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戦時中の子どもたちは、どんな夏休みを過ごしていたのか

太平洋戦争末期。子どもたちが「夏休み」を休むことは、許されなかった。

いまから72年前、日本は戦争に負けた。それは、いわば子どもたちの夏休み期間に当たる、8月15日のことだった。

戦時中、「少国民」と呼ばれていた子どもたち。彼ら、彼女らが過ごした夏は、いったいどんな日々だったのだろうか。

当時、唯一発刊されていた子ども向け新聞の紙面から、振り返ってみよう。

「戦時下に置かれた子どもたちの夏休みは、もはや『夏休み』ではありませんでした。彼らは、大人に管理されていた」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、戦時中の児童文化に詳しい大妻女子大学短期大学部教授の熊木哲さんだ。当時の小学生新聞を辿り、子どもたちの暮らしぶりを研究している。

戦時中、唯一の小学生向けの新聞だったのは「東日小学生新聞」(のちに少国民新聞に改題)だ。東京日日新聞社(毎日新聞社の前身)が発行していた。熊木さんは言う。

「戦争が始まったころは、まさに今の平和な時代と変わりはないんです」

そもそも、日本が戦時体制に入るきっかけとなったのは、1937(昭和12)年に始まった日中戦争だった。

翌1938(昭和13)年にはこれに関連し、「国家総動員法」が施行された。これによって、人、モノを政府が統制できるようになった。

それでも、戦争初期の「夏休み」は健在だったという。熊木さんによると、この頃の夏休みの時期はいまとほとんど変わらない。7月20日ごろから、8月31日までだ。

当時の東日小学生新聞を見ると、水泳大会や林間学校、職業体験に参加する子どもたちが紹介されているなど、いまの夏とさして変わりはない。

「少国民の愛国進軍 夏休み中に献金募集」(37年8月)などの記事がいくつか散見される程度だ。

「夏休みはただの休みではない」

「ただ、だんだんときな臭くなります。『夏休み』の戦時色が顕著になりはじめるのは、39年ごろからですね」

1939(昭和14)年7月2日の1面には、こんな記事が掲載されている。

夏休みはたゞの休みではない 身と心を鍛へる時期

新東亜建設のための大切な戰ひを続けてゐる時、夏が来たからと云つて、生徒たちが今までのやうに、唯永いお休みをしたのでは、国民として申しわけがない、もつと有意義にこの夏を使はなければならないと云ふので、文部省では先だつてそれぞれの地方長官に注意をしました。

従つて今年からはどの学校でも、児童たちに暑中休暇は、永いお休みであると云ふ考へ方を捨てさせて、一層身体を鍛へ、心を磨く時とすることになりませう。この文部省の企ては小学校から大学まで皆同じであります。

「夏休み」は休むとする従来の考えは、戦争中には「国民として申し訳ない」。そうした考え方は「捨てさせて」、身体と心を鍛錬する期間にしよう、ということだ。

夏休みが始まった翌日の7月21日には、「一学期を終へて“夏の鍛錬”へ」との記事もある。

一学期が終りました。今日から夏の鍛錬日ですね。去年までは暑中休といつてをりましたが、非常時の折から、遊んでばかりゐたり、寝ころんでばかりはをられません。

戦地の兵隊さんのことを思ひ、皆さんもやがては国防の第一線に立たなければならない大切な身体ですから、この四十日間にみつちり鍛へて、お役に立つやうにと、暑中休を夏の鍛錬日と改めました。

このような施策の背景には、近衛文麿内閣が起こした「国民精神総動員委員会」がこの年の6月に決めた、公私生活を刷新し戦時体制化をするの基本方策がある。

「個人主義的、自由主義的生活態度の弊風を粛正して益々国民的、奉公的生活態度を強化」することを目的にしており、早起きや節約と貯蓄、心身鍛錬などを呼びかけている政策だ。

労働力となった子どもたち

子どもたちの夏休みも、時局に伴い「夏季鍛錬日」とされた。東日小学生新聞もその風潮に抗うことなく、「鍛錬競争」という写真連載を始めている。

たとえば8月6日。「この意気で開け大陸」には、「校長先生の指揮で、荒果てた草むらの開墾作業に一心不乱です。東京都下目黒校の林間学校」とのキャプションが添えられている。

8月8日には「夏と戦ふ」。キャプションには「砂利採取の勤労作業。汗だくになりながら酷暑征服の鍛錬です。東京市八王子校の高等科」だ。

熊木さんは言う。

「この頃から、男性が兵隊にとられて働き手が少なくなる。鍛錬という名目で子どもたちを労働力として使ってしまおうという考え方が裏に透けて見える」

「当時の『鍛錬競争』を読むと、子どもたちがいろいろなことをやらされていますよね。東京のみならず各地方の学校ごとに様々な施策を実施していますが、これは各校長が目立とうと文部省の考えを『忖度』した結果かもしれません」

それでもまだ、戦争一色とまでの状況にはなっていない。

8月19日には「汀の歌に鴎も躍る」。鍛錬というお題目で、横浜市の本牧海岸で海水浴を楽しむ横浜の子どもたちの写真が掲載されている。

このような時勢は、翌年以降にも引き継がれる。1940(昭和15)年の東日小学生新聞の写真連載は「夏と戦ふ」だ。

たとえば8月21日は「機械の響きに心はをどる」。キャプションには「ぼろきれから毛糸をつくる。僕等は銃後の産業少年戦士だ。足立区江北校高二男子十二名の夏期実習」とある。

そのほか、薪を運んでいる子どもたちや時計工場に「夏期実習」にいく子どもたちなど、労働させられている様子が手に取るようにわかるものが増えている。

さらに1941(昭和16)年に入ると、戦時体制はより強化された。

小学校は「国民学校」に変わる。戦時体制の即応と皇国民の育成が目的だった。あわせて東日小学生新聞の名前は「少国民新聞」へと変わっている。

その夏の写真連載は「夏と少国民」だ。8月20日は「鳥海山もにっこりと 増産部隊に笑顔=秋田県で一番大きな大曲校=」という記事。

「夏の授業のない間に、うんと収穫をあげやうと大地に勤労の鍬を打込んでゐる」と書かれている。

それでもまだ、この時はまだ「勝ち戦」だ。世間の空気にも余裕があったのか、登山や水泳、兵隊ごっこに興じる「楽しげ」な子どもたちの姿が、紙面には記録されている。

太平洋戦争下の「夏休み」

しかし、日本はこの後、泥沼の戦争へと足を踏み入れていく。この年の10月、東条英機内閣が成立。12月8日には真珠湾攻撃とマレー半島上陸を機に、太平洋戦争が始まった。

翌1942(昭和17)年。少国民新聞の1面(6月21日)に、こんな記事が掲載されている。

「大戦下の夏休み 三十一日以内の事 錬成の団体旅行もよし 文部省でとりきめ」

第一学期も近く終り、夏の鍛錬期間に入りますね。今までは大ていの学校が、七月末に授業を終つてゐました。今年は文部省で、全国の国民学校、中等学校、師範学校とも、特に一学期の終りと、二学期の始りを、その土地の事情に応じて自由にさせ、鍛錬期間を三十一日以内と限ることにきめました。

早くから暑くなる地方では、七月中頃に一学期を終り、八月中頃から二学期を始めていいわけです。また農業が忙しければ、三十一日以内の日数で、繰上げ、繰下げができます。

一方、学校の団体旅行は、昨年九月から、鐡道輸送を混雑させぬため、なるたけ差控へて来ました。

しかし戦時下青少年の身心鍛錬は大切なので、鐡道省と相談の上、十二月十五日まで学術研究、教育実習、精神の昂揚、体育運動、野外演習、臨海学校や林間学校等の旅行は、してもいいことになりました。

大東亜戦争下最初の夏です。うんと心身を鍛へませう。

太平洋戦争が始まって最初の夏休み(鍛錬期間)は、従来の日程よりも10日間ほど削られた、ということだ。

また、地方ごとの都合にあわせて良いという言葉の裏側には、戦線が拡大したことによる国内の働き手不足の深刻化がある、と熊木さんはみる。

「この頃には総動員体制が確立され、子どもたちが勤労奉仕をしているのが当たり前になっていることがわかります。以前のように楽しんでいるような装いの記事も減ってきている」

この年には写真連載は見当たらないが、翌1943(昭和18)年には「夏も戦ふ少国民」がある。

2年前よりも、明らかに戦時色は強まっている。渋谷駅の切符売りや多摩川べりの農園開墾にとどまらず、日立製作所や凸版印刷工場で働く子どもたちも写されている。

「火花散る電気炉〜ここは僕たちの戦場だ」(8月20日)

朝は七時半から夕方四時まで働くのだが、あまり苦しいとは思はない。苦しい時には南方の兵隊さんのことを思ふ。さうすると、何糞といふ頑張りの心が生まれて来る。(写真は日立製作所で汗と戦うお友達)

もはや、いち労働者だ。

内地への空襲はまだ始まっていなかったが、外地の戦況はすでに思わしくなかった時期。この年の10月には「学徒出陣」で多くの若者たちが戦場に向かっていった。

そして夏休みは、なくなった

熊木さんが「夏休みの様子がガラッと変わる」と表現するのが、1944(昭和19)年だ。

「この年の2月に、『決戦非常措置要綱』が決定されます。もはや勤労奉仕は『夏休み期間』だけではなく、日常からやらされるようになる、ということです」

2月25日に閣議決定された決戦非常措置要綱により、学徒動員の強化や旅行制限、休日削減、高級享楽の禁止などが盛り込まれ、国民生活の制限が徹底されたのだ。

これにより、初等科以外の子どもたちの授業は4月から停止され、勤労動員されることになった。その内容は、「少国民新聞」(2月27日)の1面でも大々的に伝えられた。

「国民は全部戦士だ〜今までの暮らし方を捨てよう」

いよいよ差し迫つて来た決戦の模様に合はせて、国民の一人一人が、戦士であるといふカクゴをしつかりと身につけて、一億一心すべての力を、直接、戦力増強の一点にそそぎ、いまのいま必要となつているいろいろな仕事を、すみやかに実行するとともに、次の非常の処置をはかる。

戦局は、どんどんと悪化の一途をたどる。

6月には北九州にB29による初めての空爆があり、7月にはサイパン島が陥落。日本軍が玉砕した。同じ月には、東条内閣が総辞職している。

そして迎えた終戦1年前の8月。ついに子どもたちの「夏休み」は、なくなった。

少国民新聞、7月22日の記事「決戦下のなつやすみは暑さに勝って敵撃たう」にはこうある。

敵がマリアナ諸島にまで侵攻し、わが本土を狙つてゐるこの決戦下、みなさん少国民の夏休みはどうなるのでせうか。文部省では、昨年通りで、特別に命令を出さぬことに、昨十一日きめました。

中等学校以上の兄さんや姉さん方は、工場や農村に動員し、引き続き戦力増強に奮闘するので、夏休みはなくなるわけです。文部省では、少国民とはいへ、夏休みを返上し、食糧増産やその他の勤労に汗を流すことは、もちろん賛成してゐます。

授業を休むといっても、学校防空や鍛錬、学校農園での食糧増産や工作作業に奮闘することになつています。

それらのお仕事も、学校から学校の附近ですることにし、交通機関を利用するやうな遠い所へ行くことは許されません。

子どもたちの夏休みを返上させ、勤労動員をするという戦争初期には隠されていた目的さえも、ついにあけっぴろげにされていることがわかる。

また、この夏には、国民学校の3〜6年の子どもたち(いまの小3〜6年)を対象にした集団疎開も始まっている。それまでは親戚を頼る「縁故疎開」に限られていたものが、都市部の学校単位までに広がった。

7月29日には、「四十万人の大進軍」として、集団疎開を伝える記事も出ている。政府側には、「夏休み」の期間に疎開を済ませてしまおう、という考えがあったようだ。

これまで4面だった「少国民新聞」は、紙不足を理由に44年4月から2面になっている。その分内容も乏しいが、それでも、疎開先で暮らしたり、勤労動員に駆り出されたりしている子どもたちの様子が紹介されている。

「私たちの生活」という疎開先の様子を伝える写真連載もある。たとえば、ちょうど戦争が終わる1年前、8月15日の「元気で働かう 高等科の通年動員」という記事。

「都下一万三千人の、高等科生の通年動員第一陣は、十二日、雄々しい進軍をはじめました」との文章とともに、工場に迎え入れられる女子生徒の写真が掲載されている。

また、その左には「お家へ第一信〜宮城県へ疎開の学友」として、東京の実家に手紙を書く子どもたちが見える。

子どもたちは、犠牲者だった

「少国民新聞」は1945(昭和20年)3月31日、「一社一紙体制」の徹底を理由に、休刊した。記録の残っていない戦時最後の「夏休み」はさらに悲惨なものだったのではないか、と熊木さんは見ている。

「新聞を見ると、空気が徐々に徐々に変わっていることがわかる。気づいたときには遅かったということが、夏休みひとつを通じても見えてきます」

当時の新聞が政府のプロパガンダであったことを留意すれば、子どもたちの実態はより厳しいものだった可能性があるとも指摘する。

「本来学校に行かず、友達との遊びや家庭の中で成長できるはずの楽しい『夏休み』は、自主性がなく、管理された時間になってしまった」

「こういう方針を決めていたのは大人たち。政府が決定し、実践していたのは、現場の教員や母親たちです。怖いことですよね。子どもたちは犠牲者だった」

取材の終わり。熊木さんは、つぶやくようにこう語った。

「いつまで経っても、子どもたちが歓声をあげて、自由に遊べる夏休みであってほしいですね」


BuzzFeed Newsでは戦前の夏休みについて【100年前の子どもたちの「夏休み日記」を読んでみた】という記事を掲載しています。


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