太平洋戦争末期、激戦の地となった硫黄島。
小笠原諸島の南端ちかくにあるこの島は、かつて1千人以上の人々が暮らす、穏やかな島だった。
あの戦争以来、生まれ故郷に戻れなくなった女性は、言う。
「あの島は、お墓になってしまったんですよ」
「冬を知らない島だったんですよ。いつもあったかくて、食べ物も豊富でね。特に果物がおいしいんです」
そうBuzzFeed Newsの取材に話すのは、奥山登喜子さん(85)だ。
硫黄島で生まれ、戦争によって故郷から強制疎開をさせられた経験を持つ。
「大好きな島ですよ。森林があって、サトウキビの甘い匂いが混じった空気もおいしくて。頭にも心にも、地図としてしっかり、残っていますよ」
毎日が、楽しかった
父島生まれ、硫黄島育ちの父親と、硫黄島生まれ、硫黄島育ちの母親のもとに生まれた。
7人きょうだい、下から2番目の娘だった。母親は奥山さんが3歳のころに亡くなり、3番目の姉や2人の兄が、母代わりに面倒を見てくれたという。
家のまわりには防風林があり、「一軒家くらいの」ガジュマルやタマナ(テリハボク)の木が鬱蒼と茂っていた。
島での記憶は、楽しいものばかりだ。「いつも、遊んでいましたよ」
毎日のように歩いて浜辺に行っていた。歩いて15分くらいのところにあった「セイモ海岸」が特にお気に入りだった。
「岩の多い海岸なんですよ。そこでみんなが泳いでね。釘の先を金槌で潰したやつで岩場のヒラミ貝を取って、海辺に沸いている温泉で湯がいて、食べていましたね。ウニも取って、その場で食べていたんです」
鍋や釜、食材を持って浜辺に行くこともあった。「浜遊び」と呼んでいた、いわばピクニックだ。のんびりご飯を食べて、大人達は「糖酎」を飲んで。みんなで、笑いあった。
庭にはマンゴーがなっていた
暖かい島だから、食に困ることはなかった。
食卓は魚が中心だ。マグロやサワラの刺身を醤油で漬けた「ヅケ寿司」をよく食べたと言う。
もちろん、肉料理もあった。家では「100匹くらいの鶏を放し飼い」にしていたし、豚もいた。
島にいた海軍の幹部が家に遊びにくるときは、そうした肉ですき焼きをつくってもてなした。
野菜も豊富だったが、子どもだった奥山さんが大好きだったのは、果物だ。
「マンゴー、パパイヤ、バナナ、パイン、グァバ、パッション……とにかくどれも美味しくってね。庭にはたくさんのマンゴーの木が生えていて、近所の人が籠を背負って取りに来ていたんですよ」
「そうした木々がね、実がなる季節になると、夜風に吹かれるたび、ゴロゴロ、ゴロゴロという音がするんです。重たくなったマンゴーが屋根の上にぶつかっているんですね。いつもそれを聞きながら、眠っていました」
電気もほとんど通っていない島だ。そうした夜になれば、頭上には「ぶわっと降ってくるほど」の星たちが、張り付いていた。
地熱でふかして食べたサツマイモ
島の中心部は、元山地区にあった。
学校や病院、商店、警察、そして役場が立ち並んでいた。家からは、子どもの足で30分ほどの距離だ。父が働いていた測候所も、そこにあった。
「元山のあたりに”噴火”と呼んでいる場所があってね。マグマがグツグツとなっていて、煙もいっつもあがっていたんです。学校からもすぐ近くにあって、いつも見ていましたよ」
「上級生は、学校が始まる前に卵やサツマイモを土に埋めてね。放課後のころには、地熱であったまって食べごろになっている。それをもらって食べながら、帰ったこともありましたね」
水飴、凧揚げ、コカ畑
学校での運動会では、父親と姉がちらし寿司をつくってくれた。
広場に櫓を建てて踊った『東京音頭』。手づくりで競った正月の凧揚げ、製糖工場に行くたびにもらった水飴、「青年団」に所属していた兄達が働くコカ畑、サトウキビ畑……。
本土から届いた漫画を読むと、よく叱られた。雨が少ないとき、硫黄島神社で雨乞いのお祭りをしたことも、昨日のことのように覚えている。
どれも青々とした、楽しい思い出ばかりだ。
そして、戦争が始まった
戦争の影が色濃くなってきたのは、1944年のことだ。
気がつけば、家のまわりには、「陸軍の兵隊さん」たちがテントを建てて住まうようになっていた。
「役場の助役の娘さんと仲良くなった兵隊さんがいてね。ある日、集合時間に遅れてしまったんです。うちの近くの広場でね、ビンタさせられているのを見て、悲しくなったのを覚えていますね」
ガジュマルとタマナの木の間には、防空壕ができていた。ある日、兵士たちが坂道を駆け上がって来た。
「もう終わったの?」と尋ねると、顔色を変えた兵士たちが叫んだ。「空襲だ!早く避難しなさい!」
コカ畑を一気に駆け抜けた時、頭上を米軍の戦闘機「グラマン」が通過して行った。奥山さんにとって、初めての「戦争」だった。
「とても近くを飛んでいたんです。大きくてね。飛行機と十字に走ったから、無事に済んだのだと思っています」
数日後には、艦砲射撃も受けた。近くに着弾すると、防空壕がドスンドスンと揺れ、ザーッと土が落ちてきた。
周りの子ども達が泣き叫んだ。でもなぜか、涙は出なかった。怖さよりも、この先が不安で仕方なかった。
2人の兄は、島に残った
7月。戦局が厳しくなったことを受け、住民は、硫黄島から去ることになった。強制疎開だ。
しかし、2人の兄だけは、島に残ることになった。地元民として、若い男性82人が守備隊の手助けを命じられたからだ。
軍部との間を取り持った島の有力者には、「終わったらすぐ、追っ付け帰すから」と言われていた。もちろん、それを信じていた。
島を去る日。マンゴーがもうすぐで熟す時期だったのを覚えている。奥山さんは、家の近くの兵士に言った。
「とって、食べてね」
風呂敷包みひとつを手に、船に乗り込んだ。ふと外を見下ろすと、下の兄がじっと、波打ち際から、船を見つめていた。
ふと、「もう帰ってこられないんかな」とつぶやいた。姉に「憲兵に聞かれたらどうするの」と叱られた。
硫黄島から届いた手紙
横浜の港に降ろされた。自然がなにひとつない街並みに、唖然とした。
「家と家がくっついて建っていて。アスファルトばかりで土も草も、木も生えていない。どうやって暮らしていけばいいのか、わかりませんでした」
一家はしばらく、東京のお寺の講堂に仮住まいすることになった。その後、疎開で空き家となっていたところに移り住んだ。
家の近くに住んでいた日本兵から一度だけ、手紙が届いたことがある。そこには、こう綴られていた。
「あんちゃんたちは、ちゃんと元気にしている。心配しなくて良いからね」
だからこそ、兄たちとはすぐに会えると思っていた。しかし、それは叶わぬ夢となった。
1945(昭和20)年3月17日、硫黄島守備隊の玉砕が、伝えられたのだ。
その日は、奥山さんの12歳の誕生日だった。
島に帰れると思っていた
ここまで話をしてくれた奥山さんは、涙を拭いて、言った。
「私、それ以来、誕生日を祝うことはしていないんです」
あとになって、東京の寺に白木の箱が届いた。遺骨はもちろん、入っていなかった。
もしかしたらアメリカ兵の捕虜に取られて、どこかで隠れて暮らしているのかもしれない。そんな希望は、いまも捨てられていないという。
「穏やかな2人でね、ほんとう、いつも優しくしてくれたんですよ。『誕生日は祝いなさい』というかもしれないけれどね、私は大丈夫、そうしたくてそうしているの、と伝えたいですね」
終戦の翌年、祖母が亡くなった。厳しい冬に、耐えられなかったという。3年後には、母親代わりだった姉も、この世を去った。
「いつかみんなで、島に帰れると思っていた。もう73年です。こんなに長くなるなんて、あの日には思っていなかった」
あまり島のことを語らなかった父親は戦後、夜になると布団に入ったまま、煙草をずっと、ふかしていた。
兄に、知らせたいこと
硫黄島の戦いで戦死した人の数は、日本側が約2万2千人、アメリカ側が約6800人とされる。
「あの島はいま、お墓になってしまったんです」
奥山さん自身、これまで7度、島に渡って遺骨収集などに参加してきた。兄たちの手がかりを少しでも探すためだ。
島にはいまも、1万柱以上の戦死者の遺骨が眠る。政府による収集事業は、遅々として進んでいない。奥山さんは、ひたすらに哀しいという。
「兄たちの遺骨だって、見つかっていないかもしれないから。早く知らせてあげたいんですよ、戦争は終わったんだよ、って」
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