• medicaljp badge

難病と生きる兄弟が命を注ぎ込む「生きるための芸術」の凄み

筋ジストロフィーと生きる兄・岩崎健一さんの花の絵と弟・岩崎航さんの五行歌を収めた初の画詩集『いのちの花、希望のうた』が出版された。

やわらかな紫で繊細に描きこまれた兄の菫(すみれ)に、弟の五行歌が寄り添う。

兄・岩崎健一さん(49)が描いた花の絵と、弟・岩崎航さん(42)が紡いだ詩が響き合う画詩集、『いのちの花、希望のうた』(ナナロク社)が出版された。

二人とも徐々に筋肉が衰えていく難病、筋ジストロフィーを3歳で発症。人工呼吸器を使い、生活の全てに介助を必要とする。創作に使うのは、わずかに動く指先で操るパソコンだ。

健一も私も、この本を開いてくださったあなたも、この世界に生まれることは「限りある時」を燃焼して自分を生きることではないでしょうか。その時の中で、花の命に自らの「生きる」を感光させた健一の絵に、私もまた自分の生きる中で紡いだ詩を添えました。

まえがきでこう書く航さんと、絵を描くことを「生きた証」と語る健一さん。

「大切な人に贈る花束のように作った」というこの本について、お二人にお話を伺った。

インタビューは仙台市で岩崎航さんが両親と暮らす自宅から車で約40分かかる、健一さんが暮らす病院で行った。健一さんは気管切開しており、声がはっきり聞き取れないことがある。3きょうだいの真ん中にあたる佐藤佳苗さん(44)に時折”通訳“してもらいながら話した。

風にたなびく桜の花がきっかけをくれた

健一さんが、生きがいを探し始めたのは21年前、生活の場を両親や妹、弟の航さんと暮らす自宅から病院に移したことがきっかけだ。

航さんの介護も重くなりつつあった。自身もその3年前に気管切開して頻繁なたん吸引などが必要となり、兄弟二人に対する家族の介護負担は限界を迎えていた。長男として一人、筋ジストロフィーの専門病棟がある病院に移ることを決めた。

病院という場所では命に向き合わざるを得ない。当時はこの病気の呼吸管理や治療が今ほど進歩しておらず、20代で生涯を終える患者も多かった。

「病院にいると、僕より若い子たちが早く逝く姿をずっと見ることになります。自分もいつ体調が崩れるかわからないので、ただ何もしないで一日一日を過ごしたくない。何か打ち込めるものを探そう、生きた証を残したいという気持ちがだんだん大きくなっていきました」

小学生の頃から文集の表紙に自分の描いた絵が採用されるなど、絵は得意だった。だが、押し花やちぎり絵、ステンシルなど色々試してみてもピンと来ない。

心から打ち込めるものが見つからずに悩んでいた春のある日、病院でお花見の散歩があった。

「病棟の周りの桜をボランティアの人と一緒に眺めに行ったのですが、外出自体1年ぶりぐらいで、桜の花を直接見るのは記憶がないぐらい久しぶりでした。ずっと病室にこもっていると綺麗なものを見る機会がほとんどなかったのです」

当時、病院の敷地をぐるりと取り囲むように植えられていた桜の木はあたり一面満開。風に枝がたなびき、空に花びらが舞った。その光景の真っ只中にいて、健一さんの胸は強く揺さぶられた。

「今まで桜って何度か見てきたのですが、その時は感じ方が違った。言葉で言い表すのが難しいほど、すごく綺麗で心に残る桜だったのです。なんと言えばいいのか、難しいのですが・・・」

嗚呼、僕も生きているんだ 

隣で兄の話をじっと聞いていた航さんが言葉をつなぐ。

「私が第一詩集『点滴ポール』の冒頭の詩で書いた時の気持ちに近いのではないでしょうか?」

嗚呼 僕も

生きているんだ

青空の

真っただ中に

溶け込んでいる

(『点滴ポール 生き抜くという旗印』より)

「この時僕もほとんど外出できていなくて、通院のために介護タクシーにストレッチャーで乗り込む時に頭上の青空を見たんです。空をまともに見ることさえ久しぶりで、その時見た青空に、言葉にならないほど心が動かされました。まさに『嗚呼』としか言い表せない瞬間だったのです」

「合ってるのかな。わからないけど」と航さんが兄の方を見ると、健一さんが頷きながら、こう続けた。

「自分が何をしたらいいのかわからない時期でしたから、余計そんな風に感じたのだと思います。ただ普通に綺麗というだけじゃない。心が揺るがされるような・・・。その時、『自分もこんな花が描けたらいいな』と思ったのです」

当初はハガキに水彩画で描いていたが、10年前頃から病状が進んで手でペンが持てなくなり、独学でパソコンでの作画方法を身につけた。インターネットで検索した花の写真を元にパソコンで描いた280枚の中から70枚を掲載している。

詩も70編組み合わせたこの画詩集、全てではないが、航さんも花をモチーフにした詩をいくつも書いている。

「今回、花束を届けるというコンセプトの本なのですが、花をもらうと人は嬉しいし、殺風景な部屋に花が飾ってあるだけで空気が変わる。命が花開いているわけですから。季節を感じることもあるし、病気の人が『来年の桜を見られるかな』と話す時、人生や命を重ねています」

航さんも過去に、「校庭の/桜吹雪が/痛かった/ただ黙って/空を見ていた」という詩を書いたことがある。通信制の高校に通っている時で、健康な同級生と自分の境遇を比べてしまっていた時に、散って行きながらも美しい桜を見て感じた思いだった。

「兄が桜を見て美しさに心を打たれて絵を描こうと思ったように、花はその命が、見る者の命を動かす。命が響き合い、見る者の心を動かすのではないでしょうか」

「生きると直結する創作」 兄は絵、弟が見つけたのは五行歌

航さんの方は、鼻マスク式の人工呼吸器を使い始めた20歳代前半、ストレスもあってか、原因不明の吐き気地獄に4年間苦しめられた。

それが落ち着いた25歳の時、これから先の人生を考えて取り組み始めたのが言葉による創作活動だった。

「自分にできることを見つけたい。このまま寝たきりで、何もせずに一生を終えたくない。人と関わって、自分の人生を自分で作って歩んでいきたい」

そんな強い思いが湧き上がり、短歌や俳句など色々と試してみたすえに、詩の中では比較的新しいジャンルである「五行歌」と出会う。書いてみると、言葉が次々と生まれた。手応えがあった。

「自分で何かをするということがなかなかできない時期が長くあって、それは兄弟で共通しているんです。長い時間、ただ漫然と時間が流れていく。抗いようもなく、どうしようもなく、ただテレビを見て過ごすだけのような時間です」

「することを見つけたいのに見つからなくて、どうしたらいいのかもわからない。自分もこうやって生きてきたんだと、自分の手応えとして生きた証を残したい。それを見つけるまで、長い苦しい時間を兄も私も過ごしているので、単に絵を描く、詩を書くというのではなく、生きると直結する創作となっているのだと思うのです」

兄弟で過ごした幼い頃の思い出、 吐き気地獄に苦しんでいた時に背中をさすってくれた母の手、東日本大震災、24時間介助を求めて行政と戦った日々ーー。日々生き抜く中で詩が生まれ、それを「母」「ふたり」「踏みだす」「暮らし」「はたらく」「旗印」「希望」という7つの章に収めた。

そして、航さんは兄の創作についてもこう表現している。

作品を観るときに、作者の障害や生活境涯の背景に囚われては本質を見失いますが、健一自らが言う「生きがい」「生きてきた証」としての作画を見ていると、そんな鑑賞者意識というものを超えた「生きるための芸術」があることを発見します。彼の花の絵に美しさと同時に、生涯を一点の絵に注ぎ込む創造の凄みを感じるのは私だけではないでしょう。

健一が作画の心境を問われて読んだ句があります。

限りある 時を思いし 心の絵

(『いのちの花、希望のうた』より)

最初の章は「母」 大事な人に花束を

第1章のテーマは「母」となった。

健一さんは、本の最後に収められたエッセイでも、中学からの下校中に足が動かなくなり、探しにきた小柄な母がおぶって連れて帰ってくれた思い出を書く。

「学生の頃も自宅療養中も、母にはずっと世話になりっぱなしでしたから。気管切開で呼吸器をつけるようになった当時はまだ在宅医療が整備されていなくて、母はたん吸引など今考えるとすごい介助をしてくれていました。何も言わないけれどすごく大変な思いをして、ずっと励ましてくれたのも母でした」

航さんも、母に対する強い思いを語る。

「病気で色々と苦しいこと、辛いことは当然あるのですが、自分の足で自分のしたいことや自分の人生を歩んでいけるようになったのは母の支えがあったから。兄も私もそれは強くあります。だから、この本は母に贈る花束でもあるんです」

母の博子さん(76)は、この本を初めて読んだ時、ページをめくりながら何度も涙をぬぐった。

「私が思っている以上に、本人たちは辛い思いをしていたし、すごく頑張ったんだなと思いました。病を乗り越えるのは自分自身ですから、親はなんにもしてあげられないですよね。こうなってくれればいいなと祈るのみです」

「子供たち自身が強くなってもらわないと乗り越えられないと思って育ててきました。本を読み、自分は強い言葉を言ってきたんだなと気付かされましたけれど、子供たちは今生きがいも見つけて、見事に応えてくれたんだなと思います。自分のことが書かれるなんて、私はちょっと気恥ずかしいような気持ちです」

二人の息子たちは言う。

「個人的に言えば母ということになりますが、色々な人たちにとって自分の大切な存在はいるでしょうし、母でなくても自分のことを心にかけてくれた身近な人がいると思うのです。この本は、そんな大事な人、その一人の人に贈る花束でもあります。広く読まれてほしいと思います」

二人の兄弟関係についてはこちらの記事も書いています。同じ病を生きて 「弟は同志であり戦友」「兄は隣にいる表現者で自分の灯明」


【岩崎健一(いわさき・けんいち)】画家

1969年、仙台市生まれ。3歳の時に筋ジストロフィーを発症。中学1年生の終わりに歩けなくなり、家族と離れて国立西多賀病院で入院生活を送りながら、隣接の宮城県立西多賀養護学校中等部に通う。中等部卒業と共に帰宅。1994年3月、呼吸不全に陥り、西多賀病院に緊急入院。気管切開して人工呼吸器を装着し、声を失う。いったん退院して3年間、自宅で家族と暮らすが、1997年、病状がさらに進行し同病院に再入院し現在に至る。

パソコンを独学し、手でペンが持てなくなった10年ほど前からパソコンで花の絵を描いている。現在、作品数はおよそ280。2014年6月には宮城県石巻市で、自身の絵と弟、岩崎航の詩の合同作品展「生命の花 希望の詩 負けじ魂で歩む兄弟展」を開催した。

【岩崎航(いわさき・わたる)】詩人、エッセイスト

1976年、仙台市生まれ。筋ジストロフィーのため胃瘻と人工呼吸器を使用し24時間介助を得ながら暮らす。2013年に詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)、15年にエッセイ集『日付の大きいカレンダー』(ナナロク社)を刊行。自立生活実現への歩みをコラム連載(16年7月~17年3月/ヨミドクター「岩崎航の航海日誌」、17年5月~/note「続・岩崎航の航海日誌」)。16年、創作の日々がNHK「ETV特集」でドキュメンタリーとして全国放送された。公式ブログ「航のSKY NOTE」、Twitter @iwasakiwataru

BuzzFeed Japan Medicalの外部執筆者も務め、こちらから岩崎さんの原稿を読める。