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医療用語を「わかりやすく」するジレンマを、広辞苑はどう解消しているのか

「ロコモティブ症候群」の意味、わかりますか?

医師の説明はなぜ、わかりにくい?

お医者さんの言うことが「難しい」と感じた経験はないだろうか。その理由の一つとして、国立国語研究所は医療用語のわかりにくさを指摘している。

例えば、医療関係者は「予後」といった言葉をよく使う。しかし、その意味は一般にはあまり知られていないか、正しく理解されていないこともある。

とはいえ、これらの言葉をわかりやすく説明するのは大変だ。「予後」であれば、同研究所は以下の言い換えを提案している。

a. 今後の病状についての医学的な見通し


b. 今後の病状についての医学的な見通しのことです。病気の進行具合,治療の効果,生存できる確率など,すべてを含めた見通しです。これから病気が良くなる可能性が高いか,悪くなる可能性が高いかの見通しを指す場合もあります


c. 今後の病状についての医学的な見通しのことです。治療を行った後に,病状がどのような経過をたどるのかを予測し,見通しを立てます。その判断材料には数々のものがありますので,必ずこうなるというものではなく,ある確かさを数値として表すことしかできません

「病院の言葉」を分かりやすくする提案 - 国立国語研究所

a.だけでも、b.だけでも、c.だけでも全てを言い表すことができないから、医療関係者は「予後」という言葉を使う、とも考えられる。

このように、医療用語には、わかりやすくしようとするほど、正確性が失われるというジレンマがある。

このような背景がある中、約10年ぶりに改訂され、1月12日に発売される『広辞苑』の第七版では、医学・生命科学が重点分野になっているという。

累計1000万部以上の国民的辞典は、このジレンマをどのように解消しているのか。医学・生命科学分野を担当した岩波書店の猿山直美さんに話を聞いた。

注力の理由は「読者のニーズ」

広辞苑の編集は「ドリームチーム」制。改訂作業を始める時期になると、社内のさまざまな部署から年代別、専門別に編集者が集められ、チームが立ち上がる。作業が終わると、またさまざまな部署に散っていくのだという。

猿山さんはそれまで自然科学書の編集部に所属し、単行本や雑誌を担当してきた。過去に『岩波理化学辞典』『生物の小事典』『化学の小事典』を担当するなど、この分野には知見があった。

しかし、そんな猿山さんでも、今回、初めて携わった広辞苑の編集は簡単ではなかったと言い、経験の長い編集者に「叱られてばかりで」と笑う。

「一冊の厚みが示すように、広辞苑はボリュームがあります。作業の量と細かさは、これまでの単行本や雑誌の比ではありませんでした」

広辞苑には、第三版までに3000の医学分野の用語が収録されていた。医学・医療の発展に伴い、改訂の度に300〜400語のペースで増えている。今回の改訂でも400語と、過去最大の規模で医学分野の用語が追加された。

なぜ、今回の改訂で、医学や生命科学が重点分野とされたのか。それは「読者のニーズを反映したため」だった。

広辞苑には月額100円(税別)のモバイル版がある。そこで「検索されたが収録されていなかった言葉」のデータを分析した結果、上位に薬や病気の名前など、病院で聞く言葉が多かったのだという。

基準は「定着」、医療では「先取り」も

広辞苑に新たに掲載される言葉はおよそ1万語。しかし、候補になるのはその10倍以上になるという。その中から、どのように掲載する言葉を選定しているのだろう。

そもそも、広辞苑のコンセプトは「国語辞典+百科事典」。国語の項目では、編集部が主体となり、合議により用語が「定着」しているかどうかを重視する。

一方、医学や生命科学などの百科の項目では、その用語が示す内容が学術的に正しいのであれば「やがて定着するだろう」と未来の「定着」を重視できる、という考え方だという。

「この分野は発展のスピードが速いので、ちょっと早いかなという言葉でも、先を見て採用することはあります。今回の改訂では、例えば“ロコモティブ症候群”を入れました」

ロコモティブ症候群の説明を、広辞苑から引用しよう。

【ロコモティブ症候群 (locomotive syndrome)】

骨・関節・筋肉・神経からなる運動器(ロコモティブ)の障害により、歩行などの移動機能が低下した病態。運動器症候群。

これは、高齢化に伴って生まれた新しい概念。人間が長期間、骨や関節、筋肉、神経を動かすことによって障害が起きて、移動する機能が低下することを指す。

近年、テレビなどでも取り上げられるようになったため、追加された。一方で、採用まで時間がかかった言葉もある。

今回の改訂で採用された「iPS細胞」は、2006年〜2007年頃にはすでに世界的に注目されていた。

しかし、前の版の刊行は2008年。さらに定着したのは開発者の山中伸弥さんがノーベル賞を受賞した2012年以降。前の版での採用は間に合わなかった。

どこでどんな言葉が定着しているのかを把握するには、常にアンテナを張り巡らせる必要がある。猿山さんは気になる言葉に触れると、メモをしてその後の動向をみるのが習慣になっているそうだ。

正確性を守る「専門家とのやり取り」

猿山さんは、医療用語の編集作業が簡単ではない理由に「さまざまな読者の方がいるので、(医療の)基礎知識やバックグラウンドがあるとは限らない」ことを挙げる。

難しい医療用語を、基礎知識やバックグラウンドのない読者にもわかりやすくするためには、「かみくだく」ことをしなければならない。しかし、前述したように、「かみくだく」ほど、言葉の持つ正確性が失われてしまう。

「お医者さんは“頻回”という言葉を説明の中でよく使われるのですが、これをより一般的な“頻繁”に言い換えられないのか、と聞くと、やはりニュアンスが違うとおっしゃられるのですね」

例えば医師は「頻回のくしゃみ」のように、回数が多いことを指して「頻回」と使う。これを「頻繁なくしゃみ」とすると、頻度が高いことになり、意味が変わってしまう。

結果、今回の改訂では「頻回」を説明に使いつつ、辞典の新しい項目として立てることになったそうだ。

医学分野の用語の校閲・執筆に関わる専門家は、医師や生命科学の研究者ら10人以上。岩波書店と付き合いのある著者や、その紹介で集まったメンバーだ。

専門家が書いた原稿を、猿山さんのような編集者が一般の感覚とすり合わせながら調整していく。他の分野の用語でも、4〜5回の出し戻しは当たり前だという。

医学・生命科学分野ではさらに、わかりにくい言葉や、誤解されてしまいそうな言葉についての相談を、何度もすることがある。

「医学分野の用語はダントツで、やり取りの回数が多い」と猿山さん。しかし、正確性を失わないようにするためには、必要なことだという。

「わかりやすい説明を心がけていますが、ここまでかみくだいていいのか、という迷いは常にあります。しかし、読者の方は正しい情報を求めて、広辞苑を引いてくださるのでしょう」

「“わかりやすい”と“正しい”ことを両立させるためには、やはり、専門家の方々とのやり取りを増やし、磨いていくことが重要だと思います」

「アラサー」が広辞苑に載らない理由など、国語項目について聞いた記事はこちら。