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まちがいだらけの薬物依存症 乱用防止教育が生み出す偏見

なぜ「ダメ。ゼッタイ。」ではダメなのか? 薬物依存者に過剰に厳しい日本の課題について考える2回連載、前編です。

今年の8月21日、第100回記念の甲子園決勝戦で、VIP席に元プロ野球選手の清原和博さんが顔を見せたことが、メディアでちょっとした話題になりました。

私もインターネットでその記事に掲載された、試合を観戦する彼の写真を見て、「ああ、いい笑顔だ」と感じたのを記憶しています。一般の人たちの反応もおおむね好意的で、彼の復活を応援する声が多数寄せられていました。

しかし残念ながら、辛辣な意見もありました。「Tシャツ姿なんてだらしない服装で登場するなんて、とても反省している風には見えない」とか、「犯罪者のくせに未成年者の前に現われるな」などといった批判です。

率直にいって、これらの批判は議論するまでもなく、理不尽なものです。夏の炎天下での野球観戦にダークスーツ姿で行くのは場違いなだけでなく、健康上にも好ましくありません。

また、執行猶予中の者が未成年者の前に現われてはいけない、などという規則や法律は聞いたことがありません。

そもそも、組織的な密売ならばさておき、法律で規制されている薬物の自己使用や、自分が使うぶんの少量の薬物所持がそれほど凶悪な犯罪なのでしょうか。

決して違法薬物の使用を肯定するつもりはありませんが、他者の権利や財産の深刻な侵害という点では、少なくとも飲酒運転によるひき逃げ事故や、自身の権威や立場を利用したパワハラよりもまだ罪が軽いように思います。

それにもかかわらず、なぜわが国の人々は、違法薬物に手を出した人にここまで反省や自粛を求めるのでしょうか?

わが国における誤解と偏見

今年の初夏、私は、近畿地方のあるダルク(薬物依存症からの回復のための民間リハビリ施設)が開催するフォーラムに講師として招かれました。

少し前から私は、そのダルクが施設移転をめぐって地域住民とトラブルになっているという噂を耳にしていたこともあり、「講演を通じて住民の薬物依存症者に対する偏見を緩和し、トラブルの解消に一役買わねば」などと勝手に気負っていました。

しかし残念ながら、事態はそれほどたやすいものではありませんでした。というのも、フォーラムに集まってくれた人たちは、日頃からそのダルクの活動を応援してくれている人ばかりで、施設反対派の住民は誰一人いなかったからです。

これでは何を話したって伝わりっこない――壇上から見知った顔の多い客席を眺めながら、私はひそかに落胆していました。

ともあれ、フォーラム終了後、ダルク職員の好意に甘えて、車で新幹線に乗り込む駅まで送ってもらうことにしました。その道すがら、偶然にも、あの設置反対運動の舞台となっている地域を通りがかったわけです。

その一帯の異様な光景を、私は生涯忘れないでしょう。ダルクの施設がある通り沿いの家という家に、「覚せい剤 薬物依存症 リハビリ施設(ダルク) 建設断固反対」という貼り紙がされていたからです。

なかには、呪いの護符のように壁一面に何枚も貼り紙をしている家もありました。そのありさま、瀟洒な京町家の景観を深刻に損ない、家々の印象を妖気漂う幽霊屋敷のように見せていました。

私は言葉を失い、そして同時に、この街並みを通り抜けてダルクに日参する利用者の心情を想像して、胸がひどく痛みました。もしも自分の身内や知人のなかには薬物依存症者がいて、その苦悩をリアルに知っている人ならば、こんなことは到底できないはずです。

「ああ、この街の人々にとって薬物問題は他人事、別世界のことなのだ」と直感しました。

実は、こういった住民反対運動は、何もその街に限った話ではありません。同様のトラブルは、新たにダルクの施設ができるたびに国内各地でくりかえし起こってきたことです。

「私たちの街には、薬物依存症のリハビリ施設を必要とする人など一人もいない。むしろそんな施設があると、よそから危険な人たちが集まってきて、生活の安全を脅かされる。だから、やめてくれ」

おそらく反対する人の主張はそういったものなのでしょう。

「私たちは関係ない」――これが平均的な日本人の感覚なのです。

「生」の薬物依存症者と会ったことがない人々

日本人の多くにとって薬物問題が他人事なのは、それくらい自分たちの身近なところに薬物問題がないからです。

たとえば米国民のおよそ半分の人たちは、生涯のうちに少なくとも1回は法律で規制されている薬物を使用するそうですが、一方の日本の場合、生涯のうちに1回でも違法薬物 を使ったことがある人は全国民の2%程度であることがわかっています。

このデータは、しばしばわが国の乱用防止策が一定の効果を上げていることの根拠として引用されてきました。

確かに、少なくともわが国の捜査機関の薬物犯罪の捜査・取り締まり能力は世界的に見てもトップクラスであることはまちがいなく、結果的に、わが国は欧米のどの国と比べても薬物に関してクリーンな国です。

しかし皮肉なことに、そのような状況こそが薬物依存症に対する偏見や誤解を生み出す一因となっているように思うのです。違法薬物の使用経験者がきわめて少ないということは、「生」の薬物依存症者と出会う機会も同様にきわめて少ないことを意味します。

したがって、おそらく平均的な日本人の大半は、リアルな薬物依存症者と会って言葉を交わす機会を一度も持たないまま、生涯を終えるのでしょう。それだけに、あらぬ噂や流言飛語は修正されないまま、心に棲みついてしまう危険があるわけです。

それでは、こうした、「生」の薬物依存症者を知らない日本人の多くは、一体どこで薬物依存症に対して、あの、敵意に満ちたイメージを醸成させているのでしょうか?

芸能人や著名人が薬物事件を起こした際のメディア報道のあり方や、ワイドショーのコメンテーターの発言は、確かにその一端を担っているとは思います。

しかし、もっと広範かつ組織的に薬物依存症者に対する印象操作を行っている場所はないでしょうか? 実は、かねてより私が「あれこそが真犯人ではないか」と疑っているものがあります。それが、本稿の副題に提示した中学校・高校で行われている薬物乱用防止教育なのです。

薬物乱用防止教育という「洗脳」

いまから20年近く昔の話です。私はある中学校から生徒対象の薬物乱用防止講演を依頼されました。

まだ駆け出しだった私は、自分ではリアリティのある話ができないと思い悩んだすえ、もともとはみずからが薬物依存症者で、現在は回復してダルクの職員をやっている人にお願いし、自分と一緒に登壇してもらいました。生々しい体験談を話してもらうおうと思いついたのです。

しかし、その計画を学校側に伝え、了解を求めたところ、学校側からは、「やめてほしい」と断られてしまったのです。その際、ダメな理由を聞いて驚き、かつ呆れました。

「薬物依存症の回復者がいることを知ると、子どもたちが『薬物にハマッても回復できる』と油断して、薬物に手を出す子どもが出てくるから」

つまり、学校としては子どもたちに、「薬物依存症からの回復は困難であり、1回でも薬物に手を出したら人生は終わり」というメッセージを出したいと考えたようでした。

正直、これには納得がいきませんでした。というのも、薬物乱用のリスクの高い子どものなかには、親がアルコールや薬物、あるいはギャンブルの問題を抱え、「親があんななのは自分が悪い子だからだ」と自責し、「自分なんかいない方がいいのだ」と自尊心を傷つけている子どもが少なくないからです。

だからこそ、そうした子どもたちに必要なのは、「親があんな風なのはあなたのせいじゃない。あれは依存症という病気であって、解決策はちゃんとある」という情報だと思うのです。しかし、私の抗弁もむなしく、最終的に私は一人で壇上に立たざるを得ませんでした。

実は、この話には後日談があります。その後、私は、学校から登壇の許可が出なかったことを、あらかじめお願いしておいたダルクの職員に詫びの連絡を入れました。すると彼は、電話の向こうで笑いながら次のようなことを教えてくれました。

「まあ、そういうのはときどきありますよ。運よく登壇が許可されても、学校側から『かっこいい服装でこないでほしい。できればジャージとか、ヨレた感じの服装でお願いします』なんて変な注文をつけられたこともありましたよ」

要するに、学校は、あくまでも「こんな風になってはいけない」という人物の見本、廃人やゾンビのような薬物依存症者、つまりは「見世物」として、薬物依存症からの回復者を登壇させていた時期が確実にあったわけです。

さらにいえば、こうした虚構と演出だらけの薬物乱用防止教室を、「生」の薬物依存症者と一度も会ったことのない教師がやっているわけです。ろくな内容になるわけがありません。

薬物乱用防止教育の弊害

疑念が確信に変わったのは、数年前、私は、文部科学省から依頼され、全国高校生薬物乱用防止ポスターコンクールの審査員を引き受けたときのことでした。私は絵心などまったくない人間ですが、薬物依存症の専門家ということで審査員として声がかかったようでした。

これがまた実に退屈な仕事でした。というのも、国内の各地域で行われた予選を勝ち抜いた高校生たちの作品が、あまりにも画一的かつ没個性的で、いずれのポスターも似たような絵柄ばかりだったからです。

ポスターはおおむね二つのパターンに大別できました。

一つは、目が落ちくぼみ、頬がこけた、ゾンビのような姿の薬物乱用者が描かれ、しかも両手に注射器を握りしめ、いままさに背後から子どもたちに襲いかかろうしている、というパターンでした。

そしてもう一つのパターンは、アニメの『アンパンマン』に出てくる悪役キャラクター「バイキンマン」のような姿をした薬物乱用者の集団を、子どもたちが撃退しているシーンを描き、「シンナー団をやっつけろ!」というキャッチコピーが付せられたものでした。

いずれのパターンであるにせよ、学校でどのような薬物乱用防止教育がなされているのかは、容易に想像できました。おそらく誇張と嘘に満ちた洗脳が行われているのはまちがいないと思いました。

薬物依存症を専門とする医師として、はっきりと断言しておきます。

そんなゾンビのような外見の薬物乱用者はめったにいません。

まもなく死ぬほど衰弱した薬物乱用者ならともかく、子どもたちに薬物を勧めるくらい元気のある乱用者は、それこそ『EXILE TRIBE』のメンバーのなかに混じっていても不思議ではないような、格好いいルックスのイケてる先輩、健康的な体躯をした、「自分もあんな風になりたい」と憧れの対象であることの方が多いのです。少なくともゾンビや廃人にはほど遠い人たちです。

だからこそ、子どもたちは油断してしまうのです。おまけに、彼らはとても優しく、これまで出会ったどんな大人よりも自分の話に耳を傾け、自分の存在価値を認めてくれて、「仲間になろうよ」と手を差し伸べてくれる人です。子どもたちが、薬物を勧められても、「ノー」といわないのは、当然ではないでしょうか?

子どもたちを守れないだけではありません。そうした予防教育が、薬物依存症を抱える人たちに対する偏見や差別意識、あるいは優生思想的な考えを醸成する下地を作っていないでしょうか? 

そして、「シンナー団をやっつけろ!」というポスターに典型されるように、薬物乱用者を攻撃や排除の対象としてもかまわない、という態度を作り出している可能性はないでしょうか?

さらに、そうしたことによって、薬物依存症者の回復を妨げ、障害を抱えた人との共生社会の実現を阻んでしまう、という可能性は?

事実、すでに述べた近畿地方でのダルク反対運動に限らず、新たに地域に薬物依存者回復施設が設立されると、必ずといってよいほど、地元住民の設立反対運動が沸き起こってきました。

私には、そうした住民たちの行動は、約30年前、民放連による啓発キャンペーンの、「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」というキャッチコピーや、その延長線上にある様々な薬物乱用防止教育の影響と切り離すことができないように思えてならないのです。

【後編】薬物依存に陥らせるのは、薬の作用というより「孤立」


【松本俊彦(まつもと・としひこ)】

国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部長、薬物依存症センター センター長

1993年、佐賀医科大学卒業。2004年に国立精神・神経センター(現国立精神・神経医療研究センター)精神保健研究所司法精神医学研究部室長に就任。以後、自殺予防総合対策センター副センター長などを経て、2015年より現職。日本アルコール・アディクション医学会理事、日本精神救急学会理事。

『薬物依存とアディクション精神医学』(金剛出版)、『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)『アルコールとうつ・自殺』(岩波書店)、『自分を傷つけずにはいられない』(講談社)、『よくわかるSMARPP——あなたにもできる薬物依存者支援』(金剛出版)など著書多数。

9月6日に『薬物依存症』(ちくま新書)を出版した。

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