうとしている。そこでは、私たち一人ひとりが試されているのかもしれない。