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「医療デマ」対策に「リテラシーを身につけよう」は有効なのか

「賢くなれ」だけでは変わらない。

医療デマに騙されないためには

「医療デマ」に騙されないために、どうすればいいのかーー。インターネット上の情報の信頼性を揺るがした昨年の「WELQ問題」を最初に指摘してから、私は医療記者として、このテーマを追いかけている。

WELQ問題では、サイト運営側の利益追求のために、「がん」などの命に関わるキーワードで、信用できない情報が検索サービスの上位に表示されていることが明らかになった。

「WELQ」を運営していた一部上場企業DeNAは、大きな批判を浴び、南場智子会長と守安功社長が謝罪会見を開いた。同社はWELQなど運営していたメディアを閉鎖した。

以降も、私は内容が不正確な複数の医療サイトや、出版不況の影響により「売れるから作る」ことが常態化している「インチキ健康本」などの取材を続けてきた。

インターネットや本だけではない。最近でもNHKの『ためしてガッテン』が「睡眠薬の服用が糖尿病の改善につながる」ような誤解を与えたとして謝罪している。

雑誌などでは度々、現在の医療を否定・批判する、いわゆる「反医療」の記事が掲載され、医療関係者の間で、問題視されてきた。このように、不正確な医療情報は、ネットだけでなく、本、新聞、テレビなど全てのメディアに存在する。

情報の真偽を見わける力を「メディアリテラシー」と呼ぶ。「リテラシーを身につけよう」という謳い文句を聞いたことがある人もいるはずだ。しかし、このように呼びかけることで、状況は本当に改善されるのだろうか。

「賢くなれ」だけでは変わらない

社会学者として情報と政治に関する研究をしており、メディアリテラシーにも詳しい東京工業大学リベラルアーツ研究教育院/環境・社会理工学院准教授の西田亮介氏は「情報の受け手に、"リテラシーを身につけよう"、平たくいえば"賢くなれ"と働きかけることには、限界がある」とBuzzFeed Japan Medicalに語る。

西田氏は、従来のメディアリテラシーの考え方について、イギリスの研究者であるスチュアート・ホールの理論を例に、次のように説明する。

「古典的なメディアリテラシー論においては、メディアは複数の政治的意図や商業的意図の影響を受けるため、その情報を疑い、自分の身を守ることが勧められてきました。政治は支持を集めるように誘導し、企業は商品が売れるようにプロモーションする。このことをスチュアートはエンコーディング(符号化)と言いました。だから、情報の受け手はそれを"適切に"デコーディング(復元)しなければいけない、と」

「メディアリテラシー」が機能しない理由

しかし、現代のメディア状況においては、このメディアリテラシーは「理念として共感できるが、実質的な機能を期待するのは難しい」と西田氏。理由は以下の3点だ。

1)ネットの発展と普及により、情報量が激増。
2)スマートフォンなどの普及により、情報との接触頻度も激増。
3)その一方で、メディアに対する人々の信頼(特にマスメディア)は急落。

「総務省の『平成27年度版 情報通信白書』によれば、情報の流通量はこの10年で9倍になっています。そして、自分の生活を振り返っても、私たちは24時間365日、スマホを通して情報にアクセスできる。朝刊と夕刊、朝晩のニュース番組しか情報源がなかった時代からは、状況が大きく変わっているのです。従来のメディアリテラシー論にはもちろん共感しますが、これらすべてを疑え、調べろ、比べろ、ということには、現実的に無理があるのではないでしょうか」

西田氏はさらに「"賢くなれ"と言われても、賢くなるインセンティブ(動機)があるかというと、あまりないのでは」と言う。

「疑う、調べる、比べるという行為は重要ですが、簡単に言えば疲れます。賢くなるためのコストをこの社会で多くの人が払えるか、払うかというと、期待薄に思えます。仕事は終わらないし、そんな時間があるなら睡眠を取りたいというのが人情ではないでしょうか。そして、仮に疑ってみても、報われたという感覚を持ちにくいという課題も残ります。ウソじゃなければプラスマイナスゼロ、ウソだったら"騙されなかった"という意味ではプラスかもしれませんが、ウソもたくさんあるだけに、徒労感も湧くでしょう」

「もちろん、これが望ましい状況かといえば、そんなことはない」と西田氏は語る。

しかし、このような状況が現実としてある以上、「リテラシーを身につけよう」「賢くなれ」と働きかけ、情報の受け手の努力を求めるだけでは、実効性に乏しい。このようなメッセージはポジティブに聞こえるがゆえに、それ以上の対策を阻んでしまうこともあり得る。そこで、ジャーナリズムの役割に注目する。

「個々人にとっては、疑うとか調べるとか比べるという行為は、報われるかわからず、コストの持ち出しと言えます。しかし、世の中にはあえてそれを本業、生業としてきた仕事があって、それこそがまさにジャーナリズムでしょう。人々に疑い、調べ、比べる余裕がないなら、人々に代わってそれを行い、権力や企業をチェックする中間的な、そして生活者の代理人のような存在だということは、歴史が物語っています」

「ジャーナリズム」なら信頼できるのか

情報の氾濫の中で、道しるべとなるべきジャーナリズム。一方、西田氏はこれまで信頼できる情報源とされてきたマスメディア、「特に新聞に対する人々の信頼感が急落している」ことを指摘する。

「ジャーナリズムが機能するためには、"信頼できる"ことは当然として、同時に、"信頼できると思われている"ことが必要です。日本において、調査報道の能力やリソース(資源)は、歴史的な理由で、これまで、かなりの程度、新聞に集中していたといっても過言ではない」

「しかし、労働法規の違いもあり、諸外国のようにデジタルシフトに伴うリストラなどの対応が遅れ、ムダを削ぎ落とし損ねてしまった日本の新聞は、発行部数が急落したことで苦しい状況を迎えている。メディアとしての将来性が、相当な程度、危ぶまれていると言ってもよいと思います。読まれなければ、どんなに正しい情報が書いてあっても、ジャーナリズムとしても、メディアとしても機能しません」

テレビもまた、視聴率低下が、度々話題になっている。主流だったメディアの影響力が低下することにより、実際に「信頼できる」かどうかではなく、「信頼できると思われている」という、ジャーナリズムが機能するための前提条件がなくなってしまっている、と西田氏は指摘する。

これがなくなれば、「受け手が情報を疑おうとしても、根拠となる情報と、情報源になるはずのメディアも信頼できず、何を信頼していいのかわからない」という、深刻な状況となる。

西田氏は「受け皿となる可能性があるのは、当然ネット。利用状況を念頭に置くと、看過することも無視することもできるはずがない」と言う。

しかし、ネットに信頼できるジャーナリズムがあるかについては、懐疑的だ。

「年配の人の中には、根強くネットの情報を信頼できないと考える人もいます。ネットメディアでの調査報道の取り組みを日本でも見るようになりましたが、プラットフォームはともかく個々の媒体の認知度や社会的な信頼感となると課題が残り、また運営も安定的とはいえません」

「これらの課題を乗り越え、"(従来の日本におけるマスメディアのように)確かにメディアビジネスとジャーナリズムを両立している"と認知されたネットメディアは、それほど多くはないように思えます」

メディアテクノロジーの発達により「フィルターバブル」の問題もある。

例えばGoogleなどの検索サイトが、利用者が過去に検索した内容を元に、その利用者が好みそうな情報を表示することにより、知識や思想に偏りが生じること。Yahoo!ニュースやスマートニュースといったニュースアプリでも、同じ仕組みが働いている。

例えば、「がんを薬に頼らずに治したい」と思う人の元には、真偽の定かでない「がんを薬に頼らずに治した」という情報ばかりが届く危険性がある。

「そもそも人間には"信じたいものを信じる"傾向があります。トランプ大統領誕生で注目された"ポスト・トゥルース"、つまり"客観的事実"が重視されず、感情に訴えかけるようにエンコーディングされた情報が流通し、社会が混乱する政治状況というのは、まさにそれを象徴している。とりわけ医療にまつわる情報というのは深刻で、病気になってから不正確な情報を真に受けて代替療法を選び、亡くなってしまった、などということは、有名人に限らず、至るところで起きているのではないでしょうか」

それでも、デマを防ぐには?

とはいえ、ジャーナリズムを担ってきたマスメディアの情報もまた、エンコーディングされたものだ。情報の受け手がそれをどのように理解するかも千差万別。だからこそ、その情報を「信頼できるか」どうかに、絶対的な基準はないと西田氏は言う。

「信頼できる」情報に画一的な基準を適用しようとする姿勢自体が、リテラシーからは遠いとも考えられるからだ。

そこである程度の信頼性を担保するのは「関連する多様なステイクホルダーで構成される機関などを通じた、相互チェックによる緊張関係ではないか」と西田氏は論を進める。

「情報に対してもっとも影響力があるのは、権力による規制です。最近でも、座間でTwitterに"死にたい"と書き込んだ方を狙ったとみられる殺人事件が起きたことで、政府がTwitterの規制を検討していることが報じられました」

「しかし、このような規制は、企業にとっても、利用者である生活者にとっても、あまりうれしくないもの。そこで、直接規制を念頭に置きながら、社会的信頼や安全性を担保することを目的に放送倫理委員会(BPO)のような第三者機関を通じて、ネットメディアの自浄作用が機能する状況を作ることが望ましいのではないかと思います」

前述したWELQ問題でも、主にネットで上がった声を、BuzzFeed Newsなどネットの報道機関が拾い上げ、それを都議会議員の音喜多駿氏が都の福祉保健局の健康安全部に伝え、都から運営企業であるDeNAに呼び出しがあった。これらが事態を大きく動かした。

権力の監視は従来、ジャーナリズムの役割とされてきた。今後はさらに、メディアはメディア同士でお互いの情報が公正かをチェックし、利益団体や生活者もメディアが暴走しないように、一定の関心を持つ必要があるだろう。

西田氏は「公正さが相対的なものである以上、このようなアプローチがより重視されるのではないか」と話す。

では、一般の生活者は何をするべきなのか。西田氏は「現代のメディアにこのような状況があることを知っておくことがひとまずのスタート」と語る。

「"予見可能性"と言っていますが、人間はある程度、先が見えないと、安心して行動できません。信じたいものを信じて、安心しようとする。実際には何がウソで、何がウソじゃないかも、簡単にはわからない」

「だからこそ、このような傾向が自分や社会にあることを認めた上で、できる範囲で従来のメディアリテラシーで言われる"疑う""調べる""比べる"を行い、一旦は信じるべきものを選ぶ。しかしそれを過信せず、"間違っている"と思えばいったん立ち止まってみたり、方向転換したりするというのはどうでしょうか。むろん言うは易く行うは難し、ですが」

「リテラシー」は、難しい。でも……。

わかっていたことではあるが、これがあらためての結論だった。しかし、WELQ問題のように、生活者とジャーナリズムが連携し、不正確な情報を流すメディアの状況が少なからず改善した前例もある。だからこそ、私は「できる範囲」のリテラシーを呼びかけ続けたい。そして、メディアに携わる者として、生活者に対して大きな責任を負うことを忘れず、健康・医療情報の状況を、今後も追いかけ続ける。

*この記事は、Yahoo! JAPAN限定先行配信記事です。