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「私が娘を殺したんだ…」母と僕が、悔い続けたこと。あの日、2人の妹を失った家族の知られざる被害【東京大空襲】

たった数時間で10万人の命を奪った3月10日の東京大空襲。下町に暮らす多くの民間人が犠牲になった。当時「日本人」として生きていた朝鮮半島出身の一家が、体験した「戦争」とは。

「お前の顔が見たくない」。ほんの軽い気持ちで妹に投げかけた、照れ隠しの言葉。

それが最期になるとは、思っていなかった。僕は後悔し続けてきた。78年ものあいだ。


1945年3月10日、東京の下町を襲った「東京大空襲」。アメリカ軍は、約1700トンともいわれる焼夷弾を投下。あたりは火の海と化した。

死者10万人以上。そのなかで、当時「日本人」として生きていた朝鮮の人たちの被害があったことは、あまり知られていない。

「このままじゃ、なかったことにされるんじゃないか」。あの日、妹2人を亡くした在日朝鮮人の男性は、そう語る。戦後78年のいま、あらためて思いを聞いた。

「あんな小さい頃に亡くなってね……。自分のきょうだいが戦争で犠牲になったということはね、もう1番辛いことなんですよ」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、金栄春さん(87)。在日朝鮮人2世の男性だ。

両親は日本が植民統治した時代の朝鮮半島南部出身。土地政策で、農家だった父親の実家が困窮。父親は16歳で職を求めて来日し、滋賀県の鉄工所に勤めた。故郷での見合いを経て、東京へとやってきたのは20代後半のころだ。 

「父は、床屋の修行から始めたんですよ。自転車の荷台に理髪の道具を入れてね、職安(今のハローワーク)の広場に乗り付けて、そこで散髪をやって。それが大当たりして、ずいぶんと繁盛したんですね」

父親はその稼ぎを使って、両国と錦糸町駅のちょうど中間あたり、線路のガードのすぐ近くに店を持つことになった。その伝手を頼って来日した朝鮮半島の人たちが多く、弟子として働いていたそうだ。

1935年に生まれた金さんも、大勢であふれる床屋の2階で育った。いまの墨田区、当時は本所区。下町での賑やかな暮らしが、幼い頃の記憶だ。

「2〜3歳のころかな。床屋はすごく流行ってね。本当いろんな人がお店にいたのを覚えていますよ。しょっちゅう外からも人が来てね、遅くまでみんなで食べたり、飲んだりしていましたね」

「名前は“金原”という日本名に変えさせられていたけれど、朝鮮人であることは隠していませんでした。キムチもちゃんと漬けて、つくってたしね。差別はもちろんあったけれど、みんな、負けないで生きていたんですよ」

順風満帆だった暮らし、しかし…

父親の床屋は順調で、その後は小さな金物工場の経営を始めた。2人目の妹や弟にも恵まれ、一家の暮らしは順風満帆に見えた。

とはいえ、日本が戦争に突き進んでいく時代でもある。

情勢の機微を捉えた父親は一度、家族を朝鮮半島に疎開させようとしたことがあったことがあった。1942年ごろのことだという。

「戦争も始まるし危ないと父が言ってね。私は、父親の故郷で学校に入学したんですよ。あの頃は朝鮮半島でもみんな日本語で教育してましたから、私は日本で生まれ育ったから日本語がうまいわけですよ。そしたらね、入学試験でね、2番目だったんですよ」

ただ、生活はうまくいかず、半年ほどで東京に戻ってくることになった。ちょうどミッドウェー海戦(1942年6月)に日本軍が敗れ、連合軍に劣勢を強いられるようになった時期とも重なる。

まだ小さかったこともあり、金さんが戦争を意識することはなかった。

とはいえ、学校では教育勅語を習った記憶があるし、配給に並んで手に入れたうどん粉を小麦粉の代わりにして、すいとんを食べたことも覚えている。

1944年。3年生のころになると、日本軍の戦況はさらに悪化。本土空襲の危険も高まるなか、子どもたちは学童疎開をさせられることになった。金さんもそれは同様で、その後半に千葉・印旛沼のお寺に身を移すことになった。

出発の日のことは、はっきりと覚えている。家の外まで見送りに来たひとつ下の妹に、照れ隠しなのか、こんな言葉をぶつけてしまったのだ。

「お前の顔が見たくないから、行くんだよ」。このいたずらな一言が、一生の悔いになるとは、この時は知る由もなかった。

あの夜、家族に起きていたこと

1945年3月10日未明。アメリカ軍の戦略爆撃機「B-29」300機あまりが東京の下町を襲った。

1700トン近くの焼夷弾は、木造家屋が密集していたいまの台東・墨田・江東区に大規模な火災を巻き起こした。その様子は、千葉からも見えたほどだ。

「東京のほうが真っ赤になっているのを、みんなで見たんですよ。ああ、これもうちは焼けたと思っているうちにね、1日すぎて、2日すぎて、生き残った人たちの家族は迎えにくるんです」

「そして1人減り、2人減り……私んとこはね、10日ぐらい経ってからもね、来なかったんです。それで、ああ、うちはみんな死んだなと、もう誰もいないんだと、泣いてました。まだ小学3年生ですから……」

寺にひとり残され絶望の淵にいたとき、ようやく父親が迎えにきた。

四谷の親戚の家に向かう総武線で、妹2人が亡くなったことを聞いた。どんな景色が見えたのか、そしてどう思ったのか。金さんは覚えていない。

聞けば、空襲のとき、父親は自らの工場に向かったという。一方、母親と妹2人、そして同居していたおじは、家が燃え始めたことから、近くの小学校に避難したのだ。

しかし、鉄筋コンクリートの校舎はすでにいっぱいで、4人は中に入ることはできなかった。火の手はすぐそこまで迫っており、そのまま校庭の井戸に飛び込まざるを得なかったという。

「ちょっと考えてみなさいよ、3月にね、 水入りますか。それほど、周りは火の海で暑かったんですよ。井戸の中にも何人かいるわけですから、やっとのことで母親と、妹が入れた。おじは蓋の上で、井戸を守ったんです」

井戸の中では、別の事態が起きていた。下の妹の防空頭巾に火が燃え移っており、母親が気を取られているうち、上の妹の姿を見失ってしまったのだ。

「妹が熱い熱いというから、母親は精一杯で水をかけたそうなんです。それでね……」

朝になり、おじが井戸のなかの人たちを引き上げた。上の妹は、井戸の底に沈み、溺死していた。

棺桶は「みかん箱」だった

「あたり一面は、真っ黒焦げの遺体でいっぱいで、その景色を見て母親がショックを受けないよう、おじは着ていたコートを頭から被せたんだそうです。その後、顔に火傷を負いながらも生きながらえた父親と偶然に再会することができ、生き残った家族は、親戚の家のある四谷まで歩いて避難したんです」

なんとか助かった下の妹も数日後に、頭の火傷が原因でわずか4年の生涯に幕を閉じた。ひとり逃げていた別のおじも、亡くなっていたことがわかった。

焼け野原には、何もなかった。妹2人はどこかで拾ったみかん箱を棺桶がわりに、荼毘に付された。母親は生涯、「私が娘を殺したんだ、私が殺したんだ……」と、悔やんでいた。

金さんも、同じように悔いがある。自分があんなことを言ったから、妹は死んでしまったのではないか。そんな思いが、いまも頭から離れることはないのだという。 

「私もね、妹に『お前の顔を見たくない』と言ったことは、あとあとになって、ずっと後悔してるんですよね。俺がそんなこと言ったからこうなったんだなって。親父から電車の中でその死を聞いてから、ずうっと尾を引いてるわけです」

「小さかったからね、生意気なことを言ったんですよ。でもね、普段から仲は良かったし、喧嘩なんてしなかったのに……。もうね、妹とのことは、それだけしかもう、覚えていないんですよ……。写真も何もかも焼けてしまって、2枚しかないんですよ……」

いまでも年に2回の妹たちの墓参は、欠かさない。「小さい子どものままだから」と、墓には必ず、ジュースとお菓子を2つずつ、たむけている。さらに空襲のあった3月には、朝鮮人犠牲者の追悼式にも参列し続けている。

「死んだ人も、いっぱいいるのに」

金さんの妹2人、そしておじの命を奪った3月10日の東京大空襲では、数時間で10万人以上の人が亡くなった。その後の空襲や原爆投下も含めれば、終戦までに日本全国で数十万人が犠牲となっている。

そのなかには当然、当時は植民地で「日本国籍」だった朝鮮半島出身の人たちも、多く含まれていた。金さんの両親のように働き口を求めて移住をしたり、労働力として動員されたりした人たちだ。

正確な統計ははっきりしないが、東京には当時、10万人前後の朝鮮半島出身者が暮らしていたとみられている。一方で、空襲による死者数、被害者数はわかっていない。調査も資料も、日本人犠牲者に比べて少ないからだ。

東京空襲の被害を伝える民間の施設、東京大空襲・戦災資料センターでは2007年から、朝鮮人の被害に関する展示を始めた。

センターを訪れた金さんが「なぜ在日朝鮮人の資料が何もないのか。死んでいる人もいっぱいいるのに」と意見をしたことが、ひとつのきっかけになっているという。

妊娠中の妻を失った人や、日本人の罹災者を炊き出しで支援した人の証言。そして、軍需工場に動員され寮などで亡くなった徴用工の被害ーー。展示では、そうした事実を紹介している。

展示のリニューアルを2020年に担当したセンターの千地健太学芸員は、「日本の被害もはっきりしないが、それ以上に資料がない。実態と被害の掘り起こしが必要」と公的な調査の必要性を指摘。そのうえで、その重要性をこう語った。

「そもそもなぜ日本、そして東京に朝鮮の人たちが多くいたのかという見方が大切です。故郷を追われて日本で暮らさざるを得なかった人たちが、そこに生まれた日本人と同じように空襲で亡くなったり、家族を失ったり、けがを負ったりした。植民地支配の被害のひとつであるという側面を知り、考える必要があると思っています」

「歴史は綺麗事ばかりじゃない」

空襲後、家も財産も失った金さん一家は、山形に疎開。数年後に東京に戻り、貧しいながらも、なんとか生活を立て直した。

若いころは戦争や空襲の話を避けていた、ともいう。両親を亡くしてから、「贖罪」の気持ちがおこり、自らが学び、そして体験を残していくようになった。

「両親もおじもね、話すたんびに空襲の話をしたんです。若いときは、また始まった、なんて思うときもありました。でもね、やっぱりちゃんと知らないといけない、向き合わなきゃいけないって思うようになっていきましたね」

なぜ、妹たちは死ななければいけなかったのか。いったい、誰のせいなのか。空襲や戦争の実態を知るにつれ、金さんの怒り、そして「怨み」は募るようになった。

「劣勢がはっきりしていたときに降参していればね、こんな被害もなかったかもしれない。東京に住んでる小学生を学徒疎開に送るくらいだったのに、なんで戦争をそのまま続けたんですか。なんで、空襲の被害者に対する補償金はなんにもないんですか。責任が誰にあるのか、ちゃんとはっきりしないとだめですよ」

「歴史と事実を覆すようなことをね、平気で言ったりする政治家もいますよね。いわゆる朝鮮人への蔑視、差別感はいまだにずうっと、日本には残っていますよね。このままじゃ私たちの朝鮮人の被害はなかったことにされようとしているんじゃないか、そんなふうに思ってしまいますよね」

あの空襲から、もうすぐ80年が経とうとしている。「これからの世代に伝えていかなければいけない」という思いは、ことさら強い。

「若い人たちに伝えたいことはなんですか」と聞くと、金さんは言葉にこう、力を込めた。

「歴史は、綺麗事ばかりじゃないんですよ。負の事実自体も認識してはじめて、正しい道を選べる。だからこそ、若い人たちに、こうしたことを知ってほしいと思って、私は証言しているんです。決して、忘れていいものではないんですよ」

UPDATE

東京大空襲の日付の表記を修正いたしました。