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かつて、大相撲の土俵に上がった女性がいた。地方巡業で起きた前代未聞のできごと

女大関「若緑」の送った人生とは

若緑関という女性力士がいた。裸一貫で「女相撲」の角界に飛び込み、各地の巡業で人気を集め、女性力士の頂点である大関に上り詰めた人物だ。

そんな若緑関は引退後、大相撲巡業の主催者として、公の場で土俵に上がったことがある。

いまから60年前のこと。なぜ、彼女は「女人禁制」の場所に立てたのだろうか。

17歳で角界デビュー

若緑関は、戦前の日本で人気を博していた「女相撲」発祥の地、山形県で1917(大正6)年に生まれた。

幼い頃から力自慢だったという。そんな彼女が角界入りしたのは17歳、女学生だったころだ。

地元にやってきた「石山女相撲」の興行を見て、その虜に。「相撲取りになりたい」との思いを捨てきれず、両親の反対を恐れて家出し、門を叩いたという。

「強い女性だったんでしょうねえ。家を出てまでして、知らない世界に飛び込むのだから」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、「若緑関」こと遠藤志げのさんの息子・泰夫さん(70)だ。

若緑関は、たった3年間で「女相撲」の頂点である大関に昇進。一躍、人気力士となった。ブロマイドの売れ行きもナンバーワンだったほどだ。

「看板大関になってからは、全国各地を巡業してまわって、一世を風靡したんですよ。満州や台湾のほうにも行ったそうです」

泰夫さんによると、当時の女性力士たちは相撲だけではなく、力芸や踊りを披露していたという。

30人ほどの一団となって、全国をまわった。普段の稽古では「男相撲」(大相撲)の力士とぶつかることもあったそうだ。

「当時はエログロだと誤解されることもあったようですが、決してそんなことはなく、正当な相撲を取っていたし、芸事も修練したエンターティナーだったわけです」

戦争を機に引退、そして…

そんな若緑関は、24歳で現役を引退することになる。

太平洋戦争がはじまったからだ。興行は続けられなくなり、興行は解散してしまった。

彼女は巡業先で「ご贔屓」だった知人の伝手を辿り、愛媛県は北条(いまの松山)に。そこで子どもを授かり、小料理店「若緑」を開いたのだった。

それでも、角界との縁はきれなかった。男相撲の巡業が松山にあるたび、若緑関は「現役時代の稽古のお返し」と、力士たちをかいがいしく世話をしていたそうだ。

なかでも同時期に活躍していた、高砂部屋の前田山とは親しくしていたという。泰夫さんはいう。

「そんな前田山は、戦争で相撲をやめてしまった母の花道を飾る『引退相撲』を開こうと、わざわざ北条での巡業を企画したんです」

「巡業の主催者である勧進元は母になるのですが、前田山はあいさつを土俵上でするよう母に言ったのです」

聞こえたどよめきと歓声

泰夫さんが若緑関の人生を描いた著書「女大関 若緑」には、2人のこんなやりとりが記されている。

「皇后陛下でも大相撲の土俵に上がれないことはワタシも知っています。恐れ多くて土俵には上がれません」

「たしかに神代の昔からは女は一度も土俵に上がったことはない。でも、いつまでもそんな考えをしているのは時代遅れだ。日本の封建的な時代は、今度の戦争で終わったんだ」

固辞する若緑関に対し、前田山は「あれほどのスター力士だったのだから」と強く頼み込んだという。責任はとる、とも。

そして、1957(昭和32)年3月末。若緑関が主催となった巡業が、北条で開かれた。

製材所の広場に設けられた土俵上に、意を決した若緑関が紋付きの着物姿で上がると、観客からはどよめきとともに、こんな掛け声があがったという。

「いよ!若緑、日本一ィ」

「女人禁制」の議論だけではなく

会場にいた、当時10歳だった泰夫さんも、その勇姿を笑顔で見届けた。

「上がってええんかのう、と会場もざわめいたようですが、大きな問題になるわけでもなかった。お母さんはすごかったんだと、誇らしかったですね」

女手一人で子ども3人を育て上げた若緑関は、60歳で亡くなった。後年になっても、この出来事を嬉しそうに振り返っていたそうだ。

「当時としても前代未聞のことでした。前田山も破天荒な人だったから、この2人じゃなかったら、こんなことは実現しなかったでしょうね」

「ただ、もう2度と土俵には上がれないともよく言っていました。土俵の神様から『男の土俵には上がったらいかん』と叱られているように感じたのだそうです」

そのうえで、泰夫さんはこうも語った。

「大相撲における女人禁制の議論だけではなく。日本には80年近く続いた女相撲の世界があったということ、そして私の母のような人がいたということを、これを機に知ってもらいたいですね」