『タイタニック』のジャックがレズビアンに気づかせてくれたこと

    90年代、中性的な魅力のスターにあこがれた私たちのその後

    Everett Collection

    1997年公開『タイタニック』より。ケイト・ウィンスレットとレオナルド・ディカプリオ。

    自分があきらかに同性愛者であるとようやく自覚するようになるずっと前、私はレオナルド・ディカプリオ演じるジャック・ドーソンに恋していた。

    12月19日に公開から20年を迎えた『タイタニック』。少女のころから成長するともに、私の家では何度となく見た映画だ。VHSビデオ2本におよぶ長編映画には、私たちを夢中にさせる要素が詰まっていた。『タイタニック』は、初航海中に海へ沈んだ豪華客船の上で出会い、愛し合った二人の悲しい運命を描いた、言わずと知れた有名な物語。あまりに壮大な大作で、1本のビデオテープには収まりきらなかった。何を隠そう、実は今でも結構な頻度で見ているのだが、船長が船首のイズメイに「新聞のトップ・ニュースですな」と言うシーンになると、ビデオデッキのところへ行って2本目のテープに入れ替えなきゃ、と反射的に思ってしまうくらいだ。VHSビデオではこの場面で1本目のテープが終わるのだった。

    『タイタニック』は、私も男女4人のきょうだいもみんなが認めるエンタテインメントの条件を満たしていた。いつもお互い同盟を組んだり離れたりを繰り返していた私たちきょうだいとしては、めずらしいことだった。男の子にとってははらはらする銃撃シーンがあったし、女の子にとってはもちろんふたりの恋愛があった。

    まだ速度の遅いダイアルアップ回線でインターネットにつないでいた当時、10代になって熱をあげていた憧れのスターについて語り合うネット掲示板の存在を知るまでは、自分が世界に何百万人といる熱狂的なレオマニアのひとりにすぎないなど知るべくもなかった。レオは私と私のまわりの限られた人――姉妹と、『タイタニック』は暴力と性的な描写が含まれていて子どもにはふさわしくない、と両親に見せてもらえなかった子を除く数少ない友人たち――のためだけにいる特別な存在だと思っていたのだ。私がジャックの(あるいはジャックという役を通したレオの)どこに魅かれていたかといえば、やはり他のみんなと同じように、胸をときめかせずにおかない繊細なはかなさ、アーティスティックな世界観、心を射抜かれるようなキュートで端正なルックスだった。

    それから月日が流れ、大学時代も終わりに近づき、同性愛者としてカミングアウトしたころ、私はようやく気づいた。ジャック・ドーソンに本気で魅かれていたレズビアンは、私だけではなかったのだ。同性愛者が集まるパーティで、自分の性的アイデンティティにとまどっていた10~12歳のころ誰にときめいていたか、という話になると、必ずあがるのがレオの名前だった。他に登場したのは「ベルエアのフレッシュプリンス」に出ていたころのウィル・スミス、『クライ・ベイビー』時代のジョニー・デップ、『キャスパー』に少年の幽霊役で出演しクリスティーナ・リッチと5秒ほど踊る場面のあったデヴォン・サワ。いずれも、内なるレズビアンの心に永久に刷り込まれた面々だった。というのも、彼らはみんな、どこかレズビアン風の外見だったから。

    『タイタニック』撮影当時、童顔の22歳だったレオには、今の私が付き合うタイプの女性やノンバイナリー(女性と男性のどちらにも分類されないジェンダー)の人たちと共通する空気があった。男女両性の要素を持ちながら男性寄りの外見や、90年代らしい少年っぽい髪形もそうだ。それからファッションも。あのフランネルのシャツに、コーデュロイのパンツにサスペンダー! 痛いほどレズビアンの心をわしづかみにされる。私にとって、レオは「やや男性っぽいタイプの女性」としての理想形だった。

    (「レズビアン風の外見」という表現に眉をひそめる人もいると思う。「なに? レズビアンはこういう外見、って決まってるわけ?」と怒りの声が聞こえてくる。確かにそうだ。フェミニン寄りの外見である私自身、よくわかる。私たちレズビアンはひとくくりにはできない。でも、これは社会で確立された文化規範に根っこがある、一種のジョークなのだ。そして今、世界は揺れているのだ! というわけで、あえて書かせてもらった)

    Mikel Roberts / Getty Images

    同性愛者の女性の中には、ごく幼いころから自分は同性が好きだと直感的にわかっていた人もいる。一方、私のように異性愛者として成長し、男の子を好きだった自分を経て、思春期に入って気づくケースもある。私の場合、振り返ってみると、自分が同性愛者だと感じるようになったのは10代から大人になりたてのころにかけてだったが、ストレートの女友達に対して恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。男性と付き合うことに何の不満もなかった。もしくは、何も知らない、感情面で発達途上の10代男子と付き合っているかぎり不満はなかった、というのが正しいだろうか。

    目のまわりに黒のシャドーをぬりたくり、腰にスタッズベルトを2本重ねて巻きつけていた10代の私は、秩序などない友達グループの輪にやってくる、細身で男っぽくない男子に熱をあげた。細いジーンズをはき、私と同じように長めの髪を染め、重力に逆らってセットし、私よりアイラインを引くのがうまそうな男の子たち。屈折して生気に欠ける、男女両性の要素を持つタイプで、私には受け入れがたいマッチョな体育会系男子の代わりになる存在だった。

    が、男女両性を備えたタイプの10代も大人になる。優しげなベビーフェイスは角ばったあごに不精ひげが生えた顔に変わる。きゃしゃな体つきはがっしりして、私には異質のものになってしまう。こうした少年たちが若い男性へと変化を遂げると、魅かれていた私の心はぱっと冷めた。当時は、「男性」の身体に対するジェンダー本質主義的な嫌悪感に切り替わったように感じていた気がするが、今はそうではないと思う。それまで付き合ってきた彼ら/相手に嫌気がさしたのではなく、つまらないと感じ、何かが違うという違和感を覚えるようになったのだ。ジェンダー・プレゼンテーション(体や外見で表現される性別)やジェンダー・アイデンティティ(自分の性別をどう認識しているか)、人間のセクシュアリティの複雑さなどに関わる、たくさんの込み入った理由が背景にあった。そしてわかったのだ。私は同性愛者なのだ、と。

    もし、男性や中性的な女性について、子どものころからポップカルチャーの中でもっと多様な描かれ方に接していたら、同性愛というものについてもっと早く理解できていたんじゃないか、とときどき思う。例えばメアリー・スチュワート・マスターソンからあのウィノナ・ライダーに至るまで、80年代や90年代を代表する中性的な女性アイコンに対してひそかにときめく気持ちを心の奥にしまっていたものだ。だが彼女たちが演じるキャラクターも結局は男性との恋愛というお決まりのパターンに押し込まれるばかりで(メアリー・スチュワート・マスターソンが出演した『フライド・グリーン・トマト』では、同性愛カップルであることをかなり示唆する設定があったものの、はっきり明言してはいない)、自分が同性愛者だとの自覚が芽生えたばかりのころに非常によくある解釈に行きついていた。つまり、こうした女性に魅かれる気持ちを覚えるのは、別にあんな女性と寝たいとかではなく、あんなふうになりたいという感情なんだ、と受けとめるのだ。

    それでも私には『タイタニック』のレオがいた。ジャックはいわゆる男っぽさは薄かったけれど、それにとらわれてはいなかった。ビリー・ゼイン演じるローズの婚約者、キャルが自分の思い描く男らしさをなんとか保とうとして、テーブルをひっくり返したり女性を殴ったりする血の気の多い人物になっているのと対照的だ。ジャックは感情を表に出すこともいとわないし(これは私がのちに現実世界で情緒的で繊細な男子を好きになる先駆けだったのかもしれない)、ためらわずに人に優しくできる(ねらっているのだろうけれど、ローズと踊りながら「僕の恋人は君だよ」と小さな少女コーラに声をかけるシーンは、見るたびにぐっときてしまう)。

    たぶん、何よりもジャックは自由だ。裕福な家に生まれながらカゴの中にいる囚われた鳥みたいなヒロインのローズは自由を願い、やがてジャックのおかげで自由を手に入れるわけだが、それと同じように解放された存在なのだ。何にもとらわれず世界を旅する貧しい白人青年にしか味わえない形で、解放されている。言ってみれば、のちに私が好きになるモラトリアム青年たちと似たようなものなのかもしれない。

    20th Century Fox / Courtesy Everett Collection

    そして私は前へ進んできた。確かに、ジャックと一緒になりたいと思っていた。でもそれは、性とは何かについて実際のところはわかっていなかった、思春期前の少女が抱くとまどいから生じた願望だったのだ。アイドルシンガーのジェシー・マッカートニーから、中学生のとき部屋にポスターを貼っていたいわゆるエモバンドのメンバーまで、私が熱をあげてきた他の中性的な男性たちと同じように、ジャックもまた、まだ育んでいる途中でよくわからない自分のファンタジーを投影できる、男性女性どちらの要素も合わせ持ったまっさらの存在にすぎなかったのだ。ストレートでもレズビアンでも、女の子は誰もが同じ経験をするのではないだろうか。そう、私はただジャックになりたかった。魔法の力を得て人生をかけた旅に出、愛する人を手に入れるジャックに。

    本当のところ、私はジャックとローズの両方に恋していたのだと思う。どちらかというと女性的なレズビアンである私は、男性寄りの相手と女性寄りの相手のどちらにも魅かれてきて、ジェンダー・アイデンティティの点では自分の中の認識と願望とがつねにゆれ動いてきた。10代になる前、誰かと一緒に『タイタニック』を見ていて、ジャックが服を脱いだローズの絵を描くシーンになると、私は心の底から居心地の悪い、気まずい思いを感じたものだ。4人のきょうだいも私も、別のことに気を取られたふりをしたり、そっと部屋を出て行ったりするのが常だった。でも、夜中にみんなが寝てしまい一人になると、そのシーンに引きつけられている自分に気づく。そうして一人になったときだけ、その場面を初めから終わりまで見るのだが、ひどくいけないことをしている気持ちになるのだった。

    自分の中で同性愛のスイッチを入れるのに時間がかかった理由の一つは、「男性が自分を魅力的だと思ってくれる」という考えに長いこと魅かれていたからではないか、とずっと思ってきた。その考えがあったからこそ、苦しかった11歳前後の時期を経て、比較的うまくなじめた高校生活へ楽に移行できたのだと思う。性格のいい、私を愛してくれる普通のボーイフレンドもできた。長いあいだそれで満足だったのだ。だから、昔は『タイタニック』のあのシーンを純粋にローズの視点からだけ見ていたつもりだった(男性から見られ、求められることのエロチシズムを感じながら)。でも実のところ、私の視点はふとするとジャックの視点にシフトしていて、それを自分自身で認めることを長いあいだ恐れていたのだった。

    ジャック・ドーソンという役柄を通じたレオのパワーは、実に力強く生き続ける。もちろん、愛する人を手に入れたあとですべてを失うからだ。沈んだ船の残骸が漂う海の上でローズが板につかまって浮かんでいるあいだ、ジャックは海の中にとどまり、見ている誰もが嘆きの声をあげる。命を落としたジャックは、22歳の理想の恋人のまま、海の底で永遠に凍結されることになる。

    現実の人生で出会う男性と同じく、レオも年を重ね、私が決して魅かれることのない男性になってゆく。でもジャックは、両性を兼ね備えたおとぎ話の世界で生き続ける。ジャックは3時間を超えるこの映画の中に永遠にとどまっている。ローズの記憶の中だけに閉じ込められたのと同じように。ジャックはこれからもずっと甘く優しく、無垢で、安心させてくれる。いやというほど空想をめぐらせることができるけれど、実際に触れることは決してない存在。それが、私を含む大勢の少女たちにジャックがくれた、同性愛的な要素を持つ不思議な力だ。そしてみんなやがて大人になって、自分が探し求めていたものの答えを知ることになるのだ。

    この記事は英語から編集・翻訳されました。