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死は受け入れられるのか否か

「悔いのない生」のために

もし、あなたの大切な人が大きな病気にかかり意識不明の重体となったとしたら…。あなたはその人の価値観を代弁して、大切な人の生き方・死に方を決めることができますか?

大切な人の価値観を代弁できるよう、事前に話し合いを行うことが求められている

厚生労働省は3月14日、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」を公表しました。

このガイドラインでは、もし仮に何らかの重病にかかり、意識が失われ、自分自身の意思を伝えられない状態となったとしても、本人の価値観に沿って生き方を選択できるようにしていくことの必要性が考慮されています。

そのために、まだそういった状況に陥る前から、本人、医療者、そして仮に本人の意識がない時でもその意思を推定して代理決定できる人(家族ら)が一緒に、人生の最終段階における医療やケアの方針について繰り返し話し合うこと(アドバンス・ケア・プランニング:ACP)の重要性が強調されています。

ACPを日本国内でも進めていくこと自体には大きな意義があります。

これまでは、がんの終末期や認知症などで本人の意思が確認できないときに、家族が「胃ろうをつくるのかどうか」「最期を過ごすのは在宅か介護施設か」「延命治療をするかどうか」などの決定を医師から迫られるという場面が多々ありました。

どう決定するにしても、家族が抱える葛藤は軽くはありませんでした。それは、本当は本人がどのように生きたかったのか、誰にもわからなかったからです。

それに対して、ACPを早期から行い、本人の望む生き方や価値観について話をしておくことは、家族がうつ状態に陥るのを防いだり、本人が亡くなった後の病的な悲嘆(複雑性悲嘆)を軽減したりすることや、患者本人のQOLを向上させるということがわかっています。

では、ここで皆さんに考えてほしいのですが、このようにACPをきちんと行って、終末期に備えることは、自分自身や家族の死を受け入れ、安らかな死を迎えることに役立つのでしょうか?

最後まで治療を求め続けたAさん夫妻の物語

私が診ていたAさんは、最期まで死に抗って生きた方でした。

まだ50代でしたが、Aさんが初めて私の前にみえたときにはがんが既に全身に広がっていました。

私は、腫瘍内科医(抗がん剤の専門家)ですが、ただやみくもに抗がん剤を投与することはありません。

「あなたはこれからの人生をどのように生きていきたいですか?」「何が心の支えになっていますか」「あなたの人生を全うするために、抗がん剤の助けが必要ですか?」といったことを確認したうえで、治療を開始します。

Aさんは「つらい治療はできるかぎりしたくない」「子どももいないので、妻と過ごす時間を少しでも長くできればいい」と望まれて、副作用ができる限り小さくなるようにという条件で抗がん剤治療に臨みました。

1年程度抗がん剤治療を続けたところで、治療の効果は乏しくなりましたが、当初の話し合いの通り「副作用の強い治療はしない」「あとは穏やかに生きていきたい」との意志を再度確認して、それ以降は緩和ケアに専念して診ていきましょうという方針になりました。

しかし、その後しばらくして妻から「セカンドオピニオンに行きたいので紹介状を書いてほしい」という話がありました。よくよく話を伺っていると、免疫細胞療法や高濃度ビタミンCなどといった明らかに非標準的な治療を行うクリニックへの紹介希望です。そこで夫に治療を受けさせたいというのです。

私はAさんに、

「どうしてそこに行きたいと思っているのですか? そこに行くことは、時間も、お金も、体力も奪われます。Aさんにとって、そこへ通院すること自体が苦痛になると思います。そしてそれに見合うだけの効果がある治療法とは思えません。私は最初にAさんの価値観をお聞きして、その後も色々とお話をしてきましたが、それに合っているように思えないのです」

と尋ねましたが、Aさんは、

「妻の望むとおりにしたいと思っています。その治療を受けて頑張ります」

と答えられました。

本人と妻が望んでいる以上、私がそれを頑なに拒否することも難しく、結果的に非標準治療クリニックへの紹介状をお渡しし、「ただし当院との縁は切らないでくださいね」と約束してもらいました。

その後、そのクリニックでの治療が始まりましたが、Aさんはみるみるうちに衰弱しました。当院への通院も難しくなったため、訪問診療に切り替えました。しかし、そのクリニックからもらってきた薬は飲み続け、その他にも妻が用意した山のような健康食品を摂取していました。もう既に、妻の手料理すらも食べられない体調であったのにです。

私はまた尋ねました。

「Aさんが、そこまで治療にこだわる理由は何でしょうか。治療を続けること自体がつらくなっていませんか」

するとAさんは答えます。

「私にもよくわかりません。ただ、妻がそうして欲しいと望んでいます。そのように生きたいんです」「もうこんなに大量の薬を飲むこともできない。苦痛です。でも、治療を続けたいんです」

妻は妻で、「夫に少しでも長く生きてほしい。そのためならどんな治療でもさせてあげたい」と答えます。

私はわけがわからなくなりました。あれほど「つらい治療はしたくない」「穏やかに生きたい」と望まれたAさんが、死の直前になって、完全に真逆のような行為をしているのですから。あるスタッフは言いました。

「死が迫ってきているのに、夫婦ともに死の受け入れができていません。先生からきちんと病状を説明したほうがいいのではないでしょうか」と。

私には、それが良いのかどうかもわかりませんでした。

そしてその後も、Aさんは最期まで治療を求め続け、自宅で亡くなりました。私はAさんのご自宅に伺い、死亡確認をしました。

妻は「ありがとうございました。お世話になりました」と述べただけで、表情は乏しく、何を考えていたのかは最後まで分からずじまいでした。

人間は死を受け入れることは可能なのか

Aさん夫妻の物語から、皆さんは何を感じたでしょうか。

とても一般的に言う「穏やかな死」とは言い難い、バタバタした最期です。治療の最初から、その生き方・終末期の過ごし方について話し合いをしていたにも関わらず、その死を受け入れて最期を迎えたようには見えません。

ただ、ここでの疑問は、「そもそも人間は死を受け入れることは可能なのか否か」という点です。

皆さんはどう思われますか?

自分が、数か月以内に死に至る病にかかったとして、それを受け入れて死に対峙することができそうでしょうか?

「死について事前に話し合っておけば、死を受け入れられるようになる、と考えるのは危険だ」という意見があります。

しかし、医療者は日常的に「あの患者は(死に向かっていく)病状の受け入れができています」とか「病状を受け入れていませんので、医師からきちんと説明してください」などという発言を繰り返します。

ここで考えないとならないのは、「受け入れる」というのはどういう状態を指すのかという点です。

「私は最後まで治療に前向きに生きていきたい」と言えば「受け入れていない」ことになるのか。

「もう諦めました」とつぶやき、うなだれている患者は「受け入れている」ことになるのか。

私は、人間の死に対する心理というのが「受け入れているか、受け入れていないか」などときっぱり分かれることはないと考えています。

ある時は医師の前で「もう思い残すことはありません」と笑っていても、受け持ちの看護師の前では「死ぬのが怖い」と涙を流しているなんてこともあります。

緩和ケアの医師の前では「ホスピスに入れてもらえてありがとうございます。あとはお迎えが来るのを待つだけです」と言っていたのに、腫瘍内科医が回診に行くと「先生、がんに効く画期的な新薬の情報はありませんか?」などと発言したりします。

これは、どちらかが建前でどちらかが本音、ということではなく、どちらも本人の「本音」です。

死を考えることは怖い、でもいずれ来る未来に向けて今は精一杯生きていきたい。ただ、ふとした瞬間に「もう終わりにしたい」とも思う…など、患者自身の思いは多彩で移ろうものです。

その一面だけを切り取って、「受け入れているか、受け入れていないか」を他者が評価するのは浅ましいと感じますし、患者本人も死に対峙しようなどと気負う必要はないと思っています。

「死の受容」のためではなく「悔いのない生」のために

Aさんの生き方も、これはこれでAさんなりの死と対峙する方法だったのかもしれません。これで本人と家族が納得できていたのなら、それで良かったのかもしれません。

むしろ、最初に聞いた本人の価値観にしばられ、移りゆくAさん夫妻の心情についていけなかった私の未熟さが、医療者との無用な対立を生じさせてしまった部分もあったかと反省しています。

ACPは1度の話し合いではなく、何度も繰り返し行うプロセスのことである、ということを、この物語は教えてくれます。

ACPは「患者本人に理想的な死を受け入れさせるために何度も説明すること」ではありません。本人がどのような生き方を望み、残された時間がある程度限られているという認識の下で、これから具体的に何をしていくか、を一緒に考えることです。

「こんなはずじゃなかった」「もっとこれをしておきたかった」という後悔をできるだけ残さないようにすることです。

そのためには、Aさんの例のように、医療者・患者・家族がざっくばらんに自身の思いを語り合うことが大切で、そうすればそれぞれの間に信念対立や葛藤が生じるのも当然です。しかしそれがこれまでの「医療者が主導する終末期」からの大きな転換点なわけです。

まだ十分時間が残っているうちから、病状や今後について厳しい話をしていくのは、「死の受容」のためではなく「自らの生を悔いなく全うする」ためであるということを、医療者も患者・家族も知っておく必要があると思います。

【西智弘(にし・ともひろ)】 川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科医

2005年北海道大学卒。家庭医療を中心に初期研修後、緩和ケア・腫瘍内科の専門研修を受ける。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。一方で「暮らしの保健室」を運営する会社を起業し、院外に活動の場を広げている。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。著書に『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)がある。