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「助けてほしかった」主人公に託した思い。今でも残る心の傷。ある映画監督が一当事者として語った思い

映画『世界は僕らに気づかない』監督・飯塚花笑さんへのインタビュー後編。セクシュアルマイノリティの登場人物やパートナーシップ制度が自然と作中に出てくる本作に、監督が込めた思いとは。

トランスジェンダー男性であることを公表して活動する映画監督、飯塚花笑さんの最新作『世界は僕らに気づかない』がまもなく公開される。

これまでの作品で飯塚さんは、自身の経験を元にするなどして、トランスジェンダーの主人公たちの苦悩を描いてきた。

1月13日に公開の『世界は僕らに気づかない』では、セクシュアルマイノリティの登場人物や、日本各地で広がるパートナーシップ制度が、作中で「自然に」出てくる。

飯塚さんがこの映画に込めた思い、そして日本映画に足りない視点とは。飯塚さんに話を聞いた。

【あらすじ】フィリピンパブで働く母親・レイナと群馬県太田市で暮らす高校生の純悟は、日本人の父親について何も聞かされていない。高校生という自分自身や将来について悩む時期に、父親について知ろうと様々な人に会いにいく。

交際中である高校の同級生・優助との関係にも悩み……。「自分」について模索する中で、優助との関係性や将来についても少しずつ前向きに捉えられるようになる。純悟役を堀家一希、レイナ役をフィリピン人の母親を持つガウが演じる。

「自分のような人物」がスクリーンに登場する大切さ

ーー本作品では、主人公の純悟が海外のルーツを持ち、ゲイでもあるという「ダブルマイノリティ」という設定でした。そこには、どういった意図があるのでしょうか?

今まで日本の作品の中で触れられてきた人物の表象って、マイノリティのことを考えるとすごく乏しかったと思うんです。

単純にセクシュアルマイノリティであるという人物は、今までの作品の中でもかなり描かれてきたと思うんですが、ダブルマイノリティは日本の作品では描かれることが多くありませんでした。

一方で、ダブルマイノリティという存在は、日本国外では「当たり前」であることが多いです。例えば、セクシュアルマイノリティで、人種的マイノリティやミックスルーツである方はたくさんいらっしゃいます。

日本だと、ダブルマイノリティの主人公は「複雑な設定ですね」という風に言われたりするんですけど、全然複雑じゃないんですよね。

僕も映画界に身を置いていて、この10年でセクシュアルマイノリティをめぐる作品の状況は、一気に進んだと感じる部分はあります。

例えば、業界に入りたての頃は、セクシュアルマイノリティの作品を作りたいと言っても、 そういう作品は「B級」だとか「サブカル」の扱いをされて、「お客入らないよ。役者もやりたがらないし」って、当たり前のようにはっきりと言われました。

それがいつの間にか逆転して、いろんな俳優がセクシュアルマイノリティの役を演じて、それで評価されるということが起こっています。

それ自体は良い面も悪い面もあると思うんですけど、そんな状況になっていく中で、では次に何を描くべきかと考えた時に、ダブルマイノリティの存在を描いていくべきだと考えました。

やはり表現というものも、常に進化しなければいけないと思っています。「自分のような人物」がスクリーンの中に登場しないことって、すごく悲しいと思うんです。

例えば、わかりやすく言うと、日本の青春映画では、いわゆる男女のキラキラした恋愛ものが多かったですけど、それがじゃあ男の子同士でもいいじゃん、女の子同士でもいいじゃん、その中で三角関係があって、いろんな性別が入り乱れてもいいじゃない、って思います。

やはり、自分と同じようなアイデンティティを持った登場人物がスクリーンの上に登場しないっていうのは、ものすごく寂しいんですよね。それは、一当事者としてもすごく感じていたことでした。

個人的にも「自分のような人物」が当たり前にスクリーンの中に登場してくる映画を見たいっていう思いがあったので、キャラクターも、どんどんどんどんアップデートしていくべきだと考えるようになりました。

純悟に託した、監督自身の母への思い

ーー監督ご自身の経験が作中に反映されている箇所はありますか?

そうですね。レイナと純悟の親子関係は、すごく自分自身を投影した部分もありました。

僕もトランスジェンダーとして生きている中で、純悟と同じように思春期に、母親にもっと僕のことを見てサポートしてもらいたかったと感じていました。

その気持ちを純悟に託した部分はあります。

僕の家族も、最初からトランスジェンダーであることを受け入れてくれていたわけではなくて、最初やっぱり両親も戸惑って、否定的なことを言った時期もありました。

その時期にできた家族のわだかまりは、今でもお互い心の傷になっています。

今思えば、母は母で理解するのが大変だったと思うので「母親なんだからもっと助けてほしかった」というような気持ちは僕の一方的な想いだと思うんですけど、当時の等身大の気持ちを純悟に託しました。

セクシュアルマイノリティが明るい未来を描ける。そんな映画が存在する意義

ーー映画としては親子のストーリーの中で、純悟にゲイのパートナーがいたり、パートナーシップ制度の話が作中に自然な流れとして出たりしていると思います。そのような話をナチュラルに折り込むように脚本を書かれたのでしょうか。

そうですね。あえてやりました。僕よりさらにもっと若い世代の子たちと話していると、周りにセクシュアルマイノリティの友人がいるというのが当たり前の感覚の子たちってたくさんいるんですよね。

もちろん中には自身のセクシュアリティやジェンダーで悩んでる子とかもいると思います。でも、 やっぱり僕たちが思春期を過ごした頃とは、状況は少し違ってきています。

その中で今、日本でのセクシュアルマイノリティを題材にした作品って、当事者が悩んでいたり、自殺したりと、苦しい思いをしてるキャラクターが多いんです。

それを若い世代の当事者の子たちが見た時に、「もしかしたら自分もこうなるのかもしれない」とか、「社会って自分たちをこう見てるんだ」って、違うすり込みが発生してきてしまうと思っていて。

もっと当たり前にセクシュアルマイノリティが登場して、その上で明るい未来をちゃんと思い描けるということはすごく大事だなと思っています。

だからこそ、作中でも、セクシュアルマイノリティのカップルが幸せになっていく姿を見せる、お客さんの前に提示するということが、すごく大切なポイントかなと思って描きました。

純悟の恋人、優助の家族を演じた役者さんたちには、実際に撮影前、作中にはない優助の「カミングアウト」のシーンも、役作りや関係作りの一環として即興でやってもらいました。

彼らとはクラインクイン前に何度もレッスンをしていたのですが、僕が皆さんに課題を出して、レッスンの日に即興で演技をしながら、家族としてデパートにでかけてもらってより関係を深めてもらいました。

デパートや移動する電車内でも「お母さん」「お父さん」と、役名で呼び合ってもらいました。最初は違和感がありながら呼び合ってたのが、どんどん当たり前になっていって、いつの間にか本当に絆がすごく深まっていくんです。

でも、この即興のその時点では、家族はまだ優助がゲイだということを知らないという設定で、優助役の篠原雅史くんにカミングアウトをするという課題を出しました。

そうしたら、本人は本当にすごく緊張して、どうやって打ち明けようかと本当に不安そうでした。本人はゲイではないんですけど、当事者の経験するような気持ちを体験して、デパートから稽古場に戻るギリギリまでなかなか言い出せませんでした。

稽古場に着く前、最後の最後にお父さんだけ呼び出して、緊張しながらもぽろっと打ち明けていました。

すると、お父さん役の宮前隆行さんも、既に映画の台本を読んでいるから優助がゲイであることは知っているはずなのに、すごく混乱していて。どう言葉をかけたらいいのか、どうやってこの秘密をこれから家族に共有するかと本当に一緒に悩んでいました。

宮前さんも、セクシュアルマイノリティの当事者にはあまり会ったことがないという方だったので、カミングアウトの時、本当に戸惑っていらっしゃいました。

その戸惑いが、スクリーンにもそのまま残ったのかなと思います。

ーー脚本を書く上で1年間かけて行われた取材では、フィリピンの方のセクシュアルマイノリティの捉え方についても聞いたとおっしゃっていました。取材した方にはどのような経験がありましたか。

僕が会って話を聞いた、フィリピンと日本のダブルの方々や、フィリピンパブに勤めてる方々は若い年齢の方が多かったので、若い世代の間ではすごく理解が進んでるのかなと感じました。

「差別的なことを言うのは古い世代の人たちだ」というようにも言っていました。

一方で、今回11月にフィリピンの映画祭「Qシネマ」での映画上映で現地に足を運んで話を聞くと、やはり今も差別があって、トランスジェンダーの方が殺害される事件があったことも聞きました。

一概に、LGBTQに「オープンな国」というような状況ではないことも事実です。

映画祭で会った映画作家たちはオープンリーゲイの人たちが多くて、彼らにもフィリピンでのセクシュアルマイノリティを取り巻く状況について聞きました。

すると、「若い世代の中では理解は進んでるけど、まだまだ日常生活の中で嫌な思いをしたりとかっていう経験は普通にあるよ」と言っていて、そこはあまり日本と変わらなし、現実はそのような状況なのかなと感じました。

ーー作中では純悟や優助に対しての、ゲイであるということをめぐる差別やマイクロアグレッションが描かれていました。これは、実際に当事者の方が直面されている問題が描かれているのでしょうか。

そうですね。純悟の学校の生徒たちは、なんとなく彼らがゲイであることを受け入れてはいて、否定はしないんです。

でも、当たり前にやっぱり「男性だから女性と寝ることを望んでる」というような考え方が潜在的にあって、それを押し付けてしまうというシーンは描きました。

僕自身も周りにゲイの友達も多いんですが、その友人たちの経験でも、普段はなんとなくゲイだと受け入れてもらえてはいても、やっぱり何かあると、異性愛の規範を押し付けられるという話はよく聞きます。

また僕自身は、女性から男性にトランスしているんですけど、「男性は“男性らしく”いなさい」という社会のジェンダーをめぐる押し付けの強さは日々感じています。

「同性婚」ができない日本。スクリーン上で見せたかった姿

ーー作中では、日本で今、各地で広がっていっているパートナーシップ制度、そして一方で、まだ法律上は同性同士のカップルは家族にはなれないという状況が描かれていましたね。

はい。やはり結婚する・しないの自由っていうのは、誰しもに与えられるべき当然の権利だという風に僕自身は考えています。

しかし法的な整備が進まない今、映画になにができるんだろうと考えたら、同性同士で結婚しようとしていて、幸せになろうとしている人たちがいるんだよっていうことを、映画で伝えることかなと思ったんです。

一生を共にしたいという2人が幸せに並んでいる姿をスクリーンで見て、「あ、なんだ。何も特別なことじゃないね」って思ってもらえたらと思います。

今までは目の前にいなかったから想像できなかった人たちや、嫌悪感を抱いていた人たちが、2人が幸せそうに並んでいる姿を見た時に、 何か意識が変わることってあるのかもしれないと思って。

セクシュアルマイノリティに理解がない方には「僕の周りにはそういう人たちいないよ」と言う人がすごく多いです。

スクリーンで幸せな2人の姿を見ることで、そこで一つイメージが膨らんで、何かが変わっていけばと思っています。

同性同士の結婚はまだ実現できてはいない制度ではあるんですけど、将来を共に過ごしたいという2人の姿を映画で見るということは、とても重要なことなのかなと思っています。

『世界は僕らに気づかない』予告編

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