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「音楽ファンは腹をたててほしい」 3ヶ月ぶりにオケを鳴らした指揮者が訴えたいこと

新型コロナウイルスで過度な自粛ムードが広がる現状に、音楽家の立場から異議を唱えていた指揮者の井上道義さん。3ヶ月ぶりに指揮をとった今、改めて音楽ファンに語りかけます。「この状況を受け入れないでほしい」

新型コロナウイルスの流行で公演のキャンセルが相次いでいた指揮者の井上道義さんが、7月3日夜、3ヶ月ぶりに川崎市のミューザ川崎シンフォニーホールで、東京交響楽団の指揮をとった

川崎市が支援し寄付を募る無観客・無料のオンライン配信で演奏したのは、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。フルオーケストラよりもかなり小さい33人の編成だ。

奏者は通常よりも互いに距離を取り、マスクをつけながらの演奏となる。

4月にはYouTubeで配信した動画「のんちゃんとコロナ」で、小学校時代の同級生だった感染症の専門家、のんちゃんこと岡部信彦さんと対談し、行き過ぎたコロナ対策を批判した井上さん。

「自粛の圧力に3月からずっと怒っている」と語りながら、音楽ファンに問いかける。

「みんな、音楽を聴きに来れなくていいの? この状況に腹をたててよと僕は思う。受け入れないでほしい」

※このコンサート「川崎市&東京交響楽団 Live from MUZA! マッチングギフトコンサート」Vol.3は9月末までニコニコ生放送で視聴することができる。

リハーサルで調整する奏者の距離と音

本番に先立ち、6月30日に行われた最初のリハーサルも取材した。

オケのメンバーに床をドンドン踏み鳴らされて歓迎を受けた井上さんは、最初にこう奏者に語りかける。

「人の意見が怖い、人の目が怖い病気です。マスクをつけなかったらああだこうだ言われることが怖いというおかしな状況になっている」

「音が出しにくかったらマスクを取ったらいい」

呼気で演奏をしない奏者はみんなマスクをつけて演奏する。途中、バイオリン奏者の質問が聞き取れず、井上さんが「聞こえないのは俺がジジイだからなのか、君のマスクのせいか」とただす場面もあった。

練習中、井上さんが後方にいる奏者に何度も指示したのが、音を強く鳴らすことだ。

「バスーン(ファゴット)がちょっと遠いんだよね。もっと強めに。ティンパニも強めに。ラッパもホルンももっと強くていい。一人一人の音が欲しい。出してください」

一番後ろのティンパニは聞こえ方が気になって、位置も変えさせた。

東京交響楽団では奏者同士、左右は通常40〜50センチの距離を取るが、コロナ対策で今は80センチ。前後は通常1.2メートルだったのが、今は1.5メートルだ。

今回の編成には入っていないが、飛沫が飛びやすいとされるフルートはさらに多めに距離を取る。

クラシック音楽での感染対策については国内外で飛沫がどこまで飛ぶか実験が行われており、ウィーンフィルの実験でも、東京都交響楽団の実験でも通常の距離で通常の演奏をしても感染する距離まで飛ばないという結果が出ている。

ステージマネージャーの山本聡さんは、「通常の距離でも大丈夫という実験結果も出ていますが、やはり気になる人もいると思うので多めの距離を開けています。とにかく演奏したくてうずうずしているメンバーにどうやったら演奏させられるかを考えました」と話す。

金管楽器の奏者の足下には見慣れぬ白い紙が置かれている。

「吸水シートなんです。唾液がどうしても垂れるので、こちらで購入して使ってもらっています」

楽団員の思いは...

一番後ろの席に座るホルン奏者の阪本正彦さんは、当初、通常より遠い距離のため他の奏者の音の聞こえ方が違うのに戸惑った。練習を重ねるうちに少しずつ慣れてきたと言う。

3月下旬から公演が全てキャンセルになり、自宅練習が3ヶ月続いた。

「時間があり過ぎてどうすればいいのか最初は呆然としていました。でも、普段はできない自分の技術を見直すチャンスだと思うようにして、基礎練習を繰り返していました」

「でも...」と阪本さんは言う。

「僕らはオーケストラのプレイヤーですから、やっぱり他のプレイヤーと合わせた音楽を奏でたい。やはり寂しかったですよ」

6月26日には久しぶりに観客の入った公演で演奏した。

「お客さんからもらうエネルギーを僕らも味わいながら演奏しています。今回は無観客の公演ですが、徐々にお客さんに戻ってきてほしい。それが本来の演奏ですから」

リハーサル終了後、井上さんに「オケの実験で通常の演奏方法でも問題ないって知ってるだろ。科学的に問題はないのに、社会の目を気にして従っているだけなんだよ」と声をかけられたコンサートマスターの水谷晃さんは、こう話す。

「今の状況がおかしいことはわかっています。でも僕らの業界はお客さんが安心して来てもらえないと成り立たない。社会の反応を見ながら、マスクも必要ないけれどもつける。演奏会に不安を持ってもらいたくないからです」

そんな水谷さんは本番で楽団員が揃いのグレーのマスクをつける中、唯一、マスクなしで演奏した。

本番当日 画面を埋める「888888888888888」

本番当日、フルートとハープの二重奏、管楽器のアンサンブルの後に登場した井上さんは、客のいないステージに向かって右手を大きく振り上げて挨拶すると、演奏を始めた。

ニコニコ動画の生中継の画面には「888(パチパチパチ)」と拍手を表す文字や「さあ、指揮者が踊る」と井上さんの指揮のスタイルを待ちかねたファンのコメントが流れる。

第2楽章のゆったりとしたシシリー風リズムで井上さんは、両腕を大きく広げ天を仰いだ。この3ヶ月間足りなかった音楽を、自身が全身いっぱいに浴びているように見えた。

演奏を終え、ガッツポーズをして、「終わり!」と告げた井上さんの画面の上は「888888」「ブラボー!」「アンコール!」で埋め尽くされる。

再び舞台の袖から出てきた井上さんは、「いいホールです!早くお客さん来てほしい!」と叫んだ。

アンコールは「上を向いて歩こう」

アンコールは、「僕が若い頃、ヨーロッパの田舎町でオーケストラをやって疲れ果ててバーに行くと、必ずこの音楽がかかっていた」と、坂本九の「上を向いて歩こう」の演奏を始めた。

川崎市出身の坂本九のこの曲は、JR川崎駅の発車のベルにもなっている。川崎市民には馴染み深い曲だ。

全員立ち上がって演奏し、井上さんは最初は観客席の方を向きながら、その後、楽団員の間を歩き回りながら、踊るように指を鳴らし指揮をする。

「なんか涙出てきた」「涙出てきてしまった」「涙こぼれちゃったよ」

画面にはそんなコメントが流れていく。

井上さんは初めて指揮する曲だ。オケ側から提案されて決めた。

「後ろ向いて歩くな。横の人の顔色見ないで歩こう。自分がどう思われるかなんて考えないで歩こう。ちゃんと主体性を持って、自分にも近くにいる人にも責任を持って歩こうという思いですよ」と選曲の理由を教えてくれた。

最後は演奏しているオケを残し、一人後ろ手で立ち去っていった。

「『一人ぽっちの夜』だからだよ」。自分は一人でも自分の思う道を歩くぞという気持ちだからだと取材に教えてくれた。

感染対策をアドバイスした「のんちゃん」へのエール

井上さんが壇上で最後に叫んだ言葉は「のんちゃん元気になってね!」。

のんちゃんこと、川崎市健康安全研究所長の岡部信彦さんはコンサートの感染対策について川崎ミューザや井上さんにアドバイスをしていた。本番当日は、会場に観に来る予定だった。

ところが直前に過労によるものか、蜂窩織炎という細菌感染症で足が腫れ上がって入院し、来られなくなったのだ。

岡部さんは病院のベッドの上で演奏を見た。

「良かった!おかげさまでのんちゃんの病気も治っちゃいそうです」とコメントをくれた。

また、コンサートの様子を見て、岡部さんはコンサートホールにこうアドバイスをした。

「あの編成なら、コンサートマスターがやっていたようにマスクなしでもOKのように思いました。適切な距離で、話をしない、大きな声を上げないという条件ですから。次回より検討して頂いてよいと思います。もちろん誰がアドバイスしたか、明らかにして結構です」

「ホールで音楽を聴けないことを受け入れないで」

演奏を終えた井上さんは、やり切った表情を浮かべていた。

「とてもハイクオリティのモーツアルトが届けられたと思います。元来この曲をやるにはこの編成が一番いいサイズ。奏者との距離の問題も大丈夫な曲を選べましたから、逆にこの状況だからこそできた演奏で超運がいいです」

この3ヶ月間、自宅でオペラミュージカルの作曲をしたりそれに使う絵を描いたりしながら過ごしていた。でも、やりきれない思いをずっと抱えていた。

「俺は3月からずっと怒っている。何やっているんだ、世界中!って。少なくとも日本は相当安全であるにもかかわらず、対策は副作用の方が強い劇薬を国中の人に飲ませた大げさなものと言えます。その怒りをこの演奏中はあまり感じることがなくて助かった。怒るって身体に悪いものね」

「人間は何か一つ、信じることをやっていなければ生きた心地がしないのかもしれない。音楽もそのうちの一つ。それにもかかわらず、自分の定規で他の人の定規を決めるようなことが起きている。人それぞれなのに。それぞれの考えを尊重しながら生きる知性があるはずなのに」

無観客の演奏はやはり違う。

「指揮者はお客さんが後ろに座っていることを忘れて演奏するんです。でも始まる時と終わってからの本当にわずかな時間、スポーツ選手がシャワーを浴びるような拍手は僕らにとってはすごく嬉しい。それがないことは相当虚しい感じはする」

音楽になぜ観客は必要なのだろうか。井上さんはこう思っている。

「なんでも相手がなきゃ。赤ん坊の時から感激したり絶望したり怒ったり悲しんできたりしたことは、みんな人との間で生まれたことです。音楽は観客が2000人でも1万人でも5人でも究極同じです。でも、近くに誰かがいないと」

「音楽は何かを語っているわけですから。物語を話しているわけですから聴いてくれる相手がいないと。『あなた』という身体を持って来てくれる相手がいないと。収入が減ったとしても目の前のお客さんに演奏したい。僕はね」

「ただ僕は、僕ら(演奏者)のことなんてどうでもいいと思っています。僕らは演奏できて喜ばしいだけです。だけど、それを聴きに来られない皆さんはそれでいいの?と言いたい。腹立ててよと僕は思う。それを受け入れないでほしいと思う。それがファンってものじゃないですか?」

「演奏者と観客が同じ時間を共有するコンサートって、なくても良い、いわゆる不要不急のものなのか。ファンが『三度の飯より好き』とか言うのはやっぱり社交辞令なのかなあと思ってしまう」

7月13日にはサントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団と共に久しぶりに観客が入る公演に臨む。それでもコロナ感染対策で観客は半分しか入れない。

「コンサートホールは音楽がもっとも輝く場所。感激が一生残る場所」

井上さんはそう信じて、観客がホールを埋め尽くす時が戻るのを待っている。

【井上道義(いのうえ・みちよし)】指揮者

1946年東京生まれ。桐朋学園大学にて齋藤秀雄氏に師事。1971年ミラノ・スカラ座主催グィド・カンテルリ指揮者コンクールに優勝。1976年日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で日本デビュー。1977年から1982年までニュージーランド国立交響楽団の首席客演指揮者、1983年から1988年まで新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督、1990年から1998年まで京都市交響楽団の音楽監督、常任指揮者、2014年から2017年まで大阪フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者、2007年から2018年まではオーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を務めた。

これまでにシカゴ響、ハンブルク響、ミュンヘン・フィル、スカラ・フィル、レニングラード響、フランス国立管、ブタペスト祝祭管、KBS響、およびベネズエラ・シモンボリバルなど世界一流のオーケストラへ登壇。

1999年から2000年にかけて新日本フィルハーモニー交響楽団と共にマーラー交響曲全曲演奏会を取り組み「日本におけるマーラー演奏の最高水準」と高く評価された。2007年日露5つのオーケストラとともに「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト」を実施し、同プロジェクトを収録した「ショスタコーヴィチ交響曲全集 at日比谷公会堂」BOXを2017年2月にリリース。2014年4月に病に倒れるが、同年10月に復帰。2015年全国共同制作オペラ「フィガロの結婚」(野田秀樹演出)を総監督として、10都市14公演の巡回公演を成功させた。

1990年ザ・シンフォニーホール「国際音楽賞・クリスタル賞」、1991年「第9回中島健蔵音楽賞」、1998年「フランス政府芸術文芸勲章(シュヴァリエ賞)」、2009年「第6回三菱UFJ信託音楽賞奨励賞(歌劇イリス)」、2010年「平成22年京都市文化功労者」、社団法人企業メセナ協議会「音もてなし賞(京都ブライトンホテル・リレー音楽祭)」、2016年「渡邊暁雄基金特別賞」、「東燃ゼネラル音楽賞」、2018年「大阪文化賞」、「音楽クリティック・クラブ賞」を受賞。オフィシャルサイトはこちら。