毎日最期を覚悟していた……イスラム国監獄 生存者の声

    壁に殴り書きされた電話番号が、囚われていた男性との面会につながった。

    シリア北部の町、テルアビヤド。IS(イスラム国)のジハード戦士たちは、地下牢獄へと続く階段の上に、走り書きをしていた。「立ち入り禁止」の注意書きだ。

    地下の暗闇の中には、ずっしりとした机の後ろに、埃をかぶった椅子があった。かつてはISの衛兵が監視していたその牢獄は、現在は空っぽで、したたり落ちる水の音だけが聞こえる。ここで囚われていた人たちが体験した恐怖を思い起こさせるのは、今となっては壁のメッセージだけだ。新参者たちは、机のところで先にいた囚人たちと出会うこともあった。「死はあなたのもとへおとずれる。神は偉大だ」

    トルコへ渡る国境に近いテルアビヤド北部の古いビルの地下室。かつてそこに囚われた囚人たちは安全からすぐ近い距離にいた。ISは2014年6月にテルアビヤドを占拠。対立する武装勢力によって退却させられるまで1年間街を支配した。牢獄は国境に近接しているせいで、シリア政府が空爆の標的にするのは難しく、密輸入者や難民たちもそこにいた。囚人たちはISの過激主義カリフ制の残酷な虐待に直面しながら、トルコの国境警備や、NATO同盟による民主主義の生活からも近い距離にいた。

    地下で一番大きな部屋は、断首刑の宣告を受けた人たちの部屋だった。ラジエーターの上にコーランが積まれており、囚人たちは最期の日を待つ間、コーランを読むよう命じられた。ドアの外には別の命令が落書きされていた。 「近づくな」

    囚人たちはホールの先にあるいくつかの小部屋に押し込まれていた。彼らは部屋のコンクリートの壁に暗号めいた言葉を刻んだり、鉛筆で書きこんだりした。 「神の許しを請え」と書かれたもののほか、こんな書き込みがある。「神にも慈悲はある」

    自分の名前を書いた者もいる。残された時間を記録したものもいくつかある。そのひとつは、46日で終わっていた。電話番号だけを書き残したものもある。どの壁にも数字の羅列が書き込まれていた。

    電話番号のほとんどは、今、使われていない。先日の夜、ある電話番号にかけたところ、穏やかな声の男性が電話に出た。「この番号をどうやって手に入れたのか?」と聞いてきた。

    男性は26歳。昨春、父親と共に投獄されたという。親子はテルアビヤドの街で野菜の露天商をしていた。切羽詰まってタバコの密輸に手を出し、ISの民兵に捕まり、コンクリートの地下室に閉じ込められた。それは彼の心の中に鮮明に残っている。「決して忘れることができない」と彼は言う。

    男性は、難民として暮らしているトルコ南部の街で会うことに同意した。彼はお茶をすすっていた時、落ち着かない様子だった。自分もいつか牢獄で死ぬのだ、と思いながら、数々の電話番号が書きこまれていたコンクリート壁に自分の番号を書き加えたことを思い出したのだ。別の囚人が彼に言った。「殺されたら、ここにあなたがいたことを、誰かが家族に伝えるだろう」

    そう話しながら、彼の両手は震えていた。彼は無事に牢獄から出ることができ、ISがテルアビヤドから撤退しているにも関わらず、ジハード戦士たちが彼を監視しているのではないかと心配し、彼らについて語ることを恐れていた。牢獄での記憶がよみがえると、彼は両手の中に顔をうずめた。

    「もし彼らがあなたを殺せば、ここにあなたがいたことを、誰かが家族に伝えるだろう」

    牢獄での毎日は、小部屋に押し込まれた十数人の囚人たちが叩き起されることから始まった。ジハード戦士たちが囚人を殴ったり、囚人たちに祈りを強要することもあった。ISの狂信的なイスラム教を学ぶためのコースもあった。 囚人には1日に1回、夜にほんのわずかの食事が与えられた。 彼らは他の部屋にも彼らと同じ運命にある男たちが囚われていることを知っていた。「殴られているときの声は、彼らに聞こえていたはずだ。彼らが殴られているときに聞こえていたから」と、彼は言った。

    囚人たちはトルコとの国境の向こう側での生活のことばかり考えていた。「自由は、私たちのすぐそばにあったんだ」

    囚人たちは、反政府武装集団や、必死に家族を養おうとしていたアマチュアの密輸業者、ISの厳格な行動規範に違反した男たちだった。彼らはみな、コーランのある部屋に呼ばれていくことを恐れていた。「毎日、起こされると、ああ、今日が最期の日かもしれない、と思っていたんだ」と、彼は言った。

    他にも3人、壁に自分の電話番号を書きこんだ元囚人たちと電話がつながった。

    そのうち1人は、6月にテルアビヤドからISを掃討したクルド民兵らに捕えられた。 クルド人民防衛部隊、またはYPGと呼ばれる者たちだ。彼らはISの囚人を地下室から解放したが、代わりに自分たちの囚人を一時的にこの地下室に監禁した。 テルアビヤドで電話がつながったこの男性は、他の元囚人たちと同じように、身の安全を守るため匿名を条件に語った。男性は昨秋、数週間を地下室で過ごしたという。YPGの看守たちは彼を殴ったが、彼はそれよりもっとひどいことがあるのを知っていた。「毎日、私がここから出る前にISの戦士たちが戻ってこないよう、祈っていたよ」

    もう1人の男性は30代。ずんぐりとした体形で、髭はきれいに剃ってある。彼はISの忠実な一員だという。ジハード戦士たちによって地下の牢獄に投獄されたのは、「自分が悪い人間だったから」だったそうだ。テルアビヤドの国境ゲートの側にあるトルコの街で交わした短い会話の中で、彼はそれ以上のことを明かすことを拒んだが、ISの領土に戻るつもりだ、と言った。「 もう一度、ISに参加する機会を待っているんだ」

    さらにもう1人の囚人は、元農民の33歳の男性だった。彼は戦争の間、家族を支えるために秘かにタバコを販売していたときに捕まり、ISによって投獄された。「彼らに殺されると思ったんだ」。覆面をした守衛が監房から囚人を連れ出しに現れるたびに味わった恐怖を思い出した。誰も戻ってこなかった。彼らがどうなったか、知らされることもなかった。 ほとんどが殺されたのだろうと彼は確信している。「私たちはいつも泣きながら祈り続けていたさ」と、彼は言った。

    トルコの街で、お茶を飲み終えた元野菜露店商の男性には忘れられないことがある。投獄されてから1カ月が経とうとしていた頃、彼の父親の名前が呼ばれたのだ。心配する息子は監房に残され、父親が戻ってくることをただむなしく願った。

    数日後、今度は彼がジハード戦士に監房から引きずり出された。父親はISと一緒に働くよう命じられたが、拒否したのだという。 父親は囚人たちが恐れる部屋に連れて行かれ、コーランを読むよう手渡された。そして殺された。

    恐怖に襲われ、息子は民兵に忠誠を誓った。密輸から足を洗う約束をし、そして解放された。

    その直後、彼はトルコに脱出した。難民として単純作業で日々の生活をつなぐ今もなお、牢獄の記憶と彼の父親がたどった運命に苦しめられている。「罪悪感を感じるんだ」と、彼は言った。「奴らは父を殺したが、私を解放したのだからね」