「岸田総理は決断を」「もう待てない」。
太平洋戦争の末期に日本各地を襲った空襲。空襲で被害を受けた市民に補償をする「空襲被害者救済法」の成立などを求め、空襲を生き延びた人々が、国会前での呼びかけを続けている。
その回数は、2月16日で100回目となった。
戦後78年が過ぎた。しかし、空襲に遭い、体の障害などの被害受けた市民への補償は、いまだに行われていない。
「こんにちは。空襲被害者の救済を訴えております」
「こんにちは。空襲被害は過去の問題ではなく、これからも起こるかもしれません。一緒に考えてください」
空襲で家族を失った当事者らが、国会周辺の道路で道行く人々に呼びかけた。
今も続く空襲被害をめぐる問題について知ってもらうため、2019年4月から、国会開会中の毎週木曜日に続けてきた。「こんにちは運動」と呼んでいる。
超党派の「空襲被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟(空襲議連)」は、空襲で負傷し障害が残った生存者らに特別給付金一律50万円の支給をすることなどを盛り込んだ救済法案の成立を目指している。
しかし空襲議連は、議論が盛り上がった2021年6月にも法案提出を見送った。
法案要綱には全野党が賛成し、鍵を握るのは自民党の判断となっていたが、自民党内での反発もあって、話し合いは進まなかった。
母と弟を奪った空襲。「耐え難きを耐えてきた。もう待てません」
1945年5月の東京山の手空襲で母と弟を失った鈴木正信さんは、「空襲で骨無く母は浄土へと」「凍りつく救済法の春を待つ」と書いたプラカードを掲げた。
国と雇用関係にあった軍人や軍属には戦後、障害年金などの援護策があった。
しかし、戦争に巻き込まれたかたちで被害をうけた市民への補償は行われなかった。
鈴木さんは「人の命は公平に扱ってほしい」と語る。
「これまでも14回に渡って議員立法の動きがありましたが、いずれも実現されなかった」
「耐え難きを耐えてきましたから。もう待てません。長すぎる」
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す」。1945年8月15日、空襲後の焼け野原に流れた、日本の無条件降伏を告げる玉音放送の言葉だ。
1973年から1989年まで、議員立法の「戦時災害援護法」案が14回にわたって国会に上程されたが、いずれも廃案となってきた。
存命の空襲経験者の多くは、幼い頃に国家が始めた戦争に巻き込まれ、家族や家を失ったり、体に障害が残ったりした。しかし、障害が残った人への補償はなく、被害者は自費で治療費や手術代を払い続けている。
「次の世代に『受忍論』を引き継がせてはならない」
国会前での活動を発案したのは、河合節子さんだ。
東京大空襲で母と弟2人を亡くした。
戦中、空襲警報のサイレンが鳴ると小さな弟に靴を履かせて防空壕に逃げ込んでいたという河合さんは、国会前でも防空頭巾を被りながら呼びかけを行っている。
4年弱続く呼びかけ活動に「まさか100回やるとは思ってもいなかった」と話す。
河合さんが抱いているのは「絶対に、次の世代に『受忍論』を引き継がせてはならない」という強い思いだ。
「受忍論」とは、最高裁判所が1968年の判決で打ち出した、「国あげての戦争により『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならないもの」という論理。一般的に「戦争被害受忍論」と呼ばれるものだ。
これが、戦争に巻き込まれてけがをしたり財産を失ったりした人に対し、国が何も手を打たないことを正当化する法的根拠となった。
これにそのまま従えば、河合さんは空襲で家族3人を失い、父は負傷し大やけどを負ったが、その苦しみも全て「みんなと一緒に我慢せよ」ということになる。
「今後そういうことがあってはならないけど、もし戦争が起こったら……」
河合さんが視野に入れているのは、未だ解決しない太平洋戦争の戦後補償だけではない。急速に国際情勢が変化する中、もしかしたら起きるかもしれない、「未来の戦後補償」のことも考えている。
「決して将来、そんなことがあってはならない」
78年前の被害者がこのまま救済されなければ、もしこれから戦争が起きて、国家間の行動で被害を受ける市民が出ても、何の支援ないままになってしまう可能性がある。
だからこそ、救済法の実現は必要だ。そう考えている。
国会前での呼びかけは「法案が成立するまで」続ける予定だ。
「東京大空襲の被害については、きちんとした調査も、追悼もされていません。被害の調査と追悼、そして78年間もほったらかしにしてきたことへの謝罪が必要だと思います」
戦後78年。
救済を求め活動をする人たちも高齢化し、活動への参加を休止したり、他界したりしたメンバーも相次いでいる。
実際のところ、いま活動に参加している人たちのほとんどは、救済法の補償の対象となる人々ではない。
空襲で負傷し、障害を負った人々は、年齢の問題もあって外に出て活動することが容易ではないからだ。
空襲被害者の救済を訴えるパンフレットを道ゆく人たちに手渡す、「こんにちは活動」。
通りがかる人の多くは目線をそらして足速に通り過ぎる。パンフレットを受け取ってくれる人は少ない。
それでも活動は続く。
「少しでも、一人でも多くの人に知ってほしい」という思いがあるからだ。