新型コロナウイルスが流行する中、東北芸術工科大学が2年に1度主催する芸術祭「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」が9月5日から27日の間、オンラインで開かれた。
現役医師である稲葉俊郎氏を芸術監督に迎えた4回めの開催となる今回は、「いのちの学校」をテーマにしたプログラムで詩人の岩崎航さんも参加した。
筋ジストロフィーという難病を持ち、生活の全てに介助を得ながら五行歌の創作を続ける詩人の岩崎さん。
コロナ禍で大きく変化した社会で生き抜くための芸術の力を再発見するこのビエンナーレで、「病と創作」「コロナ禍・災害」「相模原事件と優生思想」「家族・人との繋がり」「芸術の力」という5つのテーマに沿って詩の朗読を交え、生きることと芸術の関係を語った。
筆者の岩永直子を聞き手に語った約1時間15分の動画を、詳報する。まずは「病と創作」から。
※トークは読みやすく編集を加えた上で、岩崎航さんにも確認してもらっています。
【病と創作】
人と比べてしまう自分 自殺も考えた
――岩崎さんの病は創作と強くつながっているように見えます。これまでの病の経過とどのように過ごしてきたかについて伺えますか?
私は、3歳で全身の筋肉が衰えていく進行性の難病、筋ジストロフィーという病気を発症しています。だんだんと歩けなくなって、立ち上がることができなくなり、いろいろな身体の機能が失われていきました。
そのうち車いすの生活になり、全身に障害が及ぶので、口からの食事が難しくなって、栄養を管を通して胃に直接入れています。呼吸の力も落ちるので、鼻に当てている人工呼吸器を使うようになりました。
だんだんに障害が重くなって、今は手先が少し動くぐらいしかできなくなり、ほぼベッドの上で寝た状態で過ごすようになっています。
だんだんにこのような身体になってきたのですが、今はこの病気について自分の中で受け止めています。
しかし、思春期の17歳の頃には、病気や障害を持っている自分ということを受け入れられませんでした。友人と自分の境遇をどうしても比べてしまって、「自分はできないけれど周りはできる」「なぜ自分だけできないんだ」と葛藤がありました。
ずっと人を羨んで生き、自分の持っているこの病気がなくならなければ、自分に明るい未来はないと思い込むようになってしまいました。
そして、自分で死のうと考えてしまったことがあった。でもそれをなんとか乗り切った。
20代前半になると、吐き気が酷くなる症状が出てきました。ストレス性のものだったと思うのですが、その吐き気が激烈で、そこでも打ちのめされてしまいました。何かをしようとする気力も奪われてしまったような状況でいたんです。
吐き気地獄を救った両親の手
――20代前半に何年間か吐き気が続いたとおっしゃっていましたね。
人工呼吸器や経管栄養をつけ始めた頃が21歳ぐらいなのですが、そのあたりから4年ぐらいです。酷い吐き気地獄と表現すればぴったりくるような時代があって、入退院を繰り返していました。
本当に苦しく、気力も何も失せてしまって先に希望が見えない状況の時に自分を苦しみの底から救ってくれたのは、両親が背中をさすってくれたことでした。
私が青い顔をして、吐き気の発作が起きてひとしきり中から何も出てこないのですがゲーゲーとやっている時のことです。症状に襲われるとしばらくは治まるまで何もできない状態です。
そういう時に両親が黙って背中をさすってくれた。
背中をさすったからといって治るということはないのです。薬を飲んでも治らない。どうしても治らない。お腹に刺激を与えないように食事をやめ、点滴にしてもらうことでしのぐしかない状況でした。
それでも私の回復を願い、治したい、楽にしたいという思いで一生懸命さすってくれるんです。
さすってもらうとやっぱり楽になりましたね。
その先の人生を生きるために 模索した創作
――吐き気が25歳で収まった頃に、詩の創作を考えられたのですね。
なんとかその症状が治まってくれて、少しこれから先のこと、自分の将来を考えられるようになってきたんです。
それまでに自分が創作することは考えていなかったので、できることはないか試行錯誤をするようになりました。それで色々とやってみて、5行で詩を書くという五行歌という表現を見つけました。
――その先の人生を生きていくために、創作はなぜ必要だったのでしょう?
その時は、このように全身不自由な身体でも自分のできることを何かしたいなと思って始めたんです。それが私の場合は短い詩を書く、五行歌を書くということでした。その時は、私にとってはそれができることじゃないかと見出したわけです。
――ただ毎日、胃ろうから栄養を入れて、寝て起きてというだけでは満足できない何かがあった。
落ち着いた時に、24時間こうやって寝て過ごして家の中にいると、ただ何もしないで1日を過ごすのはやはりつらいことです。なんとかしていきたいと思ったんです。
そこで初めて、自分から、人に言われてとかではなく、自分から、自分でしたいことを、自分の意思で。そういう模索を始めていったわけです。
「生存」と「生活」は違う
やはり何かが必要だったんだと思いますね。
人はただ、生きていればいい。確かに生存そのもの、そこに在ることは無条件に価値があることです。ここで「価値」という言い方を出すのもなんですが、そこに存在することそのものは無条件に大切なものです。
生きることは唯一無二のものではあるので、それを前提に話しますが、私の場合、栄養が満たされて必要な介助が受けられてなんとか「生存」していくことはできました。でもそれだけでは苦しい。
やはりそれだけで生きていくことは難しいのではないかと思うのです。精神的にも苦しいところがある。
やはり、「生存」だけではなく、「生活」が生きていく上で必要なもので、なおかつ必要不可欠なのではないか。
生きることに密接不可分なものが「生活」。「生存」は当然のこととしてあって、その延長に「生活」がちゃんとあるということがないと、生きるということが苦痛に満ちたものになってしまうのではないかと思います。
こういう治らない病気を持っていると、時に苦しい症状が出てきます。私の場合は現在は体調は落ち着いていますけれど、昔、病気によって苦しい症状があったことがある。
でもいろんな工夫や助けを経て、1日のわずかな時間であっても自分らしい「生活」というものを作ることができれば、たとえ病気による苦境があっても、生きる方向に進む。生きたい、前向きに生きるという気持ちになる。自分の中で手応えが見い出せるのではないかなと感じますね。
障害や病気があっても技術や手助けで「生活」を作ることはできる
――「生活」ってなんだろうと考えながら聞いていました。今、いろんな障害や病気を持つ人にすごく厳しい見方をする人もいます。寝たきりになったらおしまいだ、と考える人もいますね。そういう言葉についてはどう考えますか? 普通の人が当たり前のようにそんな言葉を言ってしまうことがあります。
一般的に、病気や障害を持ってしまうと今までできていたことができなくなってしまうことがあるし、「人間として一段劣ってしまう」「一段階段を降りてしまう」と、受け止めてしまう風潮があるのではないかと思います。
そういう風に思う人は割と多いのではないかと思います。
ただ、そうであっても、車いすになったらなったなりに、私のようにベッドで暮らすようになったらなったなりに、そういう状況を手助けする手段というのがあるんですね。
実際にそういう人が身近にいたりすると、いろいろな工夫や手立てがわかってくるので、一概に悲観することはないんだと思うようになったりします。
今回の芸術祭参加も、このように遠隔でパソコンを使って動画を撮っているわけですが、インターネットもありますし、日常生活をこのように広げる技術というものも出てきています。
私で言えばこういう機器を使って創作活動もし、ネットで買い物をすることもできます。SNSもあって、どんな人とでもつながりを持つこともできる。
それだけで生活を作ることはできませんが、いろんな技術や手助けも借りつつ、その人なりの生活を作ることはできると私は思っているんですね。
漆黒とは 光を映す色のことだと
ーーこの「病と創作」のテーマに沿った五行歌を朗読していただきます。
青春時代と呼ぶには
あまりに
重すぎるけれど
漆黒とは
光を映す色のことだと
自分の力で
見いだした
ことのみが
本当の暗闇の
灯火となる
動画作品「漆黒とは、光を映す色〜詩人・岩崎航が、生きることと芸術を語る」(9月25日配信)のアーカイブは以下で見ることができる。
【岩崎 航(いわさき・わたる)】詩人
筋ジストロフィーのため経管栄養と呼吸器を使い、24時間の介助を得ながら自宅で暮らす。25歳から詩作。2004年から五行歌を書く。ナナロク社から詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』、エッセイ集『日付の大きいカレンダー』、兄で画家の岩崎健一と画詩集『いのちの花、希望のうた』刊行。エッセイ『岩崎航の航海日誌』(2016年〜17年 yomiDr.)のWEB連載後、病と生きる障害当事者として社会への発信も行っている。2020年に詩集『震えたのは』(ナナロク社)刊行予定。