深い社会問題に切り込むスーパーヒーロー映画「ブラックパンサー」とは

    大ヒットするスーパーヒーロー映画でありながら、複雑な政治的問題や倫理的問題を扱えることを明らかにした「ブラックパンサー」は、今後のスーパーヒーロー映画のハードルを上げる作品だ。

    マーベル・スタジオが制作するスーパーヒーロー映画の舞台は「シネマティック・ユニバース」と呼ばれる。

    『ブラックパンサー』は、その一角を占める作品だが、この映画はこれまでにない方向性を持っている。何か社会的なメッセージを訴えようとする初めてのスーパーヒーロー映画というわけではないし、何か社会的なメッセージを訴えようとする初めてのマーベル映画というわけでもない。

    だがこの作品は、政治的には控えめな姿勢を取りながらも、私たちが生きる時代の不確かさを反映した、初めてのスーパーヒーロー映画だ。安定した人気作品を量産してきたスーパーヒーロー映画シリーズのひとつであることを考えると、こうした方向性は、非常に珍しい。

    スーパーヒーロー映画は毎年、マーベル映画が3本、DC映画が1〜2本、20世紀フォックスの『X-MEN』とそのスピンオフシリーズが公開される。このように量産される各作品は、政治的に鋭い切り口を持つことはない。政治的に目立つと、観客動員数に悪影響を及ぼしかねないからだ。いかにもアメコミらしい「善と悪との戦い」という単純さが、スーパーヒーロー映画の魅力の一部となっている。作品を手がける監督や脚本家には、それぞれ自分なりの意見があり、植民地主義や偏狭な信念、政府による監視などについて独自の思想があるのかもしれない。

    だが、シリーズを量産していくシステムの力と比べれば、監督や脚本家の叫びは小さなものだ。『ブラックパンサー』はこうした背景のなかで登場した。そして、監督兼脚本家のライアン・クーグラーは初めて、マーケティングシナジーやブランド管理といったマーベルのシステムを上回るかたちで、今の社会に対し、はっきりと声をあげた。

    クーグラー監督が『ブラックパンサー』において行ったのは、アフリカの未来的国家ワカンダを通じた孤立主義政策の検証だ。これはトランプ政権が「アメリカファースト」を掲げていることを踏まえると非常に興味深い。ワカンダは、第三世界の貧困というベールの陰に真の力を隠しているため、想像もつかないほど繁栄しながら、外敵から脅かされたことがない。

    だが、主人公であるティ・チャラ(演じるのはチャドウィック・ボーズマン)が新しい国王になった後、政権は、そうした孤立主義政策を慎重に見直し始める。ワカンダは、孤立主義のおかげで繁栄する一方で、近隣のアフリカ諸国が帝国主義による抑圧に直面していても、これまでは沈黙を貫いていた。ワカンダが奴隷貿易などの不正とどれだけ積極的に闘ってきたのかは不明であり、そのために、本作の悪役エリック・キルモンガー(演じるのはマイケル・B・ジョーダン)は義憤を募らせる。

    ドリーン・セントフェリックスは、ニューヨーカー誌で次のように書いている。

    「キルモンガーは、ワカンダの政策の限界を観客に示す。つまり同国は、人々を置き去りにしているのだ。キルモンガーは、典型的な悪役とはかなり違う。不安そうで、未熟で、魅力的な男だ。それはまるで、マーベルの世界に住む『透明人間』のようだ」

    ワカンダのような勢力が、周囲に介入すべきかどうか、介入するならどう進めるべきかという難しい問いかけが行われ、倫理的問題の複雑さが描かれる。こうした複雑な描写は、シリーズの他作品や、このジャンルに属する最近の作品の多くには見られないものだ。ブルック・オービーは「Shadow and Act」サイトで、次のように述べている。

    「この政策はこれまでのワカンダを、アフリカ人に対する世界の人種差別を利用した目に見えない盾を掲げ、戦いで命を落とすことなく、白人の略奪者から身を守ってきた。非常に合理的だ。ただ、そのやり方は犠牲を伴う」

    そして『ブラックパンサー』は、そうした犠牲がどういうものだったかについて、尻込みせずに明確にし、ヒーローにも認めさせている。『ブラックパンサー』は大絶賛され、公開後4日間の興行収入は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』に並ぶ歴史的な数字となっている。

    このような作品をクーグラー監督が制作できたという事実は、他の点では窮屈な映画スタジオのシステムでもこうした作品が制作できることを示しているだけでなく、後に続くすべての作品のハードルをも引き上げている。

    2008年に公開されたマーベルの『アイアンマン』は、アフガニスタンのシーンから始まった。ショーン・フェネシーは「The Ringer」サイトで、この映画の戦闘シーンについて、「これまではマクドナルドのハッピーセット向きの舞台設定しかなかった、拡大するシネマティック・ユニバースにとって、刺激的な出来事」という言葉でこの映画を評価した。

    だが、マーベルがシリアスな社会的主張を初めて本格的に行ったのは、2014年公開の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』だ。映画の前半で、キャプテン・アメリカとニック・フューリーは、新しい安全保障計画のメリットについて議論する。

    それは、殺人ドローンを送り込んでパトロールさせ、テロリストへの先制攻撃を開始して、テロを未然に防ぐというものだ。これに対してキャプテン・アメリカは、それは自由ではなく恐怖をもたらすプログラムだと批判する。一方、フューリーは「ニューヨーク後」は警戒しなければならないと指摘する。この言葉は、『アベンジャーズ』(2012年公開)の最後に描かれた、エイリアンによる侵略(「ニューヨークでの戦い」)を指したものだが、実際に示唆しているのは、2001年9月11日にニューヨークで発生した同時多発テロ事件で間違いない。

    これらのドローン(無人機)は実際には、2人が共に恐れている脅威的な外部勢力の武器ではない。アメリカが自国を守るために開発した武器であり、同時多発テロ事件後にアメリカが疑心暗鬼になってさまざまな境界を曖昧にしてきた年月を象徴している。

    本作品の映画制作者たちは、2014年に行われた「Mother Jones」のインタビューで、この点について明確にしている。

    「政治スリラーの傑作はどれも、作品の中に、観客の不安を反映する現行の社会問題を含んでいる。そうした感覚が、作品にリアルさを与え、時代に合ったものにするのだ。アンソニーと私は、自分たちにとって不安な問題に目を向けただけだ。われわれはいろいろなものを読み、政治問題に関心をもっていた。市民の自由の問題や無人機による攻撃、大統領の殺害対象リスト、先制攻撃技術といった問題だ」

    『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』はしばしば、「マーベル作品のハイライト」であり、スーパーヒーロー映画の最高傑作の1つと言われる。そのひとつの理由が、こうした社会問題に対する姿勢を示していることだ。映画評論サイト「Rotten Tomatoes」でさえ、「政治的に鋭敏」と評した。だがこの作品では、最終的には、腐敗の発端は外敵から来たことが明らかになる。善良と思われている者たちの大胆な危機意識として始まったことが、アメリカ政府を堕落させる秘密計画になっていく。しかしそのすべては、前作で第三帝国から決別した、元ナチスの組織ヒドラが仕組んだことだったのだ(なお、なぜ「元ナチス」かといえば、おそらく、カギ十字がないほうがアクションフィギュアが売れやすいからだろう)。愛国心にあふれた利他的な米国人たち(彼らは、アメコミらしい赤、白、青のカラーで象徴されている)と比べ、ヒドラの意識は、黒と緑しか表示しない古いコンピューターで生き続けている。つまり、「彼ら」は我々とは決定的に違うということがかなり強調されている。

    公平を期すなら、最初は米国政府の行き過ぎを反映していたフューリーの安全保障プログラムが、実際には「不穏分子」が仕組んだものだったというアイディアには、それなりの批評性があるものの、安直すぎではないか。

    このアイディアは市民の自由を取り巻く複雑な倫理的疑念を、ありふれた悪者ストーリーに変えてしまった。しかし、同じ過ちを『ブラックパンサー』は慎重に回避した。キルモンガーは、長く続く偏見を目の当たりにしてきた結果、苦しんでいる。間違った行為の積み上げられた長い歴史を知ったことで、彼は突き動かされる。本作は、そうした怒りを矮小化するような真似はしない。

    つまり、人種差別が、マーベル作品に登場するスーパーヴィラン、サノスらの極悪非道な計画だったと明らかにするような真似はしていない。『ブラックパンサー』は、キルモンガーの恐ろしいやり方に対しては批判的だが、戦争を始めたいと思うところまで彼を追いつめた、白人至上主義のシステムをしっかりと描いた。キルモンガーは、行く手を阻む者を脅したり殺したりするが、本作は、彼の主な不満のもととなった苦しみに関して、ワカンダが何かする力がありながら無視していることを決して見失わない。そうすることで、「両義性」の描写を実現している。それは、限られていたり不完全だったりするかもしれないが、これまで他のどのシネマティック・ユニバース作品もできずにいたものだ。

    2016年に公開された『キャプテン・アメリカ』シリーズ最新作『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』も、同様の両義性を目指していた(なお、この作品は、マーベル・シネマティック・ユニバースに『ブラックパンサー』を導入する物語でもある)。『ウィンター・ソルジャー』では、キャプテン・アメリカを疑うリアルな理由はないが、『シビル・ウォー』では、アイアンマンを通じて、キャプテン・アメリカと対立する意見が表明されている。トニー・スターク(アイアンマン)は、アベンジャーズを国際連合の管理下に置くという提案を支持する。これは、妥当な理由に基づいている。冒頭のシーンで描かれているように、ミッションが失敗して一般市民に犠牲が出ても、アベンジャーズが責任を取るわけではないからだ。これに対してキャプテン・アメリカは、政府の管理下に入るということは、政府の計略に入り込むことになると指摘するが、トニー・スタークは主張を曲げない。そして、アベンジャーズの他のメンバーたちは、2組に分かれる。

    マーベルは我々に対して、この対立は重要だと示そうとしていた。『ウィンター・ソルジャー』で行なったよりもっとシリアスなやり方で。マーベルは『ウィンター・ソルジャー』のマーケティングにおいて、対立する2つの派閥に、米国の二大政党のイメージカラーを重ねて、「あなたはどちらの味方か?」という問いかけを行なった(実際にはこの作品では、分裂は明確なものではなかったのだが)。

    だが『シビル・ウォー』では、これまで見落とされていた議論がテーブルに上がり、チームの分裂が明確になる。『ウィンター・ソルジャー』で以前すでに一種のおとりの悪役を務めた、キャプテン・アメリカの古い戦友バッキー・バーンズの追跡を行うかどうか、という議論だ。最初はどちらかに偏って描かれていなかった対立はやがて、トニー・スタークがどれほど間違っていて気まぐれであり感情的かを、強調して示すようになる。スタークの選択が間違っていたことを明示するシーンもある。

    クーグラー監督の『ブラックパンサー』は、『シビル・ウォー』でのトニー・スタークの描かれ方とは異なり、敵側にも良いところがあることを無視したりしない。その結果、ティ・チャラは成長する。

    観客がティ・チャラを賞賛するのは、彼がおもしろくて温かい人柄であり、自分の主義を貫いているからだ。国にとってなにがベストか、家族や友人と話し合う思いやりのある人物だが、ルピタ・ニョンゴ演じるナキアのような登場人物が放棄するよう迫る孤立主義については、相変わらず葛藤を抱えている。最終的に彼を行動に駆り立てるのは、キルモンガーと同じ苦しみだ。祖国が安全だったため、ティ・チャラはそれまで、そうした苦悩から守られて生きてきただけだった。キルモンガーが厳しく非難するのは、白人の特権だけではない。ワカンダの特権も非難の対象である。

    そしてワカンダの特権は、ティ・チャラの父が殺されたアメリカのオークランドでは通用しなかった。『ブラックパンサー』では、悪役が自分の考えを主張するだけではない。そうした考えは、作品全体のメッセージとして浸透しており、主人公の考えを変える力も与えられている。アダム・ソーワーがアトランティック誌に寄稿しているように、「驚くべきことにキルモンガーは、おそらくスーパーヒーロー物では前代未聞であろうことに成功した。彼はヒーローとの議論に勝ったのだ」

    クーグラー監督が『ブラックパンサー』のラストで、こうしたことをすべてやって見せたことは素晴らしい。多くのスーパーヒーロー映画では、「物語の設定、対立、解決」という三幕構成で物語が展開し、不可欠なCGによるクライマックスのアクションシーンの中で、物語のテーマが見失われてしまう。

    これは、特殊効果を用いて観客を満足させる乱闘シーンと、政治に対する理解の両方を、同時に求めることが難しいからだ。たとえば、2017年に公開されたパティ・ジェンキンス監督の『ワンダーウーマン』では、物語の進行は途中までは成功しているのだが、最後のバトルによって、物語の中心にあった混乱が強調されてしまう。

    主人公のダイアナ(ワンダーウーマン)は、作中ほとんどずっと、ドイツ軍の総監として生まれ変わった戦いの神アレスを殺せば、第一次世界大戦が終わると確信している。だがその後、乱闘シーンの直前に、アレスが生まれ変わったのが実は味方側の人物であり、神は介入しておらず、人間自身がこの恐ろしい戦争を始めたことを知る。このひねりは多くの点で、スーパーヒーロー映画、それも特に『キャプテン・アメリカ』シリーズに観客が期待するような二項対立への、意図的な反駁だ。怪物は人間の中にこそ潜んでいる。

    だが『ワンダーウーマン』では、単純化された戦いの対立が表現されることで、二項対立に磨きが掛けられる。映画の最初の30分間に、ダイアナが恋する相手は、「自分は善人で、向こう側のドイツ人は悪者だ」と説明する。

    そしてこの映画はそれに反論していない。ダイアナの味方にも悪者はいるが(兵士の命を無情にも軽んじる将軍たちなど)、戦争を終わらせまいと仲間を毒殺するドイツ軍総監や、村全体を奴隷化するドイツ軍連隊のあからさまな非道と比べれば、彼らが犯した犯罪は些細なものに感じられてしまう。戦争は人間がはじめたものだという事実は、第一次世界大戦の背景に「両義性」をいくらか取り戻すが、人類の運命をかけたダイアナとアレスの戦いは、「善対悪」という昔ながらの構図に戻ってしまう。人類は破滅するに値するというアレスの主張は、まるでゲームのラスボスのようだ。

    スーパーヒーロー映画は大衆市場向けに作られているので、そのテーマは皆から人々に好まれるものとなっている。「善 vs 悪」の対立は居心地がいい。より多くの人に受け入れられやすいように作られるこういった映画では、非常にシンプルな二項対立が歓迎される。その裏にあるのは映画を見ることで得られる「安心」だ。そうした「善 vs 悪」の二項対立の映画を見る度に、自分は知的で、社会的問題に積極的に関心を抱いていると感じられる。こうした問題について考えてみるのは好きだが、最後には、すべては大丈夫だと言われるのが一番心地よいのだ。

    こうした政治的な傾向を持つスーパーヒーロー映画の多くは、違いをさらに分裂させる。『ウィンター・ソルジャー』は、一見すると、邪悪な政府機関の建物が倒壊する大がかりなシーンを通して、組織網を崩壊させつつあるというメッセージを送りたいようだが、その一方で、米国全土からヒドラを慎重に脱出させている。

    『シビル・ウォー』では、正しいことをしたのは疑う余地がないのに、キャプテン・アメリカを逃亡者に仕立てている。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は、ダークなパロディのように、本当のモンスターに出会うまでは、主人公たちがモンスターだと描く。『ワンダーウーマン』は、両サイドに悪が存在すると主張した後、二項対立と、「守るために戦う価値がある善良な人々」(少なくとも、他の者よりも善良という感覚的な考え)という構図に戻る。

    こうした作品は、矛盾を提示して我々に問いを促すが、それはほんの一瞬だけ。自己満足感を高めてくれる。結局我々は、社会に起こっている様々な問題を少し疑ってみるだけ。劇場を出れば実際には何の問題もない、温かくて快適な現実に引き戻されていく。弱まる矛盾の中で最終的に善は勝ち、倫理的な複雑さはどこかへ消え、社会の変化を求める主張もいつしか忘れ去られてしまう。

    そんな世の中で、映画はどれほど政治的な作品になりうるだろうか?多くの作品はそもそも、そうしたテーマにわざわざ取り組んでもいない。2011年公開の『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』のような作品には、こうした社会問題への嫌悪感が見て取れる。この作品は、もともと政治的だったはずのシリーズを、公民権に関する不平がない1960年代という設定でリブートしている。

    最近のスーパーヒーローシリーズの中で、『ブラックパンサー』よりも前に、一貫した主張に最も迫ったのは、2017年公開のマーベル映画『マイティ・ソー バトルロイヤル』だった(監督はタイカ・ワイティティ)。

    本作は、北欧神話上の王国アスガルドが、殺戮と征服によって造られたことを描いた。王国は過去の歴史を塗り替えていた。この暴露に対してソーの出した答えは、アスガルドを滅ぼして再出発するというものだった。そしてそれは、シネマティック・ユニバースの1つが提示した、それまでで最も過激な考えだった。だが、ソーはやり直そうと考えているものの、これらの殺戮を共謀していた支配階級を非難することはなく、植民地主義の犠牲者について言及することもなかった。結局のところ、これはソーが主役の映画なので、この雷神は王座に残ったまま、映画は終わる。

    『ブラックパンサー』における政治的要素の描写が完璧だとは思わない。支援計画と国連での演説という解決策は、「完全な孤立主義政策」と「キルモンガーの計画」との間のバランスの取れた妥協点ではない。「国連との協調」という落としどころに、マーベルの奇妙な楽観主義を冷笑する観客もいるかもしれない。映画のラストでは、ワカンダは未だに君主制国家だ(そして、CIAのスパイに助けられた部分もある)。

    だが、それでも『ブラックパンサー』は、これまでの大ヒットシリーズの中で最も一貫した政治的主張を行っている。根本的な変革ができないということを、隠さずに議論をした。その議論は、観客を喜ばせ、映画館のポップコーンが売り切れになるほど観客を惹きつけるアクションシーンのなかでも揺らぐことがない。観客の視線を保持したまま、権利を奪われた者に対する権力者の義務を伝えているのだ。その意味で、本作は、シネマティック・ユニバースのシステム内で制作された多くの映画の失敗を乗り越えた。そして、観客を満足させるいつもの制約を越えることができれば、スーパーヒーロー映画に何ができるかが明確になる。

    スーパーヒーロー映画は、世界で最も広く観られている娯楽映画だ。だからこそ、こうした作品には、何らかの社会的責任(あるいは、少なくともチャンス)があるのではないだろうか? スーパーヒーロー映画はようやく、そのプラットフォームを利用して、そうした実験を始めた。『マイティ・ソー バトルロイヤル』ではカメラの裏に隠された描写で。そして、『ワンダーウーマン』と『ブラックパンサー』では善と悪の両サイドについての描写で。そろそろ次のステップに進み、これらの映画がすでに提起している、関連する社会問題について、手加減せずに議論しても良いのでは?

    『ブラックパンサー』は、大衆市場向けの作品であっても複雑なテーマを取り上げることが可能であることを示した。本作は、エンパワメント(力づけ)やインスピレーション、スリルを売りにしているが、それでも、倫理的問題や、「思いやりのある悪と、必ずしも世界の見方が正しいとは言えない主人公」という両義性が入り込む余地が十分に残されている。

    本作は、安易な逃げ道を避けて、本当に重要な倫理的テーマについて考えるよう観客に挑戦しつつ、観客たちを掴んで逃さない。それどころか、観客たちは情熱的に本作のテーマを受け入れているようだ。私達が慣れてきた、感情に訴えない当たり障りのないテーマを粉砕するような熱意で、本作を支持しているのだ。こうしたことが、期待されているスペクタクルを損なわずにすべて可能であると、本作は証明している。こうした映画がこれまですべきだったことを教えてくれるのだ。


    Steven Scaife is a freelance writer based somewhere in Ohio. His work has appeared at the Awl, Vice, Paste, Slant, Zam, and SyFy.

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:矢倉美登里、合原弘子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

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