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和をもって極端と為す? 医療人類学者が指摘する日本の特殊なコロナ対策

新型コロナの第8波はピークを打ち、政府は対策緩和を進めています。コロナ対策が生活の全てを制限することに警鐘を鳴らしてきた医療人類学者の磯野真穂さんは、対策と緩和のバランスについてどう考えるのでしょう?

新型コロナ第8波はピークを打ち、政府は対策緩和を急いでいる。

感染症法上の2類相当の位置付けから季節性インフルエンザと同じ5類への変更、公共の屋内の場でのマスク着用原則を廃止し、個人の判断に委ねるなどだ。

第8波の余波が続く中、逼迫している救急などの医療関係者は助かる命も助けられなくなり戦々恐々としてきたが、行動制限のない冬に一般の人はすっかり行動をコロナ前に戻したようにも見える。

もう感染対策は必要ないのだろうか? 重症化リスクの高い人に自衛を呼びかけるだけでいいのだろうか?

コロナの流行初期から、感染対策が生活の全てを覆うことに警鐘を鳴らしてきた医療人類学者、磯野真穂さんと対策と緩和のバランスについて議論した。

※インタビューは1月10日に行い、それ以降も議論を重ねてまとめている。

どれだけ自粛したら医療体制は整う?

——医療が逼迫して医療関係者は苦しんでいる一方、この冬は行動制限がなくて飲食店などは一息ついている印象です。感染力の高いオミクロンの亜系統に徐々に置き換わる中、緩和とコロナ対策のバランスをどのように見ていますか?

「医療逼迫」や「医療崩壊」という言葉は、2020年4月に7都府県に緊急事態宣言が出た時から使われ続け、「医療体制を整えるため」に宣言やまん防が必要だといったことも言われてきました。

またコロナ対策には、東日本大震災の際に出された補助金をはるかに超える未曾有の税金が投入され、補助金のおかげで黒字になった病院もあるという報道すら出ています。

しかしそうであるにもかかわらず、初めての緊急事態宣言から3年経った今も医療が逼迫している。この状況に対し、「一体いつになったら医療体制が整うのか」という疑問を持つ人が出るのはおかしくないと思います。

実際にこの冬も大変な逼迫を経験している医療機関が多数あるのでしょう。でも、感染者や死亡者が今よりずっと少なかった時に同じ言葉をあまりにも使いすぎたのではないでしょうか。

医療崩壊が起こるといった恐怖を感じさせる言葉とともに、「日本もニューヨークやイタリアのようになる」「(何も対策を打たなければ)42万人死亡する」といったフレーズも頻回に使われましたよね。でも実際はそうはならなかった。

またこの3年間で国内では多くの感染者が出ました。2020年春は、ほとんどの人にとってコロナは想像の病気でしたが、今はそうではない。

このような複数の点が、「医療逼迫」という言葉が響かない原因になっていると思います。

緩和とコロナ対策のバランスについてはそれぞれの社会が選び取る問題だと思いますが、恐怖や罪悪感を煽って人々の想像力に訴えかける対策のあり方はもう通用しなくなっていると思います。

——ウイルスも変異して、ワクチンがこれまでより効かないウイルスが出てきています。健康な人は「コロナは大丈夫」と思えるかもしれませんが、感染者数が増えればその陰で亡くなる人、重症化する人も増えてきます。そちらを診ている医療者は「どうにかしてくれ」と思うわけで、その温度差が大きいです。

「どうにかしてくれ」の「どうにか」は、皆が2020年のように自粛をすることなのでしょうか。「どうにかする」ための対策が膨大な資金を投じ3年かけてもできなかった側面があるはずであり、それは何なのかを知りたく思います。

弱者を見捨てていいのか?

——その裏でワクチンをうっても免疫がつかない人や、呼吸器疾患を持っていて感染が死に直結しかねない人が少数でもいます。持病のある人や高齢者も含めて今もヒヤヒヤして過ごしているはずです。その人たちがかかっても仕方ないのだ、諦めてください、と割り切れるでしょうか?

コロナ対策について疑義を呈すると、「持病のある人や高齢者のことを見捨てるのか」「その人たちはかかっても諦めろとういことか」という批判が必ず上がります。

当然ながらそのようなことを思っているはずはありません。

ただ私は、このような批判にある種の脅しを感じるのです。

新型コロナに罹って重症化しやすい人という視点から「弱者」を決めうちし、それ以外を強者とする。その上で「あなたはその人たちに死ねというのか」といった問いを投げる。ですが、これは「問い」の形をとった相手の見方の否定ではないでしょうか。

コロナの難しさは、どの側面から見るかで「弱者」が変わることです。

誰かを攻撃したいわけではないのですが、違う視点から見るためのきっかけとして次の比較をさせてください。

例えば、弱者と言われた高齢者の中には、潤沢な退職金をもらい、年金をもらい、庭付きの一戸建てに住んで自粛生活が始まっても生活に何ら変化はなかった人たちもいます。

他方で、若くて健康であるゆえに、新型コロナの「弱者」と呼ばれることはなく、収入が激減し、補助金の基準からも外れた個人事業主のシングルマザー・ファーザーもいるのです。

さらに、このような人たちは、生活が苦しくなっただけでなく自分の仕事が「不要不急」と名指されるような、人としての尊厳まで傷つけられるような思いもしました。かれらも「弱者」ではないですか?「命があるから文句を言うな」、とかれらに言えますか?

誰を「弱者」とみなすか、「弱者」の事例としてどのような人を出すか。それによってこの病気をめぐる問題は見え方が一変します。だからこそ「〜の人は諦めろというのか」「〜は死ねということか」といったSNSを席巻するような強烈な言葉で議論を始めるのは控えるべきだと思うのです。

——私は今、飲食店でアルバイトをしているのですが、コロナ禍で本当に経営が厳しいのです。その人たちの人生を考えると、お客さんは来てほしいし、「社会は緩むな」とは言いにくくなりました。

2021年7月、東京オリンピックの始まる直前に東京都に緊急事態宣言が出ましたが、宣言が出ても人流は全く減りませんでした。ところが8月になったら突然感染者が減ったわけです。

そもそも人がコントロールできる病気ではないのではないでしょうか。とりあえず「気の緩み」のせいで感染者が増えたというような議論はやめるべきでしょう。

日本でもう感染対策はいらない?

——ではもう日本でも感染対策はいらないと思いますか?

私はいつでもどこでもマスクをするような感染対策はいらないと思います。

——でもそれは医療の専門家もずっと言ってきていることです。屋外で歩く時はマスクはしない。でも電車や屋内で人との距離が近いようなところではマスクをする、とメリハリのついた対策を求めるようになってきています。

2020年のパンデミック以前から私たちは感染対策をしていました。風邪気味の人がマスクをつける。風邪をうつされないようにマスクをする。インフルになったら、身体の弱い人と会うのは避ける、うがいや手洗いを気をつけるといった予防策のことです。

そういうふうにすればいいのではないかと考えています。

むしろ日本のコロナ感染対策の問題は、感染対策のやり方や考え方が、個々人の倫理観や人格を象徴するものになってしまったことだと思います。

——ワクチンを公費で接種する対策についてはどう思いますか?

パンデミック当初の対策としては妥当だったのではないでしょうか。しかし状況は3年前とかなり変わっていますから、今後自費負担が出ることも妥当だと思います。

私は2回までは打ちましたが、それ以降は打っていません。その理由の1つに2回目の副反応が酷かったことがあります。

私はワクチン全般の効果自体は信頼しており、不妊になるとか、免疫力が落ちるとか、そういった話に共感は覚えません。実際、インフルエンザのワクチンも毎年自主的に打っていました。

ただこれだけの短期間の間に4回も5回も打つことを奨励されること、38度、39度といった発熱の可能性があるのに、そのリスクは甘んじて受けなさいと言われることへの奇妙さを感じており、それも2回で止めたことの理由の1つです。

また日本のワクチンの歴史を見ると、ワクチン後の体調不良には、ワクチンと因果関係があるかは別として、国民も行政も医療もメディアも相当敏感に反応し、接種を進めることに慎重になっています。

ところが今回はそうではない。そこにも逆ブレを感じて違和感があります。

感染対策の要、ワクチンをどう捉える?

——ワクチンによって、もしかしたら高熱だけでは済まないかもしれないコロナの重症化予防になるとしてもですか?

他のワクチンに関しては岩永さんと同じような考え方をしますが、コロナについては先の理由からそう言われても心が動きません。

また、「リスク喚起」は呼びかけた側が必ず勝てる構造になっています。私がワクチンをうってコロナにかからなかったら「ワクチンのおかげだよ」と言われるでしょう。感染しても軽症で済んだら「それはワクチンのおかげだよ」と言わるでしょう。

逆に、ワクチンをうたずにコロナにかかったら「ほら!ワクチンをうっていないからだ」と言われるでしょうし、そのまた逆でワクチンをうって重症化したら「残念ながらそういう人も少数いる」と言われるはずです。

あと昨年コロナに罹患したのですが、その実感を持ってしても、高熱と体調不良の出る副反応を引き受けてまで頻回に打ちたいとは思いませんでした。

ただ、2回でやめた理由を一つ一つ申し上げればこのようになりますが、そこまで強い拒否感があるわけでもないので、なんらかの事情でうつ必要性が生じた際には副反応が嫌だと思いつつ接種しにいくと思います。

——私のバイト先のイタリアンレストランのオーナーシェフは一人で調理したり、仕入れたりしています。既に3回は接種しているのですが、うつと具合が悪くなって仕事に差し障りがあるからうちたくないと4回目は避けています。そのリスクの捉え方に私は口出しできないと思いました。

コロナワクチンは強制ではありません。その意味でも、うつか、うたないかの判断が、「リスクをきちんと理解していない」とか「命を大切にしていない」とか、その人自身の倫理観とか知性とかを批判する材料に使われるべきではないと思います。

日本のコロナ対策に法的拘束力があるものは少なかったわけですが、その強制力のなさを埋め合わせるかのように、ワクチンに始まる多くのことが、成熟した人間としての責務であるかのように掲げられました。

このような「対策」のあり方は見直すところが多いと思いますが、「これこそが日本」と言うことも可能です。

「和をもって極端と為す」

——今、全ての医療機関でコロナを診られるようにしようという声が高まっていて、コロナだけ特別視するのはやめようという流れができ始めています。

早くそうなってほしいと思います。発熱というのは、人間が体調の異常を感じやすい一番身近なものでしょう。その症状が出たときに受診を断られることがあるというのは、どう考えても妙です。

——風邪で多少熱が出たぐらいなら家で寝ておいた方がいいのではないかと思いますが、39度、40度の高熱で体の節々が痛くて症状も辛いという時にかかれないのはおかしいですよね。

コロナ対策に関しては、日本がこれまで経験した数々の医療をめぐる問題の対応のあり方を踏襲しており、私はそれを「和をもって極端と為す」と呼んでいます。

どういうことかというと、社会が未知の危険に晒されたとき、最悪の事例を恐れて極端な対策が社会全体でとられ、それがだらだら継続するということです。

例えば俗に狂牛病と呼ばれた、BSE(牛海綿状脳症)問題の際は、実害はほぼゼロであったにも関わらず、化粧品会社まで牛エキスを使っていないか調べるほどの牛肉パニックが起こりました。

結果政府は、科学的には意味がない全頭検査を実施します。これは意味がないけれど、全部検査をしているという国民の安心感にはつながったと言われています。でもその余波で獣医師の自殺まで起こっている事実はあまり知られていない。

もう1つの特徴は、これらの対策において政府が何かを強制するわけではないということです。

例えば、日本脳炎とHPVワクチンの副反応報道がなされ、国民の不安が高まったとき、政府がやったのは「積極的勧奨の一時停止」。つまり「積極的にはお勧めしません」という声明を出しただけです。

「積極的に勧めない」という文言の意味もよくわかりませんが、それだけで接種率はガクンと下がり、その状態は何年も継続しました。

コロナの場合も政府が何かを国民に強制したわけではありません。やったことは常にお願いです。

しかし、いまだにレジの横にはビニールシートがかけられ、飲食店の席の間にはアクリル板が置かれ、人は屋外でもマスクをし続けている。極端なところでバランスが取られ、それが変わらないのです。

加えていまだに「気の緩み」などという精神論が持ち出される。皆それぞれが気を張って生きていると私は思いますが、感染者の増加と「気の緩み」という捉え難い姿勢が因果関係で結びつけられるのです。

感染対策をマナーにした罪

もう一つ、感染対策をマナーにしてしまった罪があると思います。なぜなら、マナーに根拠はいらないからです。

例えばテーブルマナーがなぜそうなっているか考えると、「そういう風に決まっているから」です。もちろん歴史を辿れば何らかの根拠は見つけられるはずですが、マナーを守る人全てがそんなことをするわけではありません。

マナーとは、そう決まっているからそのようにすべきものなのです。

でもそうであるにも関わらず、マナーを守らない人は道徳的糾弾の対象になります。これがマナーの力です。

マスクを公共の場でしないことを、電車の中で携帯電話で話すようなものと考えれば、マスクを外すことの難しさは明白でしょう。

ベルギーに住む友人が教えてくれたのですが、ベルギーでロックダウンがなされたとき、彼女の住む地域では5分以上ベンチに座ってはいけないというルールが設けられたそうです。加えて、外で座っているとドローンが飛んできて、「座るな」と注意されたと。

おかしな対策ですが、政府が「もうこの対策は終えます」と言えば、すぐに終わるのです。それはマナーではなく、政府が上から押し付けたルールだから。

日本の場合、そのような理不尽な統制はひかれなかった。それはとても良いことでしょう。でも他方でマナーと化した感染対策は止めるに止められない。その典型がマスクです。

居酒屋やカフェなどでマスクを外して友人たちと話しているのに、移動するとなると途端にマスクをつけるシーンが今の日本社会では頻繁に見られます。この奇妙な風景も、マスクがマナーになったからと考えればわかりやすくないでしょうか?

飲み会を復活する大人と黙食する子供

——他方、飲食店での飲み会は第8波がピークの頃にも盛んに行われていました。飲み会の自粛はマナーではなくルールだったのでしょうか?

感染予防に関する全ての対策をマナーとルールで厳密に分けて分析したわけではないのでなんとも言えませんが、マナー化したマスクに比して、飲み会の作法は変わらなかったということはできるかと思います。

——8波の最中に専門家やメディアが救急の逼迫を訴えても、みな「普通の生活に戻って何が悪い」という方向に傾いていました。「マナーはなかなか崩せない」という指摘とは違う動きのような気がします。

確かにそうですね。感染予防のマナー化は、マスクの使い方を見て考えたことなので、暮らしの全てには敷衍できないとご指摘を受けて思いました。

「普通の生活に戻って何が悪い」といった批判めいたことを考えて行動していた人がどれだけいたのかは疑問です。

しかし、先にお話ししたように「医療逼迫」という言葉があまりに何度も使われたため、すでに響かなくなっている側面はあると思います。

——一方で、子供の給食中の黙食を解除すると千葉県知事が表明した時、医療従事者は一斉に批判しました。ルールの解除に関しても意見が分かれています。

大人たちは繁華街で黙食をせずしゃべりながら飲んでいるのに、子供に関しては黙食が強いられました。

子供の黙食解除を批判するならば、飲み会をする大人をまず批判してほしい。

子供たちは、自分達が学校で黙食を課されているのに、学校の外ではそうではないことの矛盾に気づいているはずです。このような矛盾を長期に渡り作り続けてしまったことの弊害はこれから現れるのではないでしょうか。

(続く)

【磯野真穂(いその・まほ)】医療人類学者

1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。研究テーマは、リスク、不確定性、唯一性、摂取。

著書に『なぜふつうに食べられないのかーー拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界ーーいのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(宮野真生子氏と共著、晶文社)、『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』 (集英社新書)がある。