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私が国会議員になった理由  「どんなに重い障害があっても生きる価値を見い出せる社会を」

重度の障害がある国会議員、木村英子さんのインタビュー第3弾は、様々な社会の壁に立ち向かってきた木村さんが国会議員になった理由について伺います。

障害者が社会の中で当たり前に生きていくのに、あちこちに困難が立ちはだかる日本社会。

重度障害を持ち、自らその壁にぶつかって、一つ一つ乗り越えてきた参議院議員、木村英子さんが、政治家という新たな道に挑戦したのは、法律や制度という大きな壁を切り崩すためでした。

運動だけでは変えられない 私が出馬を決めた理由

ーー連載1回目、2回目と障害者が地域で生きづらい様々な壁があり、それに立ち向かって来られたことを教えていただきました。政治家になるというのは、まさにその社会の壁を突破するための手段だったのでしょうか?

もともと政治家にはなるつもりはなかったですし、政治家という存在はあまり好きではなかったんです。やっぱり権力を持っている人というイメージがありますから。政治家になりたいとは思っていなかった。

ただ、長年、先輩たちと運動をしてきて、行政交渉をして、少しずつ制度は変わっていきましたけれども、今すぐ介護者が欲しいという状況はこの何十年も変わっていません。いまだに、介護者募集のビラまきをしなければなりません。

介護が労働になったのは、2000年に介護保険ができてからです。2003年に「支援費制度」(障害者の公的介助制度)が始まって、本格的に介護が労働として動き出してきた中で、確かにビラまきだけで介護者集めをしなくてはならない状況は改善されました。

それでも人手不足はいまだに深刻で、議員になってもそれは変わりません。

ーーそこで、政治から突破口を開きたいと考えたのですね。

そうです。障害者運動をしていると、死にそうな状況を抱えている仲間たちがたくさんいるのです。自分も含めてその人たちの状況を変えるには運動しかないと思っていたのですが、その最中に山本太郎さんに出会いました。

太郎さんは、「障害者のことは自分ではわからない。当事者がスペシャリストなんだ」という考え方です。障害を持った当事者が国会に行って、現状を直接、訴えたり、改革したりしてほしいという思いがあり、「国会議員になりませんか?」というお誘いがありました。

すごく悩みました。

まず体力的に国会活動が続けられるか、ということが第一にありました。誰でもいいから重度障害者が国会に行かなければ変わらないと思っていましたが、でもそれが自分なのかということをずっと自問自答していました。

でも最終的には、やっぱり立つしかないなという思いから、出馬したのです。

当選後すぐ、通勤・通学中の重度訪問介護を訴える

ーー(議員会館内の事務所応接室に置かれたベッドを指して)あのベッドで休みながら国会活動をしているのでしょうか?

いやそのベッドは、私というよりは、ここに来る障害者の人のために用意しているものです。ここは障害者の人がいっぱい来るんです。色々な障害を抱えている方が来ますので、来たら休まれたりすることもあります。もちろん自分もですけれども。

ーー議員になってすぐ、勤務中にも重度訪問介護(※)の制度が使えるようにしてほしいという要求を掲げましたね。みんな悩んでいて、みんな声を上げてきたのになかなか変わらないことでしたが、素早い動きだと思いました。

※重度の障害がある人を対象に、長時間の見守りも含む介助を公的に提供する制度。通勤・通学、就労・修学中は認められないという厚労省の規定があり、障害者の社会参加を可能にするために長年、障害当事者が国に改善を要求してきたが認められていない。

それこそ、私がわたしが何十年もやってきた運動の中で、重度訪問介護の拡充はずっと訴え続けてきました。

重度訪問介護の前身で、「脳性麻痺者等介護人派遣事業」というのがありますが、これは1974年に、三井絹子さんたちが初めて東京都に作らせた介護制度です。

この運用が、今の重度訪問介護の運用の元になっているのですが、働いている時や学校で学んでいる時にも適用されるよう、ずっと訴えてきても変わらなかったのです。障害者の人以外はきっと知らないですよね。

障害者の社会参加には介護制度の充実が欠かせない

まず、わたしが国会で働くのに一番ネックになるのは介護です。

それなのに、この制度が、就労中には認められていない。

身の回りの介護は社会参加には欠かせないのに、就労・就学中には介護がうけられないというのはどうなのかなと思っているうちに、選挙が津波のようなスピード感で始まり、その中で考える暇もなく当選しました。

でも、この制度の運用のしばりがある限り、私が国会に登院できないという事実があります。どんなに、支援者の人がたくさん支持してくれても、この制度が変わらないと私は国会の活動ができないのです。

重度訪問介護が使えなくなったら、家から外に出ることもできない。これはかなり大きな問題になるのかな、あるいは潰されるのかなとか、考えながら、とりあえずメディアに訴えるところから始めました。その後、制度として認めるよう質問主意書も出しました(※)。

※国会は特例として、木村さんややはり重度の障害がある舩後靖彦さんが国会活動中の介護費用を負担することを決めたが、制度としての改善について厚労省は「必要な検討を始める」としたものの、具体的な改善方針はいまだに示していない。

ーーご自身の目の前の問題でもありましたし、全ての障害者や家族にとっても、選択肢が限られて、生活が切羽詰まっていくことを変えていくためには、制度を変えることが必要だと考えたのですね。

家族だけが介護を担ったら、それこそ悲惨な結果を招きかねない。その悲惨な結果を招く前に、家族は施設に入れていくと思うのです。

ですから、この重度訪問介護という制度が、障害者が自分のしたい生活を実現するために、あるいは地域で自立生活をできるように、就学や就労中もきちんと認めて充実してもらわないといけません。

そうでなければ、私たちはいつまでたっても施設から出られないし、施設しかないという状況になってしまいます。障害者の人たちが当たり前に地域で生きられるように、権利として認められる制度になってほしいと思っています。

障害者も健常者もみんな一緒に生きる「インクルーシブ(包摂的)な社会」を

ーー選挙運動の頃から、子供の頃から障害者も健常者も一緒に学んで生活する「インクルーシブ(包摂)教育」と訴えられていました。日常的に助け合ったり、友達になったりする経験がないから、別の世界に生きている人のような差別感や偏見が生まれるとおっしゃっていますね。

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やっぱり差別はあります。私自身、19歳で外に出てから社会に適応していくのに、何十年もかかりましたし、健常者の人と何を喋っていいのかわからない。どう話しかけていいのかわからない。

あとはやっぱり怖いのです。人に見られるのが嫌。障害がある体を見られたくないし、障害者はやっぱり恥ずかしいものという認識を持っていましたから。

親がそんな意識を持ってきたから、子どもも持つようになるのです。障害は隠すものという意識ですね。だから、最初は人に見られるのが本当に嫌でしたよね。ビラまきもいまだに嫌いです。

ーー障害がある人が、社会で活動したり外で働いたり学校に行ったりしないと、健常者たちの意識も変わらないですよね。

私のような存在がいるということを、ボランティアで介護する学生たちは初めて知るのです。最初は「自分に介護できるのかな」と怖がります。どうしたらいいのかわからないという不安を抱えている。

私と同じですよね。向こうも同じように思うわけです。

だけど、話したり、一緒に生活したりしていく中で、「なんだ、普通の人間だね」ということに気づいていくわけです。

だから介護してくれる人は私のことを普通に思ってくれますけれども、関わらない人は障害者の人とどう関係を作ったらいいのかわからないと思います。同じキャンパスや職場にいるわけではないですから。

そういう人たちに、障害がある自分たちも同じように幸せや当たり前の生活を望んでいるんだということを、経験談を話したり、講演会をやったり、体験劇をやったり、コンサートやったりして伝えてきました。

あとは自立の支援活動です。私が自立を手伝ってもらったように、私も仲間を施設から出して地域に送り出す活動をずっと続けてきました。

多摩市に「自立の家」を作り、そこで15人ぐらいの仲間を地域に送り出し、一人でも多くの人に障害者のことを知ってもらう活動と行政交渉などの「介護保障運動」をやってきたわけです。

ーー今後、政治家として制度や法に落とし込んでいくわけですね。重度訪問介護の拡充はまだ実現できていないですが、新幹線の乗車スペースなども国会で指摘して、変えていこうとしています。社会の偏見や相模原事件につながったような優生思想は、そういう積み重ねから溶かしていくしかないのでしょうか?

そうですね。まずは一緒に学んだり、遊んだり、一緒に住んだり、地域で一緒に生きていくということを実現したい。私の差別されてきた経験を元に一つ一つ、法律なり制度として改善していきたいなと思っています。

ーー雨宮処凛さんに先日インタビューした時に、「優生思想に対する最強のカウンターが二人が国会議員になったことだ」とおっしゃっていました。それぐらいの期待を背負っている感覚はありますか?

重圧がすごいですね。重圧がとても強いので、できれば早くたくさんの障害を持っている人たちが国会に来てもらえれば、わたしのこの肩の重圧は分散されると思います。それを望んでいます(笑)。

「その人の生きている価値を見い出せる社会を」

ーーご自身の障害について恥ずかしい、と捉えていたとおっしゃっていました。今はどのようにお考えですか。

人に迷惑をかける存在だ、何の役にも立たないんだ、障害が重いので自立なんてできるはずがないなどと言われたりしてきました。地域で自立することに親も教員も反対でしたし、電車に一人で乗ることすら反対されてきました。

同じ人間なのになぜ障害を持ったことでこんなにも、「人に迷惑をかけるからいなくていい」ということを言われなくてはいけないのかなと思ってずっと生きてきたのです。

でも、それはどうしても耐えられないし、納得できない。こんな自分に対し、生まれてきても仕方がないし、死んでしまった方がいいのではないかと思った時期もありました。

でも、せっかく生まれてきて、障害があってもこの世の中に少しでも自分が必要とされたり、役に立ったりする存在でありたい。

なので国会議員になって、少しでもそれが実現できるならやっていきたいです。

ーー「自立生活」や「自立」という言葉を使うときに、たった一人で生活の全てをこなせるとか、経済的に自立できる、という意味で理解している人が多いですね。

そうですよね。でも私はやっぱり、生きていることに価値がある、生きているだけでも価値があると思っています。

社会貢献の仕方というのは人それぞれ違うと思いますし、必ずしも自分のことが全て一人でできなければいけないということではない。もし、そうだったら支え合いのない、悲しい社会になってしまいますから。

自分のできないことをどなたかに支えてもらい、そしてまた身体的には何も私からは差し上げることはないですけれども、私なりの人の支え方とか、貢献できることを見つけて生きていくことは意味があることだと思っています。

どんなに重い障害を持っていても、その人が生きたいという夢や希望を持って生きていく保障が社会にあれば。そして、その人の生きる価値というものを見出せる社会になってほしいなと思っています。

「同じ人間なのに、なんで障害を持ったことで『いなくていい』と言われなければいけないのか」 相模原事件が起きた時、「やっぱり起こったな」と感じたという木村議員。 重度訪問介護の制度などが拡充されない限り、「私たちの生活はいつまで経っても、施設しかないという状況になる」と語ります。

【木村英子(きむら・えいこ)】参議院議員(れいわ新選組)

1965年、横浜市生まれ。生後8か月の頃、歩行器ごと玄関から落ちて、障害を持つ。幼少期のほとんどを施設で過ごし、1984年、神奈川県立平塚養護学校高等部卒業後、東京都国立市で自立生活を始める。障害者運動や、地域で生活したいと望む仲間の自立支援にも長年携わり、1994年には「自立ステーションつばさ」(東京都多摩市)を設立。2019年7月の参議院議員選挙にれいわ新選組から出馬し、当選。障害者が生きやすい社会のための政治活動を精力的に続けている。

全国公的介護保障要求者組合書記長、全都在宅障害者の保障を考える会・代表、自立ステーションつばさ・事務局長を歴任。共著に『生きている!殺すな』(山吹書店)『今日ですべてが終わる 今日ですべてが始まるさ』 (自立ステーションつばさ 自分史集)がある。