タリバンとは何者か?なぜ復活したのか?アフガン政権崩壊の裏で何が起きたのか【回顧2021】

    2001年から20年に渡りアフガニスタンに駐留した米軍が撤退プロセスを続ける中、イスラム勢力タリバンが息を吹き返し、首都カブールを掌握した。タリバンとは何者か。

    2021年にBuzzFeed Newsで反響の大きかった記事をご紹介しています(初出:8月16日。情勢は全て、8月の記事公開当時のものです)。


    アフガニスタンで、アメリカや日本など各国が支えてきたガニ政権が崩壊し、イスラム勢力タリバンが、20年の時を経て権力を再掌握した。タリバンとは、どんな勢力か。

    なぜ米軍は撤退を急いだのか。どうしてアフガン政府はあっけなく崩れたのか。各国の思惑と、アフガン市民の暮らしは。

    2001年に第1次タリバン政権が崩壊した直後にカブール入りしてから20年、アフガン情勢の取材を続けてきた記者が解説する。第1弾は、まずタリバンについて考える。

    タリバンとは

    タリバン(ターリバーン)という勢力は、名前そのものが組織の由来と、その「土着性」を示している。

    パキスタンとの国境周辺のイスラム教スンニ派の神学校(マドラサ)で学んだ学生たちが中心となって作られた、イスラム教の教えに則った「世直し運動」というのが、タリバン側が主張する組織の由来だ。

    (男子)学生を意味するアラビア語由来の言葉「ターリブ」を、現地のパシュトゥー語で複数形にした「学生たち」というのが「ターリバーン」という言葉の意味だ。

    全土に無政府状態が広がって軍閥が群雄割拠し、強引な統治と戦闘を繰り広げていた1990年代半ばのアフガニスタンでは、軍閥と違っておおっぴらにワイロなどを求めなかった当時のタリバンの勃興を歓迎する声も、市民の間にあった。

    しかし、タリバンが支配地を広げて首都カブールを占領し、実質的な政権となったころには、さまざまな出自や価値観を持つ住民が集まる都市部を中心に、反感も強くなっていった。

    タリバンは自派の厳格なイスラム解釈を押しつけたうえ、少数派シーア派を「背教徒」扱いして弾圧し、女子の学校教育をやめた。さらにタリバンが「反イスラム」「非イスラム」と考える歌謡曲を聴くことや、たこ揚げなど伝統的な遊びまでも禁止したからだ。映画の公開も禁止された。

    孤立するタリバンは国際社会に背を向け、国際社会の大勢もタリバンを「アフガンの政府」として承認しなかった。

    アフガニスタンは多民族・多宗教国家で、「アフガン語を話すアフガン人」というまとまった国民がいるわけではない。パシュトゥー語を話すパシュトゥン人が4割強で最大勢力。タジク人、ウズベク人、そして東アジア人によく似た風貌でイスラム教シーア派信者が多いハザラ人など、様々な民族がいる。ペルシャ語の一方言のダリー語が、パシュトゥー語と並ぶ公用語だ。

    タリバンはこのうち、パシュトゥン人を主体とし、パシュトゥンの農村社会の伝統を基盤とする勢力だ。

    「草の根保守」なのに麻薬を資金源とする矛盾

    タリバン支配の内実は、少なくともパシュトゥー語を話し農村部で暮らす中高年男性にとっては、あまり違和感がないというのが実態だ。

    というのも、

    1)保守的で厳格なイスラム解釈

    2)もめ事があれば長老とイスラム法学者が協議して物事を決める、伝統的かつ家父長制的で男性優位なパシュトゥン人農村社会の秩序と価値観の維持

    という点において、「草の根保守」といえる部分があるからだ。

    長くパシュトゥン人が多いアフガニスタン東部で援助活動を続けた故・中村哲医師は2001年、以下のように語っている。

    「タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う。恐怖政治も言論統制もしていない。田舎を基盤とする政権で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・貧民層にはほとんど違和感はないようです」(日経ビジネスより)

    一方でそれは、個人の意思の尊重、信教の自由、男女の平等といった、日本や欧米をはじめグローバルに重視される現代的な価値観とは、相容れない部分が多い。

    非パシュトゥン人や非スンニ派信者、そしてパシュトゥン人でも家父長的で古い社会秩序から脱却したい都市部などの人々、そして女性にとっては、タリバンの存在は「恐怖と抑圧の象徴」となる。

    米軍と北部同盟(タジク人、ウズベク人勢力などによる反タリバン連合)の攻勢で2001年11月に第1次タリバン政権が崩壊しても、東部などを中心に勢力を維持できたのは、草の根の保守性に対する地元民の一定以上の支持があったからだ。

    そして、タリバンは大きな資金源を握っていた。

    ケシの栽培と、その産物であるアヘンなど麻薬の密輸だ。

    世界のアヘンの9割は、アフガン産とみられている。農地の荒廃と干ばつなどに苦しむ農民にとっては数少ない収入源であり、米軍などによるケシ栽培根絶作戦も奏功しなかった。

    「イスラムに沿った社会建設」を標榜するタリバンが、イスラムの教えでは認められない麻薬を資金源とする矛盾を、彼ら自身はどう考えているのだろうか。

    パキスタンとの国境を超えたつながり

    もう一つ重要なのは、隣国パキスタンの軍部と情報機関がタリバンを支えてきたことだ。

    旧英領インドから「イスラム教徒の国」としてインドと分離・独立したパキスタンもまた、多民族国家。

    パキスタンとアフガニスタンの国境線は、19世紀末に大英帝国が民族分布を無視し、植民地支配の都合で引いたものだ。この線によって、パシュトゥン人の生活圏はアフガン領内とパキスタン領内に分断された。今もパシュトゥン人がアフガン人口の4割強、パキスタン人口の1割を占める。

    パキスタンにとって、パシュトゥン人主体の自国西部の治安維持は、同じパシュトゥン人社会のアフガン東部の情勢と直結する問題だ。

    加えて、パキスタンの国土は南北に長い一方で、東西の幅は狭い。そういう地理条件の中でパキスタン軍は規模で上回るインド軍と対峙し、互いに核兵器を手ににらみ合う。

    このため、パシュトゥン人の多いアフガンで親パキスタン勢力を広げ、東のインド、西のアフガンからの「挟み撃ち」を避けるのが、パキスタン軍部と情報機関の基本戦略となってきた。

    2001年以降、「パキスタンがタリバンを操っている」と考えるアフガン政府とパキスタンの反目は深まった。

    アフガンで「反タリバン≒反パキスタン」の政府が存続することは、パキスタン側が考える「国益」に反することになる。逆に言えば、タリバン復権の最大の受益者は、短期的な単純計算で言えば、パキスタンということになる。

    ただし、さまざまな要素が複雑に絡んでくるだけに、長期的にもそうなるかどうかは、また別の話だ。

    「パキスタンは、西側国境の不安定さのために、多大な犠牲を払い、重い代償を払ってきました。我々は一貫して、アフガニスタンの紛争には軍事的解決策がないことを強調してきました。」 #AfghanPeaceProcess (7/11) https://t.co/rdTDXy8gUo

    Twitter: @PakGovJapanese

    アフガン情勢を受けた、パキスタン政府の日本語公式ツイート。アフガン情勢が自国西部の問題に直結するというパキスタンの立場を説明している。

    タリバン復権でアフガンは平和になるのか

    アフガンは、強大な近代的軍事力だけで平定するのが難しい土地柄だ。

    国土の多くを砂漠と険しい山岳地帯が占めるため、空爆や機甲部隊など近代的な軍事力による作戦には限界がある。山岳地帯の谷間や洞くつなどに「隠れ家」を作ってゲリラ攻撃を続けることが可能だからだ。

    多くの米兵やNATO兵がタリバンが道路脇に仕掛けた手製の爆弾やロケット砲攻撃などで命を落とした。

    そうやってタリバンは存続を続けた。しかし、「天然の要塞」が味方するのは、タリバンだけでない。

    1990年代にタリバンの攻勢が続く間、タジク人を中心とする反タリバン勢力は、険しいヒンドゥークシュ山脈に奥深く広がる北部パンジシール渓谷に立て篭もった。未舗装の細い山道を行き来しながら、時に攻勢を仕掛けた。

    こうした山岳地帯を中心に、反タリバン勢力の抵抗や戦闘が続くことになる可能性が高い。そこに関係各国・組織の支援も、陰に陽に加わることになるだろう。

    つまり、アフガニスタンでの内戦は、かつてタリバンが立てこもった東部パキスタン国境の山岳地帯から戦闘の場所を変え、これからも続くことになりそうだ。

    続きます