若い世代を中心にブームを巻き起こしている「タピオカ」は、戦前から日本人に知られている食べ物だった。
実は明治時代にはハイカラな高級食材として、さらに戦争中には、南方に派遣された兵士たちが食べる「代用食」としてーー。
そんな、日本におけるタピオカの歴史を紐解いた。
《「タピオカ」を二合の水に四時間ほど浸し、その水とともに煮立てる牛乳の中に入れ、砂糖を加えて十五分ほど十分に煎えるまで煮るべし。それよりバニラの煎汁を少し加えて型に注ぎ込むなり……》
これは、1894(明治27)年のレシピ集『製法自在 暑中の飲み物』(伊沢雄司、成功堂)に記載された「タピオカ・ブラン・マンジェ」のつくり方だ。
この本はざっくりいえば暑い日向けのおしゃれレシピ集で、隣のページにはレモン汁を使った「タピオカゼリー」の製法も出ている。
そもそもタピオカとは、「キャッサバ」という芋の根茎から製造されたでんぷんのことを指す。このレシピでも、そうした意味合いで使われているとみられる。
実は、いま日本でブームとなっている丸い粒状のタピオカは、正式名称を「タピオカパール」という。
タピオカは、もともと熱帯地域の人たちの主食とされていた。日本に入ってきた正確な時期は明らかではないが、明治以降の西洋化に伴うものだとみられる。
明治のベストセラーでも「タピオカ」
明治時代の『美味しんぼ』だろうか。
当時10万部のベストセラーとなった1905(明治38)年の『食道楽』(村井玄斎、報知社)という本にも、珍しい朝食や病人食、プリンなど計3回にわたりタピオカを使った料理に関する記述がある。
「こうした本に取り上げられたり、ホテルや船旅のメニューに『タピオカプディング』の記載があることから、タピオカは普通の一般庶民とは馴染みのない、珍しい食材であったと考えられます」
そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、『日本におけるタピオカ』という論文の著者で同志社女子大学の非常勤講師、長友麻希子さんだ。
長友さんによると、タピオカはこの頃、高級食材のひとつとして、フランス料理などでスープに入れたり、プリンやゼリーなどのデザートとして用いられたりしていた。
「大正期から昭和初期にかけて洋食が普及していったように、タピオカもまた女性雑誌に取り上げられているので、そういった雑誌を読むような人々の間では、少しずつ認知度が増していったのではないでしょうか」
あの人も食べていた…?
長友さんのいうように、大正や昭和初期のレシピ本などでは、タピオカへの言及が増えていく。
江崎グリコがキャラメルを発売したのは1914(大正3)年。その原料であるでんぷんのため、台湾(当時は日本統治下)や南洋諸島(ベルサイユ条約により、1922年から日本の委任統治下)からのタピオカ輸入はこの時期に増加していった。
1925(大正14)年の『タピオカに就て』(井岡大輔、釀造學雜誌)という論文では、「タピオカパール」に加え、「タピオカ製粉」や「タピオカフレーク」を三井物産などがシンガポールやジャワ島(現・インドネシア)から輸入していたことが記されている。
また、1928(昭和3)年4月の女性向け雑誌『主婦之友』(主婦之友社)では、「タピオカ・プディング(*プリン)」のレシピに以下のように書かれている。
《タピオカというのは、ちょっと道明寺(*もち米を原料にした粉)に似たもので、小さい玉のような菓子の原料です。大抵の食料品店で売っております》
小さい玉のような菓子ーーつまりいまは一般的なタピオカ(タピオカパール)は、「主婦之友」の読者層にはある程度認知されていたようにも読み取れる。そしてタピオカそのものが、「大抵の食料品店」で売っていたということも、だ。
ちなみに民俗学者、柳田国男もタピオカを食べていたことがわかっている。1934(昭和9)年に出版された『民間伝承論』(共立社)にはこんな記載がある。
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある」
タピオカに近づく戦争
しかし、そんなタピオカにも戦争の足音は近づいていた。
満州事変(1931年)や日中戦争(1937年)、そして太平洋戦争(1941年)と、日本が戦争への道を歩んでいくことになるからだ。
戦争には食べ物が必要になる。1941(昭和16)年には、東京で米の配給制がはじまり、全国に波及。国内の食料事情は、徐々に悪化していくことになった。
そこで注目されたのが、米の代用食としての「タピオカ」だった。
1942(昭和17)年、日本はイギリス領だったシンガポールを占領。オランダが植民地支配していたジャワ島(いまのインドネシア)を統治下に置いた。
特にジャワ島は、もともとタピオカの産地や輸入元としても知られている地域だ。この年に陸軍第二十四野戦貨物廠調達部によって書かれた『爪哇島(*ジャワ島)に於ける資源』という本には、「タピオカ」の欄がある。
また、軍隊の食料物資の調達などを担った陸軍糧秣本廠が同年に出した『現地自活ノ栞』では、タピオカでんぷんの製造法や、タピオカパールに似た「サゴパール」のつくり方を紹介しているという。
「大東亜戦争の重要な作物」に
また、1943年の『南洋資料』(南洋経済研究所)という雑誌の225号「南方のキヤッサバ栽培」には、こんな記載がある。
《今日日本は(…)敵の幾多の重要なる土地、資源、人を獲得した。
獲得した土地、資源、人、戦略地域の活用が充分なされて始めて、世界に富力を誇り米英に対し、物質的に一対一の地位に到達することができたと言い得られる。
キャッサバ(*タピオカの原料)は熱帯農業の一資源であり、特に大東亜戦争に依りて、新しくわれわれの上に重要な作物として登場した》
その用途としてはでんぷんのほか、「キャッサバ米」の記載がある。これは「タピオカパール」のこととみられ、「米と混合しても判別し難く、食味も可良なる」とお墨付きだ。
本当に、日本兵たちはタピオカを食べていたのかーー?長友さんは言う。
「補給が乏しかったなか、現地の食料資源としてタピオカを食べざるを得なかったのではないのでしょうか」
長友さんによると、陸軍経理学校同窓会の若松会の『陸軍経理部よもやま話続編』(1986年)には、「北スマトラでは、精米の軍補給量の制限により、不十分を甘藷、タピオカ、玉蜀黍の栽培で補った」という記録が掲載されていた。
ただ、「タピオカパール」を米の代わりに食べた、という記述とはいまだに出会っていないという。
「タピオカ米などに関しては、本当にそれをその通りにつくって食べている余裕があったのでしょうか、と思います。つらいですが、陸軍などの資料に書いてあることは慰め、気休めに過ぎなかったのでは」
タピオカの奥にあるもの
1944(昭和19)年ごろを機に、戦況は大きく悪化し、日本はそのまま敗戦へと突き進んでいった。南方の戦地では補給線が途絶え、食糧難が加速。「現地自活」をする余裕もなくなり、最終的に餓死者が多発した。
日本軍の戦死者は230万人とされている。そのうち、餓死者は61%(140万人。栄養失調に伴う病死を含む)、少なく見積もっても37%という推計がある。
長友さんは、当時の資料に触れるたび「辛い気持ちになる」という。そのうえで、こうも語った。
「いまの私たちからすれば、高級食材だったタピオカが戦争の代用食になっていったという経緯は皮肉に見える。しかし認知度がそこまで高くなかったことも踏まえると、当時の人たちにとっては、その感覚は少なかったのでしょうか」
「とはいえ、タピオカの奥には、日本が海外文化をどう取り入れてきたのか、さらにどう戦時中に食料を確保したのか……という歴史を含めた広い世界があります。単においしくてつるっとした可愛いものではなく。紐解いていくと、色々なことがわかるんだと、知ってもらえれば」
(文中、旧仮名遣いを一部現代仮名遣いに修正しました)
・参考文献
「日本におけるタピオカ」(長友麻希子、同志社女子大学生活科学、2003年)
「戦争と平和の事典」(高文研、1995年)