「スケボーでのアメリカ大陸横断」に挑戦したトランス女性のストーリー

    キャリー・リトルは昨秋、女性として初めてスケートボードでアメリカ大陸単独横断に挑んだ。その道中でキャリーを待っていたのは、過酷な天候と、見知らぬ反トランスジェンダー派の人々だった。しかしこの挑戦は、仲間と自分自身を発見する旅でもあった。

    26歳のキャリー・リトルは、アメリカ大陸をスケートボードに乗って単独横断するにあたり、キャンプ用調理器具からトイレットペーパー、大量のエネルギーバーにいたる何から何までバッグに詰め込んだ。冬を乗り切るための装備の中に、ウォータープルーフのリキッドアイライナーも忍ばせて。

    アメリカの西海岸から東海岸までスケートボードで単独横断した初の女性になろうという野心を胸に抱いたキャリーは、10月にオレゴン州ベンドを出発し、マサチューセッツ州ボストンを目指した。

    しかし、初日を終えるころにはへとへと。長い距離をスケートボードで走る経験は十分に積んでいたとはいえ、重い荷物を背中に背負ってひたすら前進することには慣れていなかった。「まさに出だしでつまずいてしまったんです」とキャリーは話す。おまけに、足首の怪我で、出発直前の2か月間は寝たきりの状態だった。

    私はキャリーで、トランスジェンダーで、女性なんです。

    1日目は、オレゴン州のハイウェイの路肩をくねくねと進みながら、ボードができるだけグラつかないようなルートを選んで25マイル(約40km)前進した。日が暮れるころには、詰め込んだ装備のほとんどを道端に捨てていた。トイレットペーパーも、大量のエネルギーバーも、調理器具もだ。要らない荷物を、た明るいオレンジ色の雨具に包むと、ナイロン製の表面にアイライナーで「ご自由にお持ちください」と書いて置いてきた。

    数週間後、キャリーはそのときのことを振り返り、「必需品以外はすべて置いていきました」と語った。「その日の夜に使わないものは不要だと決めたんです」

    装備が軽くなり、荷物の総重量は15kgになった。でも、アイライナーはキープした。アイライナーは、ほかのものにはない目的を持ったサバイバルキットだったのだ。

    出発してから1週間ほど過ぎたころ、アイダホ州のモーテルにいるキャリーと電話で話をした(モーテル泊は、1週間のキャンプ生活という過酷な日々を過ごしたあとの休息日だった)。

    「アイライナーは毎日使っているんです」とキャリーは言った。

    「(アイライナーは)大切。私はトランスジェンダーなので、たくさんの人から男性と思われ、『彼』と呼ばれたりします。声は男みたいだけど女っぽい服を着るし、自分が望んでいるほど女性らしく見えないけど、メイクはしている」

    「でも、そういうことで他人が戸惑うのは、私にとってはいいことなんです。それがきっかけでトランスジェンダーの話になりますから。私は私らしくしていたい。私はキャリーで、トランスジェンダーで、女性なんです」

    キャリーは幼いころ、自分がなぜ女性らしいものに引き寄せられるのか理解できなかった。「インターネットがいまほど普及していなかったから」とキャリーは言う。「ほら、いまどきの子どもなら、10歳でTumblrにログインできるし、『トランスジェンダー』と検索すれば、それが何を意味するのかすぐに理解して、『自分はこういう人間なんだ』とわかりますよね」

    キャリーは高校生になると、お酒に溺れるようになった。マサチューセッツ州の生まれ育った町近くのカレッジに進学すると、お酒の量はますます増えた。「男性としての役割を果たそう」と考えたキャリーは、男子学生で構成される社交クラブ「フラタニティ」に参加した。しかし、アルバイトも恋愛も長続きせず、家族やフラタニティ・ハウスのメンバーには食ってかかった。「やけくそ」だったという。

    フラタニティ・ハウスに置くためにビアポン(水もしくはビールが入ったカップに、ピンポン玉をテーブルの両端から投げ入れあうゲーム)を遊ぶテーブルを作ったり、パーティーで先頭に立って仲間を盛り上げたりと、典型的な男らしさを演じようとした。さらには、部屋に女性を連れ込んだが、それはセックスするためではなく、彼女たちの洋服を着てみるためだった。

    「頭の中はつねに違和感でいっぱいでした」とキャリーは思い返す。「自分らしく生きていないような感じ。他人の人生を歩んでいるような感じ。それに、死ぬまでずっとこの落ち着かない気持ちを抱えたままなんじゃないかという大きな不安を感じていました」

    スケートボードに全神経を傾けて、ジェンダーについてはなりゆきに任せるようにしたんです。

    違和感に耐えかねたキャリーは、ルームメイトに何も言わずにフラタニティ・ハウスを出ると、ふたたび両親と暮らし始めた。自宅に住んでいるあいだに、その大きな不安が「これ以上我慢できないレベル」に達し、キャリーは両親にカミングアウトした。しかし、両親は理解してくれなかった。やがてキャリーは家を出て、それから2年間、両親と話すことはなかった。

    キャリーは「二重生活」を送り始める。日中は男性として行動し、夜になると女性になって、仲のいい友人たちとバーをはしごして飲み歩いた。

    キャリーは、「クレイグリスト」サイトで空き部屋を見つけた。そして、その部屋で暮らし始めた日を境に、完全に女性として生きていこうと決意した。「リーという名前にしたかったんです。カレッジで憧れていた女性の名前だったから。でも、『リー・リトル』なんて、これ以上ないくらいばかみたいな名前でしょう?」とキャリーは笑う。「だから、キャリー(Cali/Calleigh)にしたんです。カリフォルニアに住むのが夢だったから」

    お酒に溺れる日々はその後も続いた。友人とのつきあいを絶ち、家族とけんか別れしてからというもの、男性から女性に移行する間に支えになってくれる人がほとんどいなかった。「私はずっと、自分が女性であるような気がしていました」とキャリーは話す。「でも、女性として受け入れてもらえるよう導かれた経験もなければ、影響を受けたことも一度もありませんでした。ひたすら職場と自宅を行き来するだけの日々はとてもつらかった」

    そんなある日、キャリーは車を運転中に雪だまりに突っ込む事故を起こし、飲酒運転で捕まった。免許が取り消されてしまい、12kmも離れているアルバイト先のレストランと自宅を往復する唯一の手段はスケートボードだけとなった。

    「おかげで、自分のジェンダーとか、友だちがいなくて孤独だということ以外に集中できることが見つかりました。スケートボードに全神経を傾けて、ジェンダーについてはなりゆきに任せるようにしたんです」

    カレッジを卒業すると、キャリーはカリフォルニア州南部の町オーシャンサイドに移り住み、ソーシャルメディア・マネジャーとして働き始めた。南カリフォルニアに住むことが夢だったのだ。ところが2017年3月、会社が自分を追い出そうとしていることに気がついた。重要な業務は一切させてもらえず、会社とは関係のない仕事が与えられる状態が何週間も続いたのだ。結局キャリーは5月初めに解雇されてしまった。

    大学でコミュニケーション学の学位を得ていたので、夏のあいだずっと、その方面の仕事を探したものの、9月になると諦めて、ハンバーガー店で働き始めた。生活していくためだった。

    キャリーは以前から、アメリカ横断の旅を夢見ていたが、もっと何かをしたいという気持ちがわいてきたのは、ファーストフード店での仕事と、恋人との別れがきっかけだった。

    「私はハンバーガー屋で働くために生まれたわけではありません」とキャリー。

    「毎日へとへとになって家に帰るなんて嫌だと思いました。もっと何かをしなくちゃと考えたんです」

    ハンバーガー店のレジで1週間働いただけで、キャリーはカリフォルニアを離れる決意をした。月末で仕事を辞めることにして、それまでに徹底的に節約してお金を貯めようと決めた。その間、どのルートを通るか、旅の計画を立て始めた。数週間後には、キャリーは出発地点のオレゴン州にいた。持ち物の大半は、売ったり預けたりしていた。

    想像以上に厳しい旅の道のり。壁を乗り越えても、また次の壁が立ちはだかる。

    キャリーは、スケートボーダーとして輝かしい経歴を持っている。2017年には、総走行距離346kmの大会「マイアミ・ウルトラスケート」の女性部門で準優勝した。

    第8回「セントラル・マス・スケート・フェスティバル」では優勝もしている。それでも、大陸横断が過去の競技経験よりもタフになるであろうことはわかっていた。15州を通過し、標高は高いところで約3000メートルもある。

    オレゴン州からマサチューセッツ州へのルートでは、アメリカ北部の厳しい冬を経験することになる。猛烈なブリザードの中を歩いたり、テントと自らの体熱だけで暖を取りながら野宿したりせざるを得ないこともあるだろう。

    でも、やらなくてはならなかった。キャリーはこれまでずっと、うずうずと落ち着かない思いを抱えながら、放浪する生き方に憧れてきた。一カ所に自分を縛りつける仕事がなくなったいま、ようやくその夢をかなえるチャンスが巡ってきたのだ。

    旅への一歩を踏み出すと、「私は有頂天でした」とキャリーは語る。「体が適応し始めたんです。『キャリー、君はいま旅をしているんだよ』と言っているみたいに」

    スケートボードでの旅は困難を極めた。氷点下の寒さの中で、キャンプして長い夜を過ごさなければならないことや、何日も食事抜きのことはしょっちゅうだった。ワイオミング州の州境に着いたとき、飲み水がなくなった。

    ホバック川の畔に公営のキャンプ場を見つけてあり、夜はそこに泊まることにしていたのだが、冬期のため、水道や手洗い所などの設備は使えなかった。ガランとしたキャンプ場にはキャリー1人だった。「ひどい悪夢だった」とキャリーは言う。

    「川の近くにいたかったんです。テントの中にいて、まわりで何かがガサガサいう音を聞いているなんて最悪だと思って。でも、川の音はほとんど聞こえませんでした。何かが動いている音がずっと聞こえていて、ムースかクマだろうと思っていました。あのあたりで襲ってくる動物は何種類かいるんです」

    キャリーは気が気でなかった。怖くて眠れず、冷や汗をかきながらずっと起きていた。服が汗でびしょぬれになり、「結局、マイナス7℃の寒さの中、素っ裸で眠りについた」という。一晩中寝返りを打ち、冷たい山の空気がテントに吹き込んでくるたびに、はっと目が覚めた。

    そのときは、ムースやクマと遭遇することなく朝を迎えたのだが、その数週間後、またしても危うく死にそうになるほどの恐ろしい経験をすることになる。ジアルジア症(下痢を起こす感染症)に罹ったのだ。

    どの町からも何マイルも離れている場所で、喉の渇きが極限に達し、スケートボードに乗ることすらできなくなったキャリーは、水筒を川の水で満たした。しかし、オレゴン州を発つ前に「ライフストロー」(携帯型浄水ストロー)を試してみなかったため、使い方がさっぱりわからなかった。

    「ほんとに喉がカラカラだったんです」。その数日後、ワイオミング州パインデールで1日休みを取り、ようやく温かい食事にありついて、ハンターのグループと知り合いになったキャリーは、電話口でそう語った。

    「川の水はとても冷たくて、願いがかなえられたような気分でした。ワイオミングで一番澄んでいて、一番美しい水でした」

    ライフストローの使い方は簡単なはずだ。器具を水中に入れて垂直に保ち、30秒ほどそのままにしておいたあと、吹口から水を吸えばいいのだから。しかし、不安に満ちた一夜を過ごして疲れ切っていたキャリーは、頭が働かなかった。

    「ものすごく腹が立って、泣きわめきながら石に叩きつけて割っちゃったんです」とキャリーは笑う。

    キャリーはライフストローを使わずに川の水を飲んだ。「何時間も何時間もずっと水を飲めなかったあとに、やっと水を飲めたときのあの気持ちは、とても言葉にできません。体が生き返ったような感じでした」

    元気は出たものの、水と一緒に細菌や寄生虫も飲んでしまったかもしれないという不安がつきまとった。キャリーはもともと、「なぜか興味がある」ので、車にはねられて死んでいる野生動物と一緒によく自撮りをしたが、こうした動物たちの死骸は、さっき水を飲んだ川のすぐ近くにあることを思い出した。

    キャリーは残りの水筒を川の水で満たし、旅を続けた。しかし数週間後、ジアルジア症を発症し、熱と下痢、激しい腹痛に襲われた。急遽シカゴの友人宅に泊めてもらい、2日間ベッドの中でのたうち回った。

    医者には行かず、鎮痛剤の「タイレノール」とビタミンCサプリメントを飲んだ。川の水を飲んだせいでジアルジア症にかかったとはわかっていたが、健康保険がなく、救急外来にかかる費用は払えなかった。キャリーは、川の水の寄生虫による腸の感染症を、高額な抗生物質なしでやり過ごそうと決めていた。

    トランスジェンダーの女性として、居心地の良い領域から1歩踏み出す。 

    「諦めて家に帰らなければならないかと思いました。長距離バスか飛行機か何かで。それまで何かを諦めたことがなかったので、そういう選択肢はなかったのですが、ただ不安だったんです」とキャリーは言う。

    「人口が多くて医療機関も山ほどある都市のまん中で、医療費を払えないから死ぬなんて、あまりにバカみたいでしょう?」

    旅を始めてすぐに、キャリーは世界記録への挑戦を諦めた。足首の怪我を抱えて出発し、冬が迫ってくる中でキャンプ生活を続け、さらにジアルジア症にもかかった。1人でアメリカ全土をスケートすることをためらう気持ちがあった。激しい吹雪の中、積もった雪でスケートボードが走らなくなったキャリーはトラックに乗せてもらった。ペンシルベニア州の山々をスケートボードで越えるにはあと2週間必要だとわかったとき、ジアルジア症からまだ回復途中だったキャリーは、バスのチケットを買った。

    しかし、スケートボードを使わない行程があることには、メリットもあった。もしスケートボードだけで駆け抜けていたら、もっと孤独な旅だっただろう。キャリーは、クラウドファンディング「GoFundMe」のページにこう書いた。

    「旅の途中の素晴らしい出会いを無視して、下を向いたままスケートしていくことができると思うなんて、とんだ誤解をしていました」

    ボストンにたどり着くことは、記録を破ることよりも、トランスジェンダーの女性として、居心地の良い領域から1歩踏み出すことの意味合いが強くなった。

    スケートボードでアメリカを横断するなかで、キャリーの外見に戸惑う人や、キャリーのことを「彼」と呼ぶ人などたくさんの人に出会った。その多くは、取り合わずに無視することができたが、反撃したケースもいくつかあった。

    インディアナ州のバーで、客が自由に参加できるオープンマイクのステージがあったときのこと。ある男性が、67歳のトランスジェンダーの女性と寝たというジョークを披露した。「大丈夫。6年前に手術したから、ヴァギナは新しかったんだ。6歳の子とセックスしてるような感じだったね」

    「面白くも何ともなかった」とキャリーは私に語った。「だから、ステージに上がってそいつを突き飛ばし、ヘッドロックしてやった」。喧嘩が始まり、店中が入り乱れての大乱闘になった。キャリーはまともにパンチを食らう前に、何とか店を出ることができた。

    無神経な言動や差別を受けたのは、それが初めてではなかったし、そのあともそういう目に遭った。

    トランスジェンダーの女性としては、宿泊場所を見つけることも大変だった。たいていの場合キャンプは耐え難いほどの寒さで、かといってモーテルは贅沢すぎて払えなかった。そこで、ただで泊めてくれる人を探して「カウチサーフィン」(ネット上の無料国際ホスピタリティー・コミュニティー)を探した。

    ネブラスカ州では、出会い系アプリ「Tinder」で全員を右スワイプ(気に入った人を振り分ける方法)したところ、マッチした1人が温かいベッドを提供してくれた。「しかも彼、すごくいい男だった」とキャリーは言う。「そこからはいろいろあったわ」

    だが、インディアナ州ではそうはいかなかった。ソファとシャワーを提供すると言ってくれた女性が、キャリーがトランスジェンダーだと知ると申し出を却下したのだ。「今晩予定があることを思い出したので、泊められません」とその見知らぬ女性はメールしてきた。

    「(笑)おっぱいとペニスが凍えて取れちゃったらいいのにね、とにかくありがとう」とキャリーは返信した。

    しかし、それ以外の地域ではキャリーは歓迎された。トラック運転手は彼女を乗せてくれ、食べ物を買ってくれた。キャリーのアメリカ横断ストーリーに魅せられた、喧嘩好きなバーの常連たちとも仲良くなった。シカゴに住む女性は、キャリーがゆっくり休んでジアルジア症から回復できるよう、自分のベッドを使わせてくれた。

    「私はきっと、アメリカ中に私のハートをひきずり回したことで、心のかけらたちをそこに残してきたのだと思います」

    感謝祭の日、キャリーはニューヨーク州グリーンフィールドを走っていた。オルバニーの北64kmほどの距離にある町だ。夜は1人でキャンプするつもりだったが、キャリーを追い越した車の女性ドライバーが車を停め、ぜひ町の食事会にいらっしゃいと勧めてくれた。

    そこではみなが親戚のようだった。キャリーはニューヨーク市まで車に乗せてもらい、そこから、ロードアイランド州プロビデンスまではバスを使った。ボストンまでの最後の約80kmはスケートボードに乗った。そして、オレゴン州ベンドを出発してから48日後に、ボストンマラソンのゴールラインに到達した。

    「たひたすら集中していました」とキャリーは語る。

    「あと一蹴り、あと一蹴り、最後まで行ったらそれでおしまい。そう考え続けていました。ゴールラインを越えても、越えたことに気づかなかったくらい。『信じられない、ついにやったんだ!』という感じでした」

    大喜びでゴールラインの向こうで止まったキャリーは、ボイルストン通りのまん中で、アメフトのボールのようにスケートボードを地面に叩きつけた。バックパックが重すぎてキャリーは倒れこみ、待っていた友人たちが、ボトルに入ったシャンペンを彼女の頭にかけた。「いい気分でしたよ」。キャリーはマサチューセッツ州の実家から電話でそう話した。

    ゴールしたときのことを語るキャリーは、しかし憂鬱そうだ。旅を終えて以来、出発したときの2倍、どうしたらいいかわからなくなっていた。キャリーは子どものころ住んでいた家に再び住んでいた。家族がキャリーのジェンダーを受け入れ、また家に迎え入れてくれたのだ。

    キャリーが家を出て2年後、母親が仲直りのプレゼントをくれた。ハイヒールの形をしたクリスマスオーナメントで、「キャリー」と名前が彫ってあった。

    キャリーがカリフォルニアで生活していたとき、母子の仲は近づいた。頻繁に電話で近況報告し、「家族らしく話していた」という。父親との関係は難しいままだ。キャリーによると父親は、飲むとわざと彼女のことを「彼」と言い、本名で呼ぶという。

    「父親としては問題ないけど、私のジェンダー・アイデンティティーには、父は決して歩み寄れないのです」とキャリーは説明した。

    3人の兄弟も実家に住んでいるため、キャリーはソファーで寝ていた。やる気がなくなっていた。仕事もなく、スケートボードで目指すゴールもない。自分らしく過ごすために日々やるべきことはほとんどなかった。キャリーはブログにこう書いた。

    「私はもう冒険家ではなくなった。ほかに行くところもない、ただの人」

    最新のブログを投稿する数日前、1日1日を生き抜く生活から、やっと毎晩安心して眠れる場所がある生活に変わったことついて、キャリーは考えを述べた。

    「私は自然の中でサバイバルする生活の方がいい」。キャリーは躊躇なくそう言った。「そこには、自分自身と、そして自分の前に立ちはだかる試練があるだけだった」

    マサチューセッツ州の11月にしては、いつになく温かかったので、キャリーは実家の庭から電話してきていた。兄弟たちのトレーラーはまだ家の前の私道に停まっていた。電話口から、ニューイングランドの微かなそよ風が感じられた。「今は、自分と、自分が属したいとすら思わないこの世界がある」

    キャリーは、2018年1月のマイアミ・ウルトラスケートに参加する予定にしていた(結果は女性の部で1位だった)が、そこまでたどり着かなければならなかった。貯金は使い果たし、携帯は強制解約される寸前だった。払わなければならない請求書はあるが、仕事はまだ見つかっていなかった。しかし、新たな冒険を見つける決意は持ち続けていた。

    「家庭は心の拠り所だという人はたくさんいます」。ボストンでの輝かしいゴールを果たした2週間後、キャリーはFacebookに投稿した。「でも私はきっと、アメリカ中に私のハートをひきずり回したことで、心のかけらたちをそこに残してきたのだと思います」


    This essay is part of a series of stories about travel.


    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:遠藤康子、森澤美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

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