徐々に筋肉が衰えていく難病、筋ジストロフィーを生きる兄の画家、岩崎健一さん(49)と弟の詩人、岩崎航さん(42)。
二人で出版した画詩集『いのちの花、希望のうた』(ナナロク社)の第2章「ふたり」では、兄弟の関係が紡がれる。
幼い頃は取っ組み合いのケンカをし、近くの土手で一緒に土筆を摘んだ。共に暮らし、泣き笑いした、どこにでもいる兄弟だ。会うのは年に1、2回だが、常にメールで連絡をとり、いつ会っても自然に会話が弾む。
7つ年上の兄は弟のことを「同志であり、戦友でもある」と言い、弟は「隣にいる表現者であり、自分の灯明でもある」と呼ぶ。二人にとってお互いはどのような存在なのだろうか。
共に過ごした虚しい時間 生きがいを見出す弟を応援
航さんは、兄弟が一緒に自宅で暮らし、最も長く時を共にしたのは、航さんが15歳からの6年間だとこの本のエッセイに書いている。
自由に出かけることもままならず、現在のようにSNSを使うこともできずに、ほとんど家の中という毎日は、社会との関わりが乏しい小さな「島」で二人で暮らしているかのような不思議な時間でした。(中略)お互いに兄弟という名の友がいたのは幸いでした。
家に二人引きこもり、朝から晩までテレビを眺めるしかできなかった。その後、症状が進行した兄は、家を出て病院で暮らすようになる。
航さんは鼻マスク式の人工呼吸器をつけ、ストレスからか4年も続いた原因不明の吐き気地獄の末に、「五行歌」という生きがいを見つけた。
その挑戦を誰よりも喜んだのは、一緒に先の見えない虚しい時間を過ごしたことがある健一さんだったのかもしれない。
「弟の体調が悪い時も知っているので、そこから自分で生きがいを見つけ出して挑戦しているのを応援したいと思いました。弟が頑張っていると、一応自分は兄貴だから、頑張らなくちゃいけないという気持ちも出てくる」
「住んでいる場所は違うけれど、弟が頑張っている姿を知ると、私も勇気をもらえます。弟がいなかったら、私も、今の絵を描くという生きがいを、進んで自分で見つけ出そうとは思わなかったかもしれません」
航さんが五行歌を書き始めて2年になる2006年、初めて自費出版で詩集『青の航』を出した時、健一さんも金銭面や精神面で応援した。
「ただ、兄と弟というだけじゃない。弟が懸命に取り組む姿をずっと見てきたので、応援してあげたいと思ったのです。ずっと一つのことを続けているのもすごいことだと思いました。続けることは難しく、大事なことですから」
この『青の航』が後にナナロク社の編集者に評価され、航さんは2013年7月、詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)を全国出版した。
この詩集を読んだ日本を代表する詩人、谷川俊太郎さんが「病む弱い体が、こんなにも健やかな強いタマシイを育むことができるのだと知って感動し励まされました」「あなたを尊敬し、誇りに思います」と絶賛した。
同時代で最も注目される詩人の一人となった。
制限される身体の動き 工夫で広がる技術
「五行歌」という生きがいを見つけた弟に刺激を受け、自身も打ち込めるものを探し始めた健一さん。風に揺れる満開の桜に心を動かされたことをきっかけに、花の絵を描くようになった。
当初ハガキ大の紙に水彩で描いていたが、描くことが楽しくなった頃、病状が進んでペンを手で持てなくなる。
どうしたら描き続けられるのか。
インターネットで調べ、パソコンで描く方法があることを見つけた。残された身体の機能に合わせて作画ソフトを細かく調整する術を独学で身につけ、横たわったまま描く今のスタイルに落ち着いた。
「その時々の季節や色、花の名前で検索し、花の写真を選びます。線はマウスで描くのですが、普段文字を書く設定では細かい線が引けないので、感度を下げてゆっくり細かい動作ができるように工夫しています」
「写真を見ながら下絵を描くのですが、写真を拡大して細部を描いたら、また全体の画像に戻してバランスを見ます。それを何度も繰り返して描いていきます」
その後、パレットで色を混ぜ合わせながら自分の納得のいく色を作る。
「この色つけが一番難しく、最初は思った色を出すのに大変苦労しました。色で絵の感じは違ってくるので描く工程の中で一番気を使うところです。その後、気になる細かいところを拡大して修正したら完成です」
1枚の絵にかける時間はだいたい3週間程度だ。その日の体調と相談しながら、毎日1時間ぐらいコツコツと描き続ける。
「思うように描けない時は途中でいやになったりもしますが、続けることが大事だと思うのです。弟は私が元気でいられる元です。弟が体調を崩しながらも、ずっと詩を作り続けていることに勇気をもらっています」
航さんはまたそんな兄のことを「隣にいる表現者という存在でもある」と語り、やはり兄の創作姿勢に刺激を受けている。
「作品を見るというのは人間を見るということだと思います。兄はコツコツやると素朴な言い方をしていますが、そうして誠実に積み上げてきた人の強靱さは揺るぎがない。そうした表現者が間近に、隣にいる、というのは、自分を見られているような気がします」
順調な仕事と、思うようにならない体調と
航さんは、全国デビュー作の詩集『点滴ポール』が話題になり、2015年11月には初のエッセイ集『日付の大きいカレンダー』(ナナロク社)も出版した。
創作の日々を追ったNHKのドキュメンタリーが全国放送されたり、読売新聞の医療サイト「yomiDr.」で連載を持ったりなど、活動の範囲を広げていく。
しかし、順風満帆に見える仕事とは逆に、療養生活には大きな壁が何度も立ちはだかった。
大きな壁の一つは、2016年、24時間介助を求めて仙台市役所に申請し、突っぱねられたことだ。
「両親が加齢や持病の悪化で介助が難しくなってきて、自分の生活を自分で作るために夜間も含めた24時間介助を申請したのですが却下されました。自分はどうやって生きていけばいいのかと、追い詰められました」
その時も、兄も含めた家族が常に応援をしてくれた。
「理不尽なものに対して理不尽だと怒り、抗議の声をあげると、ひるむ気持ちや怯える気持ちが出てきます。だけど、それに流されて何も言わなければ何も変わらないと思って、声をあげることができた。そして多くの人の支援もあって最終的に申請は認められました。一緒に超えてくれる人がいたというのが大きいと思います」
「兄もですが、病を抱え全身に障害を持ちながら生きるのが、そのままの自分です。病気を言い訳にするのではなく、自分の足で自分の人生を切り開いて生きたい。それでも声をあげる時には、恐れや、なんで自分ばかり苦労するのかと嫌になってしまう自分の弱さと向き合う必要がある。それもひっくるめて生きるということですが、それは一人ではできません」
「強がる気持ちをそっと手放す。そうしたら、強くなったわけではないけれども、地に足をつけて自分なりの確かな手応えを持って、一歩ずつ進むことができる。一緒に支えてくれる人のおかげで、弱さと向き合って進んでいくという変化が、新作の詩には現れてきていると思います」
兄からの手紙 気管切開を悩んで
そして、昨年秋、航さんを襲った最大の危機が、長引く痰がらみの風邪だった。人工呼吸器を使っていると、自力では吐き出すことのできないたんが詰まることは死と直結する。
特に航さんのような鼻マスク式の人工呼吸器では、たん吸引がしづらく、10月にひどい風邪をひいた時には、何度も窒息するのではないかという恐怖に襲われた。夜もほとんど眠れなくなった。
経管栄養も入らなくなり、頰がこけた。創作はもちろん、日常生活を楽しむ余裕も全くなくなった。
(こんなに苦しいなら、気管切開をしよう)
航さんは一度は主治医に決意を告げた。
「兄のように声が出せなくなる可能性は怖かったのですが、その時はそうするしかないと思っていました。近しい人にできるだけ気管切開は避けたほうがいいと言われても、『自分が引き受けなくてはならないことなのだ』と思い詰めて、他の道が見えなくなっていました」
その時、航さんの思いを聞いた健一さんが長いメールを送ってきた。
体調を気遣う言葉から始まるそのメールは、20年前に気管切開をした自身の経験を明かし、弟に悔いのない判断をしてもらいたいと願う内容だ。
具合はどうですか。
痰が絡んで酷いと聞いていたので心配していました。
気管切開の話が出ているようですね。稔(※筆者注:航さんの本名)に伝えておいた方がいいと思うところを記したのでこのことも考慮して後悔しない決断をしてほしいと思います。
気管切開後5年ぐらいは様々なトラブルがあって心身が辛かったこと、呼吸が楽になったり痰が取りやすくなったりのメリットがあること、医療器具の交換は最初出血と痛みが伴うことなどを淡々と説明した上で、最後は言葉を失う可能性について率直に思いをさらけ出している。
気管切開して22年の立場から言わせてもらうと気管切開はすすめません。気管切開しないと命の危険がある場合にする最終手段だと思います。これは、あくまでも兄の考えです。(中略)
喋れなくなってつくづく感じます。意思疎通がままならない事は、精神的に相当ダメージを受けます。
日々イライラして爆発しそうになります。余裕がなくなるため感情を平静に保ち生活することはかなり精神的にきつかったです。
稔は将来親元から離れて暮らす計画があると聞いています。
その時にコミュニケーションをスムーズにとることは
必要不可欠だと思います。喋れるカニューレが合わずに喋れなくなったら
その計画は実行出来なくなると思います。以上の事は最低限の事ですが心に留めてどうすればよいか結論をだしてください。稔が聞きたいことがあれば知り得る限りのことは答えますので聞いてください。兄より。
「自分の存在をかけて止めるという意思が強い、迫力のあるメールでした。すごく冷静に、気管切開をしたらどういうことがあるかを静かに懇々と書いています。特にコミュニケーションをとれないことで、多分そこには人には言えないような苦しみがあったのだとダイレクトにがんと伝わりました」
この手紙を読み、立ち止まってもう一度考えた航さんは、気管切開をしないことを決めた。
2017年12月に、人工呼吸器の調整や呼吸リハビリで実績のある北海道の国立病院機構八雲病院に入院して訓練し、今も鼻マスク式の人工呼吸器を使う。声を失うことはなかった。
「先を見たときその輪郭すら見えず分からないような道を歩くのは、険しいと思いますが、兄の存在は自分の灯明になっていると思います。険しいことに変わりはなくても、かたわらに互いの心を知る灯明が燃えているのは、自分の支えになっているのです」
「兄は私にとって先達です。先達というのは、手取り足取り導く者ではなくて、道を指し示す者だと思います。手紙にもそれは表れていますが、自分の見てきたことを精一杯伝えて、あとは君が考えて、決めて、進みなさい。そうして進めた歩みに後悔を残さないために」
誰かの心に届けば
父、武宏さんが「もっと多くの人に二人が作品に込めた生きる力を届けたい」と駆け回り、2014年6月には、東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市で合同作品展「生命の花 希望の詩 負けじ魂で歩む兄弟展」を開催した。ふたりのきょうだい、佳苗さんも会場の設営や準備に奔走した。
健一さんにとっては、初めて自分の作品を大勢の知らない人たちの前で見せた機会だ。
「絵を見て心が和んだとか、勇気をもらったとか励ましの言葉をいただき、自分のためにコツコツ描いてきた絵がいろんな感情を与えるんだなと初めて気づきました。その声を聞いて、いつか画集にまとめたいと思うようになりました」
40歳を過ぎたあたりから、「自分の生きた証として全身全霊で描いた絵を一枚でも多く残していきたい」という気持ちが強まった健一さん。
航さんの担当編集者から、「お兄さんと一緒に本を作りませんか?」と声をかけられ、今回、ふたりの作品を本として世に送り出せた。
「もっと多くの人に見てもらうことで、ますます絵を描く張り合いが出てきました。弟の詩と一緒に、兄弟で本という形にして残せたことすごく嬉しく思います。作品を見て、色々なことを感じてもらえたら」
航さんも言う。
「画集を出したいという兄の願いを二人で形にできたことが嬉しいです。兄と生きてきて、間近で描いてきた姿を見てきているので、兄の目標であった生きた証としての初めての画集を出せたことはとても感慨深く、純粋に喜びです」
そしてこうも言う。
「特殊な兄弟だと思われるかもしれませんが、同時に、私にとっては、ただのふつうのお兄ちゃんなのです。いつ会っても自然に会話の続きができるただの兄弟。昔から気が弱い弟で、しかたないやつだなあと思いつつ『まあ、稔もがんばれよ』って、励ましてくれる兄貴でもあるのです」
岩崎兄弟の創作に対する思いについてはこちらの記事も書いています。難病と生きる兄弟が命を注ぎ込む「生きるための芸術」の凄み
【岩崎健一(いわさき・けんいち)】画家
1969年、仙台市生まれ。3歳の時に筋ジストロフィーを発症。中学1年生の終わりに歩けなくなり、家族と離れて国立西多賀病院で入院生活を送りながら、隣接の宮城県立西多賀養護学校中等部に通う。中等部卒業と共に帰宅。1994年3月、呼吸不全に陥り、西多賀病院に緊急入院。気管切開して人工呼吸器を装着し、声を失う。いったん退院して3年間、自宅で家族と暮らすが、1997年、病状がさらに進行し同病院に再入院し現在に至る。
パソコンを独学し、手でペンが持てなくなった10年ほど前からパソコンで花の絵を描いている。現在、作品数はおよそ280。2014年6月には宮城県石巻市で、自身の絵と弟、岩崎航の詩の合同作品展「生命の花 希望の詩 負けじ魂で歩む兄弟展」を開催した。
【岩崎航(いわさき・わたる)】詩人、エッセイスト
1976年、仙台市生まれ。筋ジストロフィーのため胃瘻と人工呼吸器を使用し24時間介助を得ながら暮らす。2013年に詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)、15年にエッセイ集『日付の大きいカレンダー』(ナナロク社)を刊行。自立生活実現への歩みをコラム連載(16年7月~17年3月/ヨミドクター「岩崎航の航海日誌」、17年5月~/note「続・岩崎航の航海日誌」)。16年、創作の日々がNHK「ETV特集」でドキュメンタリーとして全国放送された。公式ブログ「航のSKY NOTE」、Twitter @iwasakiwataru
BuzzFeed Japan Medicalの外部執筆者も務め、こちらから岩崎さんの原稿を読める。