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科学者になった元日本兵がいま、後悔していること。「神風なんて吹かないと…」

元気象庁気象研究所室長で理学博士の増田善信さん(97)。太平洋戦争中は海軍少尉として「天気予報」の任務に携わっていた歴史の生き証人が語る「科学と戦争」と、現代への警鐘とは。

太平洋戦争中、日本軍に天気予報に携わる専門の部署があったことは、あまり知られていない。

気象情報は戦時中、軍事機密となり、一般の市民に届けることは禁じられた。いまでいう「気象予報士」たちは、そうした時代を、どう生きていたのか。

決死の作戦に向けて飛び立つ海軍パイロットたちに、予報を伝える任務も担ったことがある男性は「天気は戦争のためのものじゃない」と言葉に力を込める。

そして、「科学が不合理に支配されてはいけない」とも。

「神風なんてね、吹くわけがないと思っていたんですよ。それはわかっていた。でも、そうは言えなかったんです」

こうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、元気象庁気象研究所室長で理学博士の増田善信さん(97)。先の戦争では海軍少尉として天気予報に携わっていた、歴史の生き証人だ。

「いい予報を出して、飛び立つ隊員たちに無事に帰ってきてほしいという気持ちがありましたね。もちろん一方では、帰ってくるほうが少ないのではとも、思っていましたが……」

関東大震災が起きた1923(大正12)年、いまの京都府京丹後市の農家に生まれた。

家は貧しく、勉強が得意だった増田さんを学校に通わせるために、父は地主から新たに田んぼを借り、兄や妹は働きに出た。小作料を納めるために地主の家に米俵を届けに行く年末が「本当に嫌だった」と振り返る。

親きょうだいに迷惑をかけないよう、官費(奨学金)で入ることのできる学校を選ぼうと、陸軍幼年学校や海軍兵学校を目指したが、視力や体力面で弾かれた。

その後、いまの中国にある旅順工科大学の付属教員養成所に合格したが、兄の入隊と重なり、母親の懇請に負けて辞退した。

そうしたなかで、中学校の教師から「そういえば物理が得意な生徒を探している人がいる」と紹介された就職先が、今の京都府宮津市にあった測候所だった。

測候所に入ったのは、1941年4月のこと。無線機から流れるモールス信号による気象電報を受信して天気図に起こす作業や、日夜屋上にのぼっては日々の気象観測をする作業に従事することになった。

そして天気は「機密」になった

1941年12月8日、午前7時。家々のラジオから威勢の良い軍艦マーチが流れるなか、増田さんは出勤した。

「トヨハタ、トヨハタ」が気象電報のコールサインだった。しかしその日、無線から流れてきたのは、聞いたことのない数字の羅列。増田さんはすぐに駆け出し、所長に報告をした。

無線から聞こえてきたのは、暗号化された気象情報だった。所長は金庫から乱数表を取り出し、増田さんもともに、解読作業にあたった。

この日、日本はハワイ・真珠湾のアメリカ軍に攻撃をしかけ、太平洋戦争が開戦。空襲などの作戦に重要な情報となる天気予報は、軍事機密になったのだ。

それから終戦まで、新聞やラジオに天気予報が掲載されることは、なくなった。増田さんが近所の人たちに伝えることも、やはり禁じられたという。

「宮津は漁港ですから、毎日のように漁師さんと駄弁りながら、天気予報を聞かれるということがあった。洪水の予報を伝えることも。だから、測候所の人はわりあい、みんなから信頼されていたんですね。でも、戦争がはじまってから、一切天気は教えちゃいけない、ということになったんです」

戦争のためなら仕方ないという気持ちの一方で、予報をたよりに生活していた農家や漁師たちに天気を知らせることができないことには、心苦しい思いがあった。

「日本海側にはね、『欺瞞天気』というのがあるんです。低気圧が日本海に入ると、快晴になる不思議な現象です。この低気圧が秋田付近にいくと、そのあとがすごい暴風雪になる。これが明日起こることがわかっていても、外海に行こうとしている漁師さんに教えてあげられなくてね……。今日はこんなに天気がいいんですが、明日はどうですかねえ、というのが精一杯だったですね」

「任務」としての天気予報

その後、増田さんは1944年9月に海軍に入隊し、翌年3月には、気象教育を専門とする茨城県の海軍航海学校分校(のちの海軍気象学校)に入ることになった。

教育は厳しく、毎日のように上官から苛めを受けた。「生きては帰ってこれない」と言われていた太平洋南部の激戦地に「一等兵」として送ることを意味する「罷免」をちらつかされることも、あったという。

なんとか卒業すると、米子の美保航空隊を経て、建設中だった出雲の大社基地に海軍少尉として配属された。

基地では、食べ物に困ることはなかった。風呂場での背中洗いから洗濯まで、身の回りの世話をしてくれる従兵もつく「至れり尽くせり」の日々だったそうだ。従兵には毎日のように、軍用たばこの「誉」を持たせて帰らせたという。

そんな増田さんの任務はもちろん、天気予報だった。美保航空隊では無線から聞き起こした天気図を片手にいくつもの部隊の部屋をまわって、敬礼をしてから、上官に気象情報を報告したが、大社基地では飛行長だけでよかった。

「戦争に勝たなきゃいかんという使命感は、最後まで持っていた。だから、天気予報を出す以上は、正確に伝えなきゃいけないと思っていましたよ。こんなやり方で勝てるのかという疑問もあったけれど、そんなこと言えるわけもないですからね」

出撃する隊員たちに…

大社基地には魚雷を搭載できる陸上爆撃機「銀河」が約50機配属され、ジェット式の人間爆弾「桜花」も配備されていた。

1945年8月。増田さんは数回にわたり、基地から沖縄方面に飛び立つ隊員たちに、黒板に天気図を張って航路と那覇上空の天気予報をレクチャーする役目を担わされた。

当時、沖縄はすでに米軍の占領下にあった。そこに向かう任務に、命の保証はない。いわゆる「特別攻撃隊」としての編成は組まれていなかったものの、この作戦はまさに「特攻」そのものであると感じていた。

「滑走路が1本でしょう。1機あがって、2機目がいくまでに40分くらいかかる。まず一番機があがると、穴道湖という湖の周りを発光信号を点滅させながら、ずぅっと旋回するんですよ。数が揃うまでそこで待ってから、ちょうどきれいな夕焼けのなかを、南西の方向に編隊を組んで飛んで行ったんですよ」

滑走路の横にある指揮所前で増田さんの天気予報を聞いてから、隊員たちは飛び立った。その一方で、「前方に積乱雲あり」と引き返してくる機体も、あったという。増田さんはこう振り返る。

「そのときは飛行長に呼び出されて『なけなしの油を使っていくんだから、まともな天気予報を出せ』と叱られたんです。私はデータを全部揃えて、『積乱雲なんてありっこない』と説明した。そうしたら飛行長が『もういいんだよ』と言われたんです。ああ、そこで気がついた。帰ってきたかったという人もいたのだと。あんな説明、しなければよかったと、いまでも後悔していますよ。本当に恥ずかしいことをしたと……」

一連の出撃の記録が一部、残されている。当時の「戦時日誌」によると、8月7、8日の出撃だけで、3機が散った。行方不明者、つまり戦死者は9人だ。

一方で7日の戦果は「なし」。8日も戦果は「不明」だが、消息を絶った1機については戦場に到達したことは確実だったとして、「相当の(戦果)ありたるものと認む」とだけ記されていた。

「まだ戦えるぞ」とふるった拳

この攻撃から1週間ほどあとの8月15日、日本は戦争に負けた。

「玉音放送は、よく聞き取れませんでしたね。ただ、負けたということはわかった。すぐに下宿先に帰って、戦病死されたそこの息子さんの写真を前に、戦争に負けて申し訳ないと正座をして、頭を下げましたね」

当時、増田さんは「五・一五事件」の青年将校の考えに共鳴し、右翼思想に傾倒。血気も盛んだった。

その夜には基地で仲間たちと飲み会を開き、「まだ戦えるぞ」と拳を振るった。基地には、本土決戦に備えていた無傷の爆撃機「銀河」が多く残されていたからだ。

さらに、徹底抗戦をうたうビラをつくる手伝いもした。これと同様のビラは終戦から2日あと、美保航空隊の海軍機によって松江の上空からばら撒かれた、という記録もある。

とはいえ、数日後には熱狂も落ち着き、増田さんは宮津の測候所に引き揚げることになった。

最後の夜、こんなことがあった。下宿先で酒の饗応をされたとき、つい酔いが周り、国民学校の教師をしていた相手に八つ当たりをしてしまったのだ。

「神風が吹くなんてでたらめを、あんたたちが子どもたちに教えたからこんなことになるんだと、一晩中当たってしまったんですよね」

終戦の日に、兄は死んだ

頭にあったのは、戦争に負けたことだけではなかった。学問の道に進んだ増田さんを支えてきた、兄と、父、ふたりの死だ。

増田さんの兄は、終戦のその日、息を引き取っていた。陸軍兵としてフィリピンの上陸作戦に従軍。激戦をなんとか生き延びたが、指を数本失ったうえ、マラリアを患い後遺症に苦しんでいたのだ。

一方の父親は、兄が戦地で一時行方不明になったとの報を受けて心を病んだのち、戦時中に亡くなっていた。病院船に収容された兄の消息が判明したのは、その1ヶ月あとのことだった、という。

敗戦のこと、兄のこと、父のこと。あの8月、自分はどこかで自暴自棄になっていたのかもしれない、といまなら思える。

「兄も、そして父も、ある意味では戦争に殺されたようなものなんですよね。そんな気持ちも、どこかにあったのかもしれません。ふたりとも、本当に優しい人でしたから……」

「酒を飲んで当たってしまった先生には申し訳ないことをしましたね。だって、本当のことを言えなかったのは、彼だけじゃない。自分だって、思っていたことは言えなかったんですから……」

天気予報は、平和のシンボル

「東京地方、きょうは天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」……

戦争が終わってから1週間後の8月22日、新聞とラジオに向けた天気予報が復活した。増田さんは当時のことを思い出しながら、こう言葉に力を込める。

「天気予報は、戦争のためにあるわけではない。本当は、誰かの命を守るためにあるもの。平和のシンボルなんですよね」

戦後は気象庁に入庁。気象研究所で予報にあたり、東京大学で理学博士を取得。台風の進路予測などに取り組むかたわら、労働運動にも携わるようになった。

また、原爆投下後の広島・長崎とその近郊で降った放射性物質を含む「黒い雨」に関する研究も進め、どこに黒い雨が降ったかを示す独自の「増田雨域」を発表。

これは後に、近郊部で黒い雨を浴びたのに、爆心地から距離があったため「被爆者」と認められなかった人々が被爆者認定を求めた裁判で、有力な資料となった。

昨年からは、厚生労働省が設けた援護区域を見直すための有識者検討会の委員も務めている。

増田さんは戦後70年以上にわたって、誰かを救うための科学に、邁進してきたのだ。

科学が「不合理」に動員されないよう

増田さんは1978〜83年、日本学術会議の会員にも選ばれことがある。あるとき、講演を頼まれ、学術会議の前身の「学術研究会議」が、戦後すぐの1946年3月にまとめた建議を見つけた。

「われわれの祖国が、今この筆紙に尽くし難き悲運に逢着しつつある根本的原因は、従来長きにわたり政治の局に立つものはもとより、国民一般が学問を軽視し、真理の命ずるところを無視し、国民一般の生活はもとより、文化、経済、政治が不合理なる精神によって支配され、不合理に営まれ来たりことに存す」

だからこそ科学者は、国の再建のため、「戦時中の科学技術振興とはまったく異なる意味において、全国の科学力を結集して、科学行政を合理化し、科学者の政治に対する発言権を強化する必要がある」。建議には、そう記されていた。

一方の学術会議は1949年の創設翌年、「わが国の科学者がとりきたった態度について強く反省」する声明を発表。「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わない」という強い姿勢を打ち出したのだった。

「戦争のあいだは、すべてが不合理だったわけです。そして、科学もそれに動員されていたんです。その反省の上に立った建議を土台に、学術会議はつくられたのだと知って、驚きました」

最近、学術会議の任命拒否問題が大きく報じられるなかで、増田さんはこの建議を思い出した。

そこにある通り、合理的であるべき科学が不合理な精神に動員されることを避けるために。政治からの距離感と発言権こそが大切だと、戦争を知るいち科学者として、感じているからだ。

今年3月にはオンライン署名「Change.org」で任命拒否撤回をうったえ、6万を超える署名を集め、内閣府にも直接提出した。増田さんは言葉に力を込める。

「戦争の反省に立った学術会議が、政治により変質されようとしていることには、非常に大きな危機感を覚えています。その理由や手法はまさに不合理の極みです。なんとか防がないといけないという気持ちで、署名を集めました。政府には署名を形式的に受け取るのではなく、きちんと受け止めてほしい」

「もちろん学術会議側も、コロナなどの様々な問題で積極的に発言をしていくべきでしょう。外から言われてからではなく、自分たちで議論するようにならないといけない。科学者が、いまこそ誠実に、純粋に科学に従っていくことが一番大事だというふうに、思いますね」


参考文献

いま甦る山陰海軍航空隊「大社基地」(陰山慶一,島根日日新聞社,1996年)

気象と科学(増田善信,草友出版,1984年)

天気予報 混乱の中の復活(読売新聞,1995年7月19日)


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