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「平和ってまぶしいんだ」あの日、13歳の少年が思ったこと。

終戦記念日の8月15日、戦争と平和について書き続けてきた児童文学作家、早乙女勝元さんが、終戦や戦争体験、平和への思いを語りました。

「終戦を迎えた8月15日の夜、初めて電球に覆いをつけずに過ごすことができた。その時、平和って明るいんだ。眩しいんだ、と思ったんですね。今夜から防空壕に入る心配もなく、朝を迎えることができるんだと思うと、体中が震えるほど感動しました」

74年前の今日、13歳で終戦を迎えた男性はそう語る。戦争や平和をテーマにした児童文学を多く書いてきた、作家の早乙女勝元さん(87)だ。

戦争中は空襲の標的になるのを避けるために、常に電球には黒い覆いをつけていたが、終戦の夜はそれをする必要もなく「これが平和なんだ」と思ったという。

東京都の下町、当時の向島区寺島町(現・墨田区)で東京大空襲に遭い、生き延びた早乙女さんは、今でも戦争の記憶を語り継ぐ。

自身の空襲の経験もあり、2002年に東京大空襲・戦災資料センターを創設し、今でも名誉館長を務める。早乙女さんは戦争を語り継ぐことについてこう語る。

「戦争の体験者もどんどんとこの世を去って行き、将来的には体験者もいなくなる。どう語り継ぎ、この大きな山をどう乗り越えるのかが課題です」

早乙女さんは「知っているなら伝えよう。知らないなら学ぼう」と呼びかけ、若い世代に戦争を伝えるために児童文学や絵本を多く出してきた。

「負けても生き残れることを知らなかった」

早乙女さんが名誉館長を務める東京大空襲・戦災資料センターでは2008年から毎年、夏休みに戦争体験を小・中学生らに語り継ぐイベントを開催している。今年は早乙女さんが、自身の経験を子どもたちに語った。

早乙女さんは、自宅で聞いた玉音放送について「天皇の放送があるというのは、一億玉砕だろうと踏んでいた」という。

「学校では、戦争に勝つか一億玉砕だと教えられていたから、負けても生き残れるということを初めて知った。それは私にとって衝撃でした」

両親は隣組のために外出しており、空き巣に入らないようにと家に残って玉音放送を聞いたという。「生き残れるんだ」という嬉しさと共に、敗戦を迎え「生き残ったのはいいけれど、これから日本はどうなるのだろう?」と不安にも思ったという。

早乙女さんは、終戦の翌年の11月、新憲法が公布された時に「これが平和なんだ」と感じた。

4人兄弟だった早乙女さんにはお兄さんがいて、当時は国民学校高等科の教師だったという。海軍に出兵し、早乙女さんも日の丸の小旗を振って見送ったというが、無事帰ってきた。

しかし、戦時中は軍国主義の教師だった兄にとって、復員後にすぐ、戦中と違うことを教えることは難しかった。

「これからの日本のありよう」を子どもたちに教えるため、新聞に掲載された新憲法の条文を隅から隅まで目を通し、早乙女さんにも読んで聞かせたという。

「兄が読み聞かせてくれた憲法で、憲法で一番感激したのは第9条でした。日本は二度と戦争はしない。一時的に戦争を放棄したのではない。永久に戦争を放棄したんだ。9条には二項もあって、世界のどこかで戦争がおきても日本は手助けをしないし、できない。兄の言葉は本当に心にしみました」

東京で家族と一緒に空襲から逃げ回り、戦争を生き抜いた早乙女さんにとって、9条は特別な意味をもった。

早乙女さんはこう語った。

「なぜ大人たちはあの戦争に反対できなかったのだろうか。そのことに関心を持ち、本を読んだり学びました。眩しいと思った平和をどのようにして語り継げるか。平和に向かって役に立つ人間になりたいと思いました」

資料センターで語り継がれる戦争

早乙女さんが中心となって1970年代に「東京空襲を記録する会」がつくられ、2002年には東京大空襲・戦災資料センターが設立された。

センターの資料室には、空襲の資料を中心に、戦争中の写真や当時使用されていた日用品などが展示されている。

本所区(現在の墨田区)で撮影された、路上に山積みになった遺体の写真など、東京大空襲の惨状を伝える、さまざまな資料が並んでいる。

センター設立から館長を務めていた早乙女さんだが、6月に館長職を退き、歴史学者で一橋大学名誉教授の吉田裕さんに館長を託した。

「17年も館長を務めたので、若い世代に引き継ぎたいと思いました」

名誉館長となった今も、月に2、3回は空襲の体験や戦争、平和に関する講演を各地で行なっているという。

空襲で10万人が犠牲になったとされる3月10日に合わせて、今年は東京大空襲の証言を集めた本「あのとき子どもだったー東京大空襲21人の記録」が出版された。早乙女さんを始め、空襲を経験した21人の手記がまとめられている。

今年の終戦の日に行われた同センターでのイベントでは、この本に収められた戦争体験の朗読も行われた。

14歳で終戦を迎えた竹内静代さん(88)の書いた手記を、中村高等学校(東京都江東区)2年生の女子生徒が読み上げた。

戦争が始まると、ラジオから流れてくるアナウンサーの口調が急に変わったこと。東京大空襲の際、燃え盛る炎の中を家族と一緒に走って逃げ、逃げている最中に渡った葛西橋が永遠に続いているように長く思えたこと。積み重なる死体を横目に東京駅まで歩き、父親の郷里・島根県で迎えた終戦。

生徒が朗読し、竹内さん自身も体験を話した。

「100年を迎えたら平和の乾杯をしたい」

竹内さんは会場に集まった小学生らに、平和についてこう語りかけた。

「私は子どもの頃は空襲で家を焼かれ、逃げ、貧しい思いをして戦争に振り回されていた。しかし昨日から今日、明日って普通に続くのが平和なんじゃないかと思います」

「日本ではその平和が74年続いてきました。あと26年続くと、日本は世界でも珍しい平和を100年続けた国になります。その頃まで生きているかわからないけど、100年を迎えたら平和の乾杯をしたい。ここにいる若い人たちにその思いを託したいです」

朗読を担当した女子生徒は、竹内さんの言葉に対し「私たちが戦争についてさらに次の世代に語り継いでいくことが大切だと思いました。二度と日本が戦争を起こさないように努めていくことが必要です」と返した。

朗読の様子を見守った早乙女さんは語る。

「戦争体験者は減っていくので、追体験で語り継いでいく必要があります。そう気づいた者が努力をし、その輪を広げていく」

「今ならまだ間に合う。おかしいと思うことに対してはおかしいと言い、それにはそれなりの勇気が問われるかもしれないが、平和を続けていくには小さな勇気の積み重ねが必要なのではないでしょうか」